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鎌倉というのは、地理的に便利な土地ではない。
今日でも「鎌倉は狭くて不便だ」と、観光客には不評だ。
関西の人には、「鎌倉は京都に比べて、あまりにもみすぼらしいので、がっかりした」と言われる始末だ。(比較する方がおかしい、とも言えるが。)
京都はともかく、奈良と比べても同様だ。「鎌倉は奈良より、はるかに劣る。鎌倉なんてただの住宅街だろ」と評されてしまう。
→ 奈良と鎌倉の格差が生じた理由 - Yahoo!知恵袋
では、そんな辺鄙な場所に、どうして鎌倉幕府は開かれたのか? 奈良や京都が開かれた時代(飛鳥時代・奈良時代、平安時代)に比べて、鎌倉時代はずっと後代なので、鎌倉の方がずっと発展していてもいいはずなのに、実際にははるかに小規模な都市にしかならなかった。そんな場所に幕府を開いたのは、どうしてか?
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そこでググると、次のような説(ほぼ定説)が紹介されている。
●守りやすい地形だった
まわりの丘と海が、敵の攻撃から守るのに、つごうのよい土地とされていました。
●源氏にゆかりのある土地だった
頼朝の父 も義朝や兄 義平も、鎌倉に住んでいました。このように、鎌倉は、源氏にゆかりのある土地だったのです。
●京都から、はなれた所にいたかった
新しい政治のしくみをつくり、育てていくには、古いしきたりなどにとらわれない、新しい環境 を必要としました。そこで、京都からはなれた鎌倉を選んだ、という理由もあるようです。
( → 源頼朝 はなぜ鎌倉に幕府を開いたの )
(1)既に地盤があり、都合が良かったから
(2) 鎌倉の地形が天然の要塞だったから
(3)八幡宮が武士達の精神的な支えだったから
(4) 八幡宮は、由緒正しい清和源氏の氏神様を祀る神社
( → 鎌倉幕府の場所は、なぜ鎌倉に?地形と人脈に隠された3つの理由 )
つまり、地形(軍事的意味で)と人間関係とが理由だった、というわけだ。
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一方、本項では新たに別の理由を提唱しよう。それは、先の邪馬台国・別府説 と同様の理由だ。つまり、こうだ。
「そこには湧き水があったので、定住に有利だったから」
実際、鎌倉は湧き水が(豊富とは言えないまでも)ちゃんとあったことが知られている。
中世鎌倉では、良質な「水」は鎌倉が海に近く標高が低いことや、地下地盤(凝灰岩層)の構造などから、手軽に手に入る代物ではなかったようだ。
市内の発掘調査では、たくさんの井戸が集落の多かった若宮大路や今小路周辺で発見されているが、こんこんと清水が湧き出るものというと、「銭洗水」(佐助)をはじめとする「五名水」や、「十井(じっせい)」(10箇所の井戸)と呼ばれる井戸があげられる。
江戸時代(17世紀後半)、水戸藩主であった徳川光圀公(水戸黄門)は、『新編鎌倉志』の中で「鎌倉に五名水あり」と記しているほか、『鎌倉日記』では、「十井」のうちの「泉の井」(扇ガ谷)について、「泉井谷ノ辺ニ潔キ水湧出ル也」と記すなど、鎌倉産のおいしい「水」に親しんでいたことがうかがえる。
( → 鎌倉のとっておき〈第26回〉 鎌倉の「水」今昔と黄門様 | 鎌倉 | タウンニュース )
一般に、湧き水があるのは、山裾(山のふもと)である。山地に降った雨が、山の内部で地下水となり、山のふもとで湧き水となって溢れ出るからだ。その意味で、鎌倉はそばにある三浦半島や横須賀の山地の水が出ていたようだ。(上記記事では、富士山麓の水が伝わったと記しているが、それは誤りだろう。)
この点では、湘南海岸のそばの平地は、不適である。そばに山がないので、湧き水が出るはずないからだ。
湧き水があるという点では、鎌倉よりも西側の丹沢のあたりの山裾でも、差し支えないように思える。実際、そのあたりには湧き水が多い。
しかし、丹沢のあたりの山裾には、別の難点がある。西側がすべて山地なので、そこを中心にして都市が開けにくいのだ。これは、全国の中枢たる幕府を置くためには、不適である。
実際、鎌倉を中央として、そこから広く各地に勢力が広がっていた。

出典:世界の歴史まっぷ
こういう地理的関係から、西に山地のある関東平野西部は不適だった。また、このあたりは坂がやたらと多くて、平地が少ないので、都市建設には不適だという意味もある。
関西では、奈良には湖があったし、京都には淀川があった。どちらも水には恵まれていた。一方、関東にはそういう好適地はなかった。そこで、せいぜい鎌倉のような小さな領域で、かろうじて幕府を置くことにしたのである。そこはもともと狭い領域なので、大きく発展する余地もなかったが、都市が発展するよりも先に、幕府自体が滅びてしまったので、(都市発展のあとで)鎌倉の狭さが問題となるほどの時間的余裕もなかった。
※ 奈良や京都は、300〜400年間の時間をかけて発展したが、鎌倉幕府は 148年間しか続かなかった。
※ 鎌倉幕府が滅びたのは、元寇のせいで多大な出費を迫られたからである。
→ 元寇に神風は吹いたか?: Open ブログ の [ 付記4 ]
なお、関東平野の内陸部では、湧き水も少なかったし、井戸水も低品質だった(塩水だった)し、川の水はやたらと氾濫していた。
この問題を解決したのは、後代の家康である。
・ 水は、井の頭から上水道を引いた。
・ 氾濫は、河川の大工事で解決した。
前者(上水道)については、前に別項で詳しく解説した。
→ 井ノ頭か、井の頭か?: Open ブログ
「家康が江戸を開こうとしたとき、当初の江戸は一面の草原や森であった。そこを切り開いて、(大阪・京都をしのぐ日本最大の)都市を構築しよう、と家康は決意した。そうして徐々に土地を開墾していったものの、井戸から取れるのは塩分の多い地下水(海水まじり)が多くて、とても飲めたものではない。それでも我慢して飲んでいたようだが、これじゃ困る。そこで家康は部下に、上水(水道)を引くようにと命じた」
後者(河川の大工事)については、前に別項で詳しく解説した。
→ 利根川と荒川の直線化(歴史): Open ブログ
利根川が人工的な川であることは、「利根川の付け替え」という言葉で知られている。江戸時代に徳川幕府が河川の大工事をして、利根川の流れを大きく変えてしまったのだ。それまでは東京湾に注いでいたのを、千葉の銚子に届くように変えたのである。
以上のようにして、家康のおかげで、関東(特に江戸)では、水の問題が解決された。だから、水の心配がなくなった江戸は、広大な土地を利用して、どんどん発展していった。そのおかげで多大な米を生産した家康の領地はとても豊かになり、家康は豊臣家をしのいで日本を支配することができるようになった。
ただし、それは後代のことである。
鎌倉時代ではどうだったか? 関東はまだ未開の土地だった。人はいたが、人口密度は低かった。何よりも水が不足していた。
そこで、まずは水のある場所で、そこそこの都市が形成されていった。たいていは関西から太平洋岸に沿って、東進していった。尾張名古屋のあたりはすでに繁栄していたが、静岡の沿岸は平野部も小さくて、あまり発展しなかった。
そしてようやく関東平野に到達すると、とりあえずは小田原のあたりで都市建設をした。だが、そこは関東平野の一部ではなく、関東平野とは山で隔てられた一画だったので、不十分だった。
そこから東進して、湘南のあたりに出ると、ようやく関東平野に入ったが、湘南のあたりは、山裾ではないので、湧き水が不足していて、人が住むには不適だった。
そこからさらに東進すると、鎌倉でようやく、きれいな湧き水と出会った。そこで、この地で都市建設をして、源氏の先祖が栄えた。これが鎌倉幕府の礎となった。
鎌倉からさらに北進してもいいのだが、当時の横浜や江戸は、山裾にはないので、豊かな湧き水には恵まれなかった。とはいえ、小さな山ならばたくさんあったので、それなりの小さな湧き水は多く得られたようだ。その意味では、人が住めないわけでもなかった。ただ、湧き水は広い各地に分散していたので、人口が集積するようになるには、かなりの長い時間を待つ必要があったようだ。特に、十分に都市発展ができるようになるには、家康による神田上水ができるまで待つ必要があったようだ。
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ともあれ、以上では「湧き水の必要性」を重視して、「鎌倉に幕府ができたわけ」を説明した。
この説明は、「邪馬台国別府説」と同様である。
「都市にとって何よりも大切なのは、水である。特に、湧き水である」
という観点から、日本における文明の発祥の問題を論じたわけだ。
【 関連項目 】
次の話も大事だ。
江戸に上水を引くことにして、神田上水というものが見事に完成したのだが、その上水道の源流となるのが、井之頭池だったのだ。
こうして上水道ができたことで、江戸には真水がもたらされるようになった。かくて、その後の人口増加と都市の発達がもたらされた。
現在の日本最大の都市である東京の、その源泉となるものは、井の頭池なのだ。ここには非常に大きな意義がある。いわば東京のルーツみたいなものだ。
こういう真実をきちんと理解しておこう。
( → 井ノ頭か、井の頭か?: Open ブログ )
