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愛知県の芸術祭は「企画展の中止」で落ち着いている。この状況でいいのか?
私は「ダメだ」と考える。「企画展の中止」をやめて、「2作品の中止」(または別会場で展示)にするべきだ。つまり、2作品以外は公開するべきだ。そう考える。
( ※ 「公開すべし」という意見を表明した芸術家集団もある。)
一方、「企画展の中止」で落ち着いているのを受け入れて、「このままでいい」と考える人も多い。その理由は、次の通り。
「これは、政治的な理由で中止を決めたのではなく、安全上の理由で決めたのだから、このまま中止状態でもいい」
これは県知事の方針を支持するものだ。
しかしこれは、論理的に破綻している。なぜなら、脅迫者が要求したのは「少女像の展示中止」であって、「全作品の展示中止」ではないからだ。「全作品の展示中止」は、脅迫者が要求したものではなくて、県知事が独断で勝手に決めたものだ。そこには「安全上の理由」などは成立しない。
さて。このようなインチキな理由で「企画展の全面中止」を受け入れようとしたのは、理由がある。次のことだ。
「2作品の展示中止だけを実行すると、2作品だけを思想上の理由で受け入れないということになるので、表現の自由を侵害する。それは断固、受け入れられない。だから、表現の自由を守るためには、2作品だけの展示中止は受け入れられない」
なるほど。これはいかにもリベラル主義の鑑ともいうべき、高尚たる立場だ。その思想的な高尚さは認めよう。(だからこの高尚さにだまされる人も多い。)
しかし、そこには大いなる倒錯が含まれているのだ。
なぜか? その根源は、次のことだ。
「この少女像は、そもそも芸術の名に値しない。ただの政治的なプロパガンダであるにすぎない。ゆえに、表現の自由で守るべき対象にはなっていない」」
このことは、先に別項でも、次のように述べた。
(1) 慰安婦像は芸術ではない
慰安婦像は芸術ではない。これはただの政治活動の象徴だ。芸術でもないものを芸術だと見なすのは、根源的な間違いだ。
(2) 少女像は芸術ではない
「あれは慰安婦像ではなくて、平和の少女像だ」
という弁解もある。しかし、こういう理屈は、恥の上塗りというべきものだろう。もしそうであるなら、ただのパクリであるからだ。つまり、模倣品だ。
あれが平和の少女像であるなら、慰安婦像をパクっただけのものであるから、価値はゼロであるどころかマイナスだ。パクリ品・模倣品・二番煎じとして、ゼロ以下の価値となる。
( → 慰安婦像は芸術なのか?: Open ブログ )
この少女像は芸術ではない。表現の自由で守るに値するものではない。ただの政治的プロパガンダの道具であるにすぎない。
だから、市長が右翼的な立場から何を言おうが言うまいが、この少女像はもともと芸術展で展示するようなもではないのだ。それは、ただのハーケンクロイツや、KKK団の旗が展示に値しないのと、同様だ。
実際、この少女像を「展示するべきではない」と判断した人は、市民の大部分であると報道された。
「週刊文春デジタル」では展示中止公表当日の8月3日(土)から8月5日(月)まで、緊急アンケートを実施。「『慰安婦』少女像の展示に賛成ですか? 反対ですか?」と読者に問うたところ、回答者の74.9%が「反対」と答えた。
結果は以下のグラフの通り、「展示反対」という意見が74.9%の大多数を占め、「展示賛成」の意見は16.2%にとどまった。
( → 74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表 | 文春オンライン )
要するに、「展示するべきではない」という人々が圧倒的多数だったのだ。これが本来のあるべき姿だった。
ところがここで名古屋市長が右翼的な立場から、「展示中止を」と要請した。それを聞いた県知事がカチンときて、「表現の自由を侵害するな」と反論した。それに対して拍手喝采する人も多かった。(はてなーがそうだ。)
しかしそれは、県知事のパフォーマンスにだまされているにすぎない。ありもしない「表現の自由の侵害」をもちだして、「表現の自由を守れ」と唱えることで、拍手喝采してもらっているだけだ。
本当は、「表現の自由の侵害」などはなかった。公権力による政治的抑圧などはなくて、主催者権限の行使があるだけだったからだ。
→ 慰安婦像は芸術なのか? 2: Open ブログ
ところが、これを「表現の自由の侵害」にすり替えたのが、詐欺師のような県知事だった。彼は自分で「展示の全面中止」を唱えておきながら、「表現の自由を守れ」と唱えることで、正義の味方であるようなフリをした。それにだまされて、彼を英雄視したのが、お馬鹿な(だまされた)民衆だった。
これを比喩で言えば、京アニの火災で大量虐殺した犯人が、「生命の自由を守れ!」と唱えつつ、別の2名殺人の殺害犯を批判することで、自分の大量殺害行為を是認させるようなものだ。とんでもないペテンだと言える。そして、これに引っかかって、大量殺害犯を英雄視するのが、お馬鹿な民衆だ。
さて。結局、民衆は、全面停止を決めた県知事を支持している。「表現の自由を守るため」と称して、慰安婦像または少女像を「芸術だ」と認めている。
ならば、次のことが成立する。
仮に「慰安婦像は芸術である」という認識をしたなら、次のことに反対できなくなる。
・ 日本大使館前に慰安婦像を設置する
・ 米国の各地の公園に慰安婦像を設置する
これらは芸術作品の設置なのだから、日本は反対できなくなる。
( → 慰安婦像は芸術なのか?: Open ブログ )
慰安婦像を「芸術」と認めて、その展示を「表現の自由」として認めるのであれば、今後、世界中の各地で慰安婦像の設置を認める必要がある。なぜなら、それはただの「芸術作品の展示」であるにすぎないからだ。
なるほど、そこには「政治的パフォーマンス」の意味も加味されているかもしれない。しかし、慰安婦像が根源的に芸術作品であるのならば、それの設置に反対することは「表現の自由」の侵害となるので、もはや認められないのだ。韓国がこれからどれほどイヤガラセの行為をしようとも、それに反対する日本は「表現の自由を侵害する、野蛮な国家」と認定されることになる。
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では、この問題をどうすればいいか?
解決策はただ一つ。私の主張したとおりにすることだ。つまり、
「慰安婦像は芸術でない。これはただの政治的パフォーマンスであるにすぎない。これを展示中止にすることは、表現の自由を侵害することにはならない」
これならば、首尾一貫する。
一方、県知事の「私は表現の自由を守ります」なんていう詐欺的弁舌にだまされて、県知事の「展示の全面中止」なんていう大量虐殺行為を是認するようであれば、詐欺師にだまされたあげく、世界中で反日活動を受け入れるしかない。
結局、「表現の自由を守れ」なんていう甘い言葉にだまされて、善人ぶっていれば、詐欺師にだまされたあげく、世界中でひどい目に遭うしかないのだ。
( ※ だから私が正しい施策を呈示しているんだが。)
[ 付記 ]
「ガソリン携行缶」というふうに脅迫した犯人は、逮捕された。
→ 表現の不自由展に脅迫ファクス送った疑い、会社員を逮捕:朝日新聞
ならば、もはや展示を全面中止にする理由はなくなった。県知事は、前言を撤回して、さっさと展示を再開するべきだろう。
なお、再開したときに2作品を除外すれば、「表現の自由を守るべき」と称した知事の前言に矛盾するので、自己矛盾となる。
かといって、少女像を展示すれば、政治的プロパガンダを容認したことになり、世界各地での反日宣伝を否定できなくなる。国民受けも最悪となるだろう。
( ※ だから「別会場でこっそり展示する」という私の案が最善であるわけだ。)
【 関連項目 】
本項は、下記の2項目の続編です。
→ 慰安婦像は芸術なのか?: Open ブログ
→ 慰安婦像は芸術なのか? 2: Open ブログ

以下、引用。
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大村秀章・愛知県知事は13日の定例記者会見で、今年6月に展示内容を初めて知り、一部作品を展示しないよう企画者に要望したと明らかにした。
大村知事や実行委事務局によると、大村知事が6月に「表現の不自由展・その後」の説明を受けた際、芸術祭の企画責任者である津田大介芸術監督に対し、少女像について、「本当にやるのか。展示はやめてもらえないか」「実物ではなく、パネルにしてはどうか」などと伝えたという。
企画展の運営メンバーからは「それなら、この企画展を全てやめる」などの話もあり、最終的に、来場者に写真撮影やSNS投稿を控えてもらうことで、展示することになったという。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20190814-OYT1T50129/
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先には、河村市長をさんざん批判していたくせに、その当人が、「展示はやめてもらえないか」というふうに要求していたのである。
いったいどの口で河村市長を批判できるんだ。厚顔無恥には呆れるしかないね。河村市長は、ただの右翼だが、大村県知事は、人間としてどうかしているね。