2014年12月01日

◆ AO入試の問題点・いろいろ A

 前項 の続き。

 学力軽視の弊害


 AO入試では、意欲ばかりを重視する結果、学力を過度に軽視するという弊害がある。
 たとえば、外国では AO入試に学力テストが併用されるのに、日本では AO入試のときに学力テストなしに、面接と内申書などだけで合否を決める、ということがある。そのせいで、学力の低すぎる受験生が大量に入学して、あげく、中退者が続出する、という状況になる。
  → AO入試の弊害・騒動 の (3)(4)
 このように学力の低い学生ばかりを入学させるようになると、知識軽視の風潮が出るし、真面目に勉強する学生も少なくなるから、一国の学力水準が低下する、という弊害が生じる。

 このような問題は、かつて「ゆとり教育」という制度でも起こったことだ。あのころは、「知識よりも考える力が大切だ」というふうに、もっともらしいことを言ったあげく、学力を軽視した。あげく、日本の学力水準は大幅に低下した。それと同様のことを、AO入試は狙っているわけだ。AO入試は、「ゆとり教育 ver. 2 」という感じである。一度失敗したことを、形を変えて、またやっている、という感じだ。
 なお、ゆとり教育で学力が低下したことは、(その後に)「ゆとり教育をやめたことで学力が向上した」ということからもわかる。
 経済協力開発機構(OECD)は3日、65カ国・地域の15歳男女約51万人を対象として2012年に実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果を公表した。日本は09年の前回調査に比べ、「読解力」が8位から4位に、「科学的応用力」が5位から4位に、「数学的応用力」が9位から7位に上昇。「脱ゆとり路線」の成果が着実に表れた結果となった
( → 産経 2013.12.3続き

 知識軽視には弊害がある、ということは、別の点からもわかる。朝日新聞(朝刊・海外面 2013-11-14)に、次のような話があった。
 「ロシアは民主化のあとで発展したようにも思われているが、現状ではひどい社会になっている。@ 口座番号の間違いでトラブルが起こる。A 修理をしてもらってもダメでまた故障する」(要旨)
 まったく住みにくい低レベルの国だが、これというのも、学力が低いからだ。というか、ロシアがひどいというより、日本が世界のなかでも例外的に優れているのだ。それというのも、日本では初等・中等教育が成功しているからだ。おかげで大学に行かないような下層の人々でも、十分な学力を備えている。だから社会がきちんと回る。(犯罪が低いというのも、公共心が高いというのも、いずれも十分な教育がなされているからだ。)
 なのに、AO入試は、その日本のよき制度を破壊しようとしている。
 「意欲や人柄だけが大切であり、学力なんかは二の次だ。いくら勉強しても、大学には合格できないんだよ。大学に合格するには、勉強よりも、ほかのことが大切なんだ。勉強なんかしないで、一芸に秀でる努力をしよう」
 こんな方針を国全体で取れば、日本の優れた社会は崩壊してしまう。日本は昔から「教育こそが大切」という方針で、親は子供に、何よりも教育を与えようとした。なのに今や、その良き風潮を破壊しようとしているのだ。これはもう、亡国の政策と言うしかない。

 入試改革はどうする?


 以上では、AO入試に否定的に述べてきた。
 では、AO入試を実施していない大学は、現状でいいのだろうか? 何も改革の必要はないだろうか? いや、そんなことはない。
 現状では、「一芸に秀でたタイプが合格しない」という致命的な問題がある。だからこそ、AO入試では、「一芸に秀でたタイプを合格させる」という方針が取られた。
 たとえば、東大では、「数学オリンピックでメダルを取る」とか、「コンピュータのプログラムで天才的な才能がある」とかいう、「一芸に秀でたタイプ」を合格させようという方針が取られた。
 しかし、これは本末転倒というものだ。「一芸に秀でたタイプが合格しない」という問題があるのは、現状の制度に根本的な欠陥があるからだ。その欠陥を放置したまま、対症療法で取り繕おうというのは、対処の方法が逆である。
 比喩的に言えば、ボートの底に穴があいていて、水がどんどん入ってくる。このとき、どうすればいいか? 水が入っても大丈夫なように、水をどんどん汲み出すべきか? いや、それは効率が悪い。むしろ、底に空いている穴をふさぐことが本質的だ。
 入試も同様である。現状の入試制度には、穴がある。ならば、穴をふさぐべきだ。つまり、欠陥を解決するべきだ。なのに、欠陥を放置したまま、「欠陥でもたらされる弊害を別の方法で取り繕おう」というのが、AO入試だ。これは「ボートに入る水をコップで汲み出そう」というようなもので、あまりにも非本質的なのである。
 
 では、現状の制度の穴をふさぐには、どうすればいいか? 簡単だ。「一芸に秀でたタイプが合格できる」というふうにすればいい。もっと正確に言えば、「少しでも弱点があれば合格できない」という減点法の採点をやめて、「長所があれば合格できる」という加点法の採点をすればいい。
 ところが、(少なくとも東大の)現状は、そうなっていない。「少しでも弱点があれば合格できない」という減点法の採点になっている。この件は、前に述べた。
  → 東大推薦入試は有効か?
  → 東大の入試改革について
  → センター試験を廃止・縮小せよ
 これはどうしてかというと、次のことによる。
 「センター試験を足切りに使っている。そのセンター試験は、難易度が低く、80%を上回る高得点が平均点となっている。この場合、一科目でも不得意科目があれば、不合格となる。一方、特別に優秀な科目があっても、差が付かない。結果的に、一芸に秀でたタイプはあっさり不合格となる」
 一方、昔の東大の一次試験は、そうではなく、こうだった。
 「東大の昔の一次試験は、足切りをするが、難易度が高く、50%ぐらいがボーダーラインだった。この場合、1科目で0点を取っても、他科目で 100点を取れば、2科目の平均で 50点となる。だから、たとえ不得意科目があっても、専門科目で特別に優秀であれば、十分に合格できる」
 これは別に嘘ではない。私自身がそういうふうに「1科目は0点」という形でパスしたからだ。さらに言えば、一番得意だった数学は、当日 40度の高熱を出したせいで、0点だった。それでも、他の科目は十分な高得点だったから、楽々と合格できた。しかるに、現在の東大のようにセンター試験を一次試験で使っていたら、「1科目でも低得点があれば不合格」というふうになるので、私は不合格になっていたはずだ。
 現在の東大は、学力全般のレベルによって合否を決めているのではなく、単に「不得意科目があるか否か」によって合否を決めている。そして、「まんべんなく点を取れる受験生だけが合格できる」(得意と不得意の双方がある受験生は不合格になる)という制度にしている。
 こういう根源的な問題があるのだ。このような巨大な穴を放置して、AO入試という形で穴を取り繕うとするのは、あまりにも筋が悪いというしかない。むしろ、昔の東大のように、「平均点が 50点となる」というような試験にあらためるべきなのだ。

 東大推薦入試の問題


 東大の推薦入試には、別の問題がある。
 単に AO入試を導入するだけならまだしも、従来の二次募集をやめてしまうのだ。(二次募集をやめるかわりに AO入試を導入する、という形。)
 しかしながら、従来の二次募集では、ものすごく高レベルの人が合格している。それもそのはず、定員がものすごく少ないからだ。こんな狭い枠に合格できるのは、日本でもトップレベルのごく少数の人でしかない。(たぶん一次試験では風邪を引いたというような理由で受験できなかった人だろう。)
 なのに、AO入試に切り替えるとしたら、このような「特別に優秀な人」が入学できなくなる。そのことの弊害の方が、よほど大きいだろう。
 東大は、「一般入学の枠では収まらないような異能の受験生を入学させる」というふうに思っているのだろうが、現実には、「一般入試で入るはずだった平凡な学生のかわり」になるのではなく、「二次募集で入れるはずだった特別優秀な少数の人々のかわり」になるのだ。その場合、従来の二次募集の受験生(特別優秀な少数の人々)を見捨てるに足りるだけの、優れた人材が得られるとは思えない。
 東大がどうしても AO入試を導入するのであれば、従来の二次募集をやめるべきではない。従来の二次募集も併用するべきだ。ここのところを勘違いしないでほしいものだ。さもないと、改悪になる。
 この件は、下記項目でも述べた。
  → 東大推薦入試は有効か?
  → センター試験を廃止・縮小せよ

 AO入試の部分導入(ボーダーラインで)


 では、AO入試はまったく有害無益か? いや、そうではあるまい。面接で受験生を選ぶという方針は、米国の大学でもなされているから、特に悪いということでもないだろう。また、課外活動などを評価するということには、それはそれなりに、十分に意義があるだろう。つまり、AO入試は、まったくダメな方針というわけではない。
 そこで、私としては、次のように提案したい。
 「学力テストをした上で、ボーダーラインに相当する学生についてのみ、AO入試を実施する」
 たとえば、定員の 5%を AO入試で決めることにして、ボーダーライン付近の、上位 5%と下位 5% の計 10% に対して、面接をして、合否を決める。( 10% のうちから、半分に当たる 5%だけを合格とする。)
 ここでは、課外活動なども評価していい。

 こういう形で、「ボーダーラインの学生についてのみ AO入試を実施する」というのであれば、意義があるだろう。
 そもそも、ボーダーラインであれば、どっちみち、学力には大差ない。試験当日の運不運によって点数が上下することもある。だったら、小さな点数の差は、あまり意味がない。あまり意味のない差で合否を決定するのも、馬鹿らしい。とすれば、ここでは、AO入試 を実施することには、それなりに意義があるのだ。
 こういう形であれば、AO入試を導入してもいいだろう。
( ※ 学力試験を補う補足的な試験、という位置づけである。学力試験をしないで合否を決めるのとは決定的に違う。お間違えなく。)

 結語


 大事なことは、すでに述べた。最後に、まとめふうに述べておこう。(特に前項の話に基づく。)
 
 そもそも、大学の目的は何か? 経済学の市場原理主義者ならば、「自己の利益を最大化することだ」と述べるかもしれない。しかしながら、大学の目的は、利益を得ることではなく、利益を与えることなのだ。大学そのものが何らかの利益を得ることではなく、学生に教育の利益を与えること。それこそが、大学の目的であり、大学の使命である。
 なのに、そこを勘違いしている大学が多すぎる。かくて、「優秀な学生を奪い合う」という市場原理ふうの発想を取ることになる。
 今の大学は、優秀な学生を入学させることで、自己が利益を得ようとする。優秀な学生のおかげで、大学の声望が高まればいいな、と狙う。しかしながら、大学は、学生から何かを与えてもらおうとするべきではない。逆に、大学が学生に何かを与えようとするべきだ。
 今の大学は、ひどい教育しかやっていない。まともに教科書や参考書も使わずに、板書させたりして、学生に無駄な労力を費やさせて、肝心の教育効果は低レベルだ、ということが多い。(高校や予備校と比べると、教育技術が低すぎる。)
 こういうふうに教育技術の低い大学は、「大学が学生に何を与えることができるか」ということを、じっくり考えるべきなのだ。つまり、大学そのものが、自己改革をして成長するべきなのだ。
 なのにそうせず、学生頼みで自己の声望を上げようとする。まったく、情けない。これでは、「親が子供を育てる」のではなく、「親が子供に育ててもらう」ようなものだ。ひどすぎる。
 かくて、「優秀な学生を獲得しよう」と思うような大学関係者こそが、大学教育の場から排除されるべきなのだ。特に東大では、「推薦入試を」と唱えるような馬鹿教授は全員解雇されるべきだろう。かわりに、「東大の教育制度をいかに改革して、学生にいかに多くの教育成果を与えることができるか」を考えるような教授を、公募すべきだ。
 学生から何かを与えてもらいたがることばかり考えて、自分たちが学生に何かを与えようとしない教授は、教育者の資格がないのだ。自分の利益の最大化ばかりを考えていて、社会貢献というものを念頭に置いていないような関係者は、間違っても教育に携わるべきではない。そういう連中は、勝手に自分のために営利活動でもしていればいいのであって、教育の場で活動するべきではないのだ。



 [ 付記 ]
 大学や学校の目的は、教育である。このことが、日本ではなおざりにされている。
 一方、スウェーデンやフィンランドでは、留年制度があり、落ちこぼれ対策を通じて、きちんとした教育を誰もが受けることができる。
 1年前の読売新聞(朝刊・1面 2013-11-12 )に情報があったが、下記にも似た情報がある。
  → スウェーデン視察4
  → 「受けてみたフィンランドの教育」を読んで



 [ 余談 ]
 前項でも述べたとおり、AO入試をパスするには、演技力があればいい。そこで、AO入試をパスすることができるように、演技力を付ける学習塾みたいなものが、あってもよさそうだ。
 とにかく、AO入試では、合格は金で買える。演技と化粧と整形をきちんとやれば、ひどい馬鹿でも豪華できる。「金庫をチンコ、一目をイチモツと読む」というような、日本語をまともに読めないような人(参考)でも、整形でかわいい顔にして、中野美奈子みたいな顔に整形してしまえば、あとは演技力の訓練だけで、AO入試には楽々とパスできるようになる。(そのために必要なのは金だけだ。)
 だから、「AO入試で合格できるようにする学習塾」みたいなのを設立すれば、金が余っている人を対象に、ボロ儲けができるだろう。
 これに似たことをやったのが、AO義塾だ。
  → AO入試の弊害・騒動 の (2)
 ただ、それよりももっと典型的な例が、すぐ上で述べたような学習塾で可能となるだろう。
 なお、AO義塾の場合は、一種の書類上の偽装だから、悪質さがある。
 一方、整形とか演技とかは、別に悪いことではない。それはまあ、女性の化粧と、大同小異であり、決して悪いことではない。そして、それによって大学がだまされて合否を決めるとしたら、そのことは大学自身の愚かさに罪がある。
 とすれば、そのような大学の愚かさに乗じて金儲けする人がいるとしても、その金儲けは決して悪いことではない。
 大学が AO入試で馬鹿学生を入学させるとしたら、その責任は大学自身にある。一方、そのような制度のなかで、制度をうまく利用して金儲けをする人がいたとしても、それは、小賢しいだけであって、別に悪いことではない。
posted by 管理人 at 23:59 | Comment(7) | 一般(雑学)2 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
東大の一次足切りについてデータを確認しておくと

http://todai.info/juken/data/

全国平均よりは確かに高いものの、東大受験者ならまあクリアするかなという程度です。ちなみに最終判定では二次試験の素点にセンター試験を1/8(1/9だったかも)にして単純に加えています。

センター試験そのものについてですが、かつての共通一次のように簡単な試験ではなくなっています。
これは実施母体が国大協から大学入試センターになり、私学でセンターのみを合否に利用することが増加し、「合否に使えるような点数がバラける試験にするようにしてくれ」との要望があるためです。
なお、難しくなったといっても悪問としかいいような問題や試験時間をかえずにやたらと問題数をこなすことを要求するような「たちの悪い」難化をしてしまっていることは残念です。

さらに二次募集(後期試験)についていうと、管理人さんが思っているような試験ならいいのですが、現実には単なる敗者復活戦になっているきらいが多く、AO試験導入とは無関係に(レベルが高いであろう)旧帝大や医学部では廃止の方向です。
東大ではないですが、京大ではすでに廃止されています。
その一方で山梨大医学部のように事実上、後期のみの試験をする地方国立医学部もそれなりにあります。これらの医学部は旧帝大残念組をかき集めたいのでしょう。
東大は試験問題を読むとかなり頑張っているとは思いますが、それでもそれほど異能の人をセレクションできるとは思えません。
何よりも問題なのは、異能を発掘するはずの後期試験のセンター足切りが非常に高いことです。

企業の採用を含めて総じていえることですが、日本では人の採用をする手間をかけなさすぎです。そのことが安易な「AO入試」などに走らせるのでしょう。
Posted by 通りがかり at 2014年12月03日 21:09
> http://todai.info/juken/data/

 ご指摘ありがとうございます。足切りは 80%ぐらいですね。本文中では 90% と記していたので、80%に修正しました。
 90% というのは、共通一次のときの私見だったのかも。

> 難しくなったといっても悪問としかいいような問題

 そう言えば、この件は別項で論じました。
  → http://openblog.meblog.biz/article/13920620.html
Posted by 管理人 at 2014年12月03日 21:43
> 東大受験者ならまあクリアするかなという程度です。

 それはほとんど同語反覆ふうですが、不得意科目が一つでもある受験生は東大を受験しなくなっているようです。(どうせ不合格なので。)
 プログラミングで有名な Tehu さんもその一人のようです。灘出身で慶応に入学したということで、「灘のくせに東大に進学できないのは落ちこぼれ」というふうな批判も湧きましたが、「文系の科目は苦手だった」と理解すれば、慶大に進んだことも理解できます。
 今の東大は、専門科目に才能のあるタイプは入学できなくて、まんべんなく点を取る秀才タイプ( or 点数のいい凡人タイプ)しか合格できないようですね。
Posted by 管理人 at 2014年12月03日 23:17
オールラウンダーであることを要求されるという点がもっと深刻なのは二次試験では?
理系でも現代文、古文、漢文がすべて要求されますし、文系でも昔でいう基礎解析までの数学は要求されます。それも東大レベルの。
理系各類の配点は数学 120点、英語 120点、国語 80点、理科(2科目合計) 120点です。ちなみに文系各類の配点は数学 80点、英語 120点、国語 120点、社会(2科目合計) 120点です。
理系でも国語でミスるとアウトということも十分にありますね。もっともそのかわり数学6点でも理IIに入った人もいるので、ある意味多様性は確保されているといえなくもありません。
http://www.toshin.com/hs/todai_tokushin/taikenki_detail.php?user_id=201317

京大でも二次試験では文系受験生には基礎解析までの数学は要求されるし、理学部受験生には国語が要求されますね。
Posted by 通りがかり at 2014年12月04日 00:11
> オールラウンダーであることを要求されるという点がもっと深刻なのは二次試験では?

 別に要求されませんよ。ボーダーラインの点が 50%なら、1科目が0点でも、他の科目で挽回できます。実際、私がそうだったし。本文中に書いてある通り。(数学0点で理科一類です。数学0点でも、ボーダーラインの 130%ぐらいの得点だった。ボーダーラインが 50%なら、そういうことが可能です。)

 ちなみに、私の友人は、440満点中の 430点ぐらい取ったらしい。こういうタイプだと、たまたま2科目で0点でも、挽回できそうだ。
Posted by 管理人 at 2014年12月04日 01:00
大学入試制度の件についてはずっと前から管理人さんと同じようなことを考えていましたね。

今回の記事でも特に異論はないし、少なくとも国立大でAO入試実施するなら
学力試験併用で定員の5%程度ぐらいで十分でしょう。

ところで、別の話ですが、公立高校入試での内申点制度などについても
どう考えているか気になるところです。
Posted by 亜留守 at 2014年12月08日 03:08
ブログ記事に直接のコメントにならないけど、考えることを書いてみます。

人生には何度か「今の力を試される」機会と言うのがあります。入試とか入社試験とか資格試験とかですね。そのとき、実力以上の判定を受けるのは、果たして幸福なのか?不幸なのか?なんてことを考えてみるわけです。

昔、帝大出の大先生と話をしていて話がドイツの話になったら、先生が鞄からドイツ語の資料を取り出して、「こうなっているんですよ」とその一節を指し示されたことがあります。もちろん私は、新大(戦後に大学になった大学のこと)出で、その新大の中でもランクは低い方ですから、辞書も無しにドイツ語の意味を取る能力など皆無と言って良くて「凍り付いた」わけです。その大先生は私の様子に気が付いて、何が書いてあるかを説明してくれたのですが、「能力がある」と誤解されるということは、そういう場でそのまま話が進むかも知れなかった訳です(私には中身が分からないままで)。

例えば入試なんかはそういう面がありそうですね。能力以上の評価を受けて入学したら、その能力の者なら当然知っていることは知っているはずとして講義は進む訳ですね。その時自分が知らなくても講義は自分ひとりのために引き返してはくれませんからね。必死になって周りに追いつくか、さもなければドロップアウトするか、本来ならそういうことでしょう。

大学は卒業できても入社試験だと、なんだかずっと「なんであんな奴がうちの会社に入れたの」と言われる「お荷物社員状態」になる可能性もありますね。

資格試験だともっと直接的に「資格を持っているものなら決してしない間違い」をした場合に「わざとやった」と決めつけられるかもしれない。

なんていうかな、「今の力を試される」機会で実力以上の判定を受けるのは、「必死に頑張ったら、後から追いつける範囲」の「実力以上の評価」でないと、「不幸なこと」のような気がしたりもするわけです。
Posted by 分析化学者 at 2014年12月19日 14:40
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