自動車評論家の徳大寺有恒が亡くなった。
→ 自動車評論家、徳大寺有恒さん死去 辛口の新車批評
ただ、彼の業績については、正当な評価がなされていないようだ。上記の記事には「辛口の新車批評」という言葉があるが、これでは人物評として不十分だと思える。
そこで、私なりに評価をまとめてみよう。
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彼の業績は、日本で初めて自動車評論を確立したことだ。
逆に言えば、彼より前には、日本では自動車評論というものが存在しなかった。では、何が存在したかというと、次のようなものだ。
「自動車の記事はあったが、それは批評ではなかった。メーカーにおもねった、お追従の記事にすぎなかった。製品の欠点を指摘して批判するということはなく、メーカーの喜びそうな称賛記事ばかりだった」
これは、要するに、記事という体裁を取っていても、メーカーの宣伝であるにすぎなかった。(批評や報道というよりは広告みたいなものだった。)
どうしてか? メーカーとの馴れ合いがあったからだ。
・ メーカーは雑誌に試乗車を提供する。記者にはプレゼントする。
・ 雑誌は、試乗車の提供を受けられなくなると困るので、批判はしない。
こうして、メーカーと雑誌は、持ちつ持たれつの関係にあった。このころの自動車雑誌は、「新車の情報を大急ぎで詳しく提供する」というものだったが、しょせんはメーカーの広告みたいなものにすぎなかった。
( ※ 例外的には、兼坂弘のエンジン批評[究極のエンジンを求めて
このような状況で出たのが、「間違いだらけのクルマ選び」(1976年)という単行本だった。( 参考: Wikipedia )
この単行本は、次の点で画期的だった。
・ 国産車の欠点を、歯に衣着せぬ形で、指摘した。
・ 国産車の水準が、ドイツ車よりも劣っているという点を指摘した。
はっきり言えば、本当のことを書いてしまったのである。「王様は裸だ」と言うように。あるいは、「王様の耳はロバの耳」と公言するように。
この真実は、自動車業界の多くの評論家ならば、すでに知っていた。しかし、知っていても、誰も公言しなかった。なぜなら、本当のことを言えば、「業界のタブーを犯したもの」として、指弾されてしまうからだ。村八分になることは必定である。だからこそ誰もが黙っていた。なのに、そのタブーを犯して、本当のことを書いてしまったのだ。
この本は、衝撃の真実を明かしたものだったので、読者からは熱狂的に受け入れられた。
その一方で、業界では、猛反発が生じた。業界のタブーを犯したのだから当然だ。結果的に、こうなった。
匿名を用いて本を出版したことに対し、当時の自動車業界からの反発は大きかった。「徳大寺有恒」という人物が誰なのかは当初秘密で、各方面でその正体が話題になっており、名前が似ていることから豊田有恒の変名と疑われたこともあったが、文体や諸事情から「杉江博愛だろう」と囁かれていた。そして、「この杉江をAJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)から追放しよう」という声があがった。杉江はAJAJを脱退。記者会見を開き、自身が「徳大寺有恒」であることを公にした。
( → Wikipedia )
彼はまさしく村八分になったのだ。そうなることを予想して、もともと匿名で執筆したのだが、匿名でも収まりは付かず、「こいつを村八分にしろ」という声が上がった。かくて結果的には村八分の形で決着したことになる。(自主的に脱退したのだが。)
私は先に「村八分になることは必定である」と書いたが、それを読んだときには、「何を大げさな」と思った読者もいるだろう。しかし現実に、徳大寺有恒は村八分になったのである。のみならず、メーカーからは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪された。
比喩的に言えば、(メーカーとしては)ブスの女性が、「こいつはブスだよ」と公言されてしまったようなものだ。本当のことを世間に知らしめた人を、ひどく恨むのも当然だろう。自動車技術者としては、これまでは仲間内で褒め合ったりして、「技術の日産は世界一」「世界最先端のホンダ」「製造技術はトヨタが世界一」なんて得意がっていたのに、「本当はゴルフの足元にも及ばない低水準の安物をつくっていただけ」なんて評価を与えられては、顔が青ざめるのも当然だ。
徳大寺有恒は、嘘をついたから嫌われたのではなく、本当のことを言ってしまったから嫌われたのだ。
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ただ、彼の望みは、悪口を言うこと自体ではなかった。自分の批評を通じて、日本の自動車業界の水準が向上することを願っていた。だから、晩年のころになると、「当時に比べて日本の自動車はみんな良くなった。あまり厳しいことを言う必要もなくなった」というふうに述べて、筆を折った。(病気がちだったこともあるが。)
とはいえ、彼の批評が日本の自動車技術の水準の向上に、ものすごく影響があったことは事実だ。実際、彼によってタブーが破られたあとでは、自動車雑誌ではメーカー批判がしばしば掲載されるようになった。また、テレビでも次のようなテレビ番組が人気を博した。
→ 三本和彦の「新車情報」(テレビ神奈川・提携 UHF 局)
この番組では、次のようなやりとりがあった。(1985年ごろ)
三本和彦 「日産はサンタナのノックダウン生産で何か学びましたか?」
日産技術者 「車体剛性が重要だということがよくわかりました」
三本和彦 「今ごろそんなことを言っているようじゃ困るんですけどね」
このころの日本の自動車は、車体剛性もろくに考えない、ペラペラのボディの車ばかりだった。スポット溶接の点数も少なかった。かくて、ペラペラのボディのせいで、操縦安定性がひどい自動車が多く、カーブで遠心力がかかるとボディが歪んでしまってタイヤが踏ん張れない、というような自動車ばかりだった。
( ※ その最大の理由は、石油ショック後の「燃費改善」を目的とした「軽量化」だ。やたらと軽量化をめざしたせいで、どれもこれもペラペラの自動車となっていた。衝突試験をすればすぐにつぶれるような車ばかりだった。もう一つ、「コストダウン」も大きな理由だった。溶接が少ないのもそのせい。)
ともあれ、当時の日本の自動車は、そういうひどい状況だったのだ。ちょうど、今の日本の家電業界みたいなものだ。世界の技術レベルから取り残されて、ガラパゴスの世界で、コストダウンだけをめざしていた。かくて安かろう悪かろうの粗悪品ばかりを作っていた。
しかるに、日本でもまともな自動車評論が育ったころには、自動車業界も世界水準に追いつこうと努力するようになった。1990年ごろには、世界水準にかなり近づくようになった。このころは日本の自動車技術の水準が大幅に上昇したころである。日産が 901運動 をしていたころで、このころが日産の絶頂期だったかもしれない。(その後はバブル破裂とともに、どん底状態に落ち込む。)
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ともあれ、日本の自動車産業の歴史において、徳大寺有恒の功績はかけがえのないものがある。それは、「批判が辛辣(しんらつ)だった」ということではなくて、「真実の批判を通じて、日本の自動車業界の技術発展に尽くした」という点だ。要するに、最も悪口を言う人が、最も技術発展をもたらしてくれるのだ。(……その悪口が真実であるがゆえに。)
この功績の大きさにかんがみれば、自動車業界は彼に追悼の言葉とお礼ぐらいは述べた方がいいだろう、と思える。
( ※ とはいえ、自動車会社がそんな殊勝なことをするはずがないから、かわりに、私がここで記すわけだ。どうせマスコミは「徳大寺有恒は辛口批評を書いた」と記すだけで、「ただの悪口屋さんだったんだよ」というぐらいにしか評価しないだろうから。)
【 関連サイト 】
ついでだが、次の情報もある。
日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)の選考委員を務めていたが、COTYの運営方針やメーカーの接待攻勢...
( → Wikipedia )
雑誌とメーカーとは、いまだにこういう形で、癒着している。買収みたいなことが堂々とまかり通っている。
こういうものなんですよね。
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徳大寺有恒は、「へそ曲がり」とも言えるが、「異端」とも言える。ある意味では、「トンデモ」というふうに評価されがちかもしれない。
トンデモマニアの定義によれば、「主流派の意見とは異なる異端の意見を出す人はトンデモだ」ということなのだから、徳大寺有恒は「トンデモだ」と認定されても不思議ではない。(トンデモマニアの定義によれば。)
多くの人々が「王様は服を着ている」と言っているときに、「王様は裸だ」と真実を語れば、人々からは「トンデモだ!」と批判されがちなのである。

という質問があったので答える。
(1) ぴったりの人はいない。というのは、日本はもともとカメラで傑出した2社があるので、ドイツよりも遅れていたということはないからだ。日本の会社を批判した人はいない。
(2) しかしながら、製品の厳密なチェックをして、ものすごく立派な技術批評をした雑誌はある。それはアサヒカメラだ。「ニューフェース診断室」という連載コラムで、毎月、新型のカメラの性能を厳密に技術チェックした。個人のできるレベルを超えた高度な技術チェックだった。
ただ、これが業界に与えた影響はどれだけかというと、あまり大きくなかったように思える。同程度のチェックは、カメラ会社自身もやっていたはずだからだ。
ともあれ、カメラ業界では、業界と雑誌との癒着はなかったので、特大時有恒のような人物が現れることもなかった、と言えるだろう。つまり、誰も嘘をついていなかったので、「王様は裸だ」と指摘する人は現れなかったのだ。
よって、評論するほどのこともなく、評論が定着する前に新製品に取って代わられることも、評論が難しい理由かと。
あと、三本さんのツッコミコメントも良かったですね。
私も、トヨタ・クラウン9代目 S14#型(1991年 - 1995年)に乗っていた頃、運転不能状態になることを数回経験しました。
最もひどかったのは、T字路を青信号になって加速して左折したとき、クラウンは車体が前方・後方がシーソーのように振動を始めた
ため、前方車体はスキーでいう抜重現象が交互に起きた。ハンドルによる操舵が利かなくなった。幸い、わき道でクルマと人通りが
少ない時間帯だったので、事故にはならなかった。
車体の剛性不足とトウフのようにやわらかいバネだったため、加速して方向を変えるタイミングが固有振動数と合うと奇妙な振動
が起きることがわかったので、トヨタに現象を書き送ったが、「タイヤが磨り減っていたでしょう。路面が濡れていたでしょう」と
いう、その場しのぎの苦情処理に終始した。本質的な危険性を孕む欠陥に対して言及することはなかった。
何を言っても無駄なので、その車は、老人のようにおとなしく運転することで現象が起きないようにして、後に放棄した。
トヨタ・クラウン12代目 S18#型(2003年 - 2008年)は「ゼロクラウン」と通称されるように、プラットフォーム、エンジン、
サスペンションといった主要コンポーネントが刷新され剛性が高まり、不要な振動が抑えられた。まともなクルマになった。私の
苦情が万分の一でも開発チームに届いていたら、ちょっとは役に立ったかも知れない。
徳大寺有恒氏でなくても、ユーザーは、不具合があれば、どのような現象かを文書にまとめて文句をいうことは必要ですね。
オーディオに関しては、クリスキットというオーディオセットを販売されていた桝谷英哉さんという方も既存のオーディオにとらわれない製品の開発や著書を出していました。
私事で恐縮ですが、私の父も同世代(S.8年〜H.23年)で、小さな自動車整備工場兼中古車販売店を営んでいました。氏の自伝でありまた黎明期からの自動車発達史でもある「ぼくの日本自動車史」(草思社 1993年、名著です)はまるまる父の青春とも重なっていたとの思いがあり、棺の中に入れさせていただきました(手元には文庫版を残して)。
合掌
ただ、完全に趣味の世界の物なので、社会的に及ぼす影響力も少ないのかもしれません。
私は若い頃熱狂的なオーディオマニアをやっていた時期があり、長岡鉄男氏の家に尋ねて行ってお話を聞いたりしたこともありましたが、書籍で活躍していた長岡氏は完全に作ったキャラクターを演じている印象で、実際にお会いするともっと繊細でとても素晴らしい方でした。
また、彼は構成作家の仕事をしていたというのもあり、文章力に長けていたというのと、稼ぎのメインはオーディオ評論ではなく、投資家として財を得ていたので、メーカーのしがらみにとらわれにくい活動ができていたのかもしれません。
でもドンシャじゃない素晴らしいバランスの製品は存在していたので、オカルトではなかったと思ってます。
クルマと同じく、芯が座ることが大事ですね。