その核心は、「粒子と波の相互転換」である。 ──
超球理論の基本原理は、いくつかにまとめることができる。以下でそのことを説明しよう。
その発想は、「量子は粒子である」という発想(粒子説・粒子モデル)とはまったく異なるものだ。
──
(1) 粒子と波の相互転換
「粒子と波の相互転換」という原理がある。これは、「量子は粒子と波の双方の性質をもつ」という発想とは全然異なる。
比喩的に言えば、次の差だ。
・ その生物は、オスとメスの双方の性質をもつ。(両性具有)
・ その生物は、オスとメスの性質を変換する。(性転換)
この世界には、両性具有の生物もいるし、性転換をする生物もいる。そして、その両者は、別々のことだ。混同してはならない。
同様のことが、量子論にも言える。( オスとメス ≒ 粒子と波 )
・ 現代の量子論は、いわば「両性具有」のような立場を取る。
・ 超球理論は、いわば「性転換」のような立場を取る。
この両者は、立場が異なる。はっきり区別しよう。
そして、その上で、次の実験事実を知るといい。
「量子が粒子と波の双方の性質を同時にもつ、ということは実験的に観測されたことがない。量子は常に、粒子か波か、そのいずれかである」
つまり、実験結果は「いわば性転換」の方を支持する。
にもかかわらず、大方の物理学者は、実験的に観測されてもいない方を支持する。(これは非科学的な立場だ。「地動説」を支持する観測結果が得られても、あくまで「天動説」にこだわるようなものだ。)
( ※ この基本的な点については、量子論のトップページでも説明している。図つき。詳しくは、そちらを参照。)
──
(2) 玉突きモデル
「粒子と波の相互転換」
というのは、ただの口先の話ではない。具体的なモデルが必要である。そのモデルが、「玉突きモデル」だ。
これについては、別のページで詳しく説明したので、そちらを参照。
→ 玉突きモデルの説明

このモデルから明らかなように、「粒子と波の相互転換」は、次のように説明される。
「真空中を超高速で伝わる量子は、粒子ではなく波である。すなわち、
粒子 → 波 → 粒子
という形で、粒子と波の相互転換が起こる」
たとえば、二重スリット実験では、次のようになる。
・ 最初の電子銃にある電子 …… 粒子
・ 途中の真空中にある電子 …… 波
・ 最後の感光板にある電子 …… 粒子
このことが、玉突きモデルの図からわかるだろう。(特に、青い波の図)
なお、(1) と照らし合わせると、次のことが重要だ。
「途中の真空中では、波としての性質だけがある」
途中の真空中では、電子は、「粒子でも波でもある」のではなく、「完全に粒子である」わけでもなく、「完全に波である」のだ。
したがって、途中で電子を観測しようとしても、「粒子としての電子」を観測することはできない。たとえ光を当てても、観測することはできない。
仮に途中で観測することができるとしたら、「波 → 粒子」という転換が途中で起こった場合である。だが、そういうことはほとんどない。
この点は、コペンハーゲン解釈とはまったく異なるので、注意のこと。
( ※ コペンハーゲン解釈では、「光を当てれば、左右のどちらかのスリットで観測されるだろう」と考えることもあるようだ。しかしながら現実には、「どちらかで観測される」のではなく、「どちらでも観測されない」のである。)
( ※ 詳しくは後述の [ 付記2 ][ 付記3 ] を参照。)
(3) 消滅と発生(ワープ)
玉突きモデルでは、重要なことがある。次のことだ。
「発射点で消滅する量子と、到着点で発生する量子とは、別のものである」
この両者を A,B と書くことにすると、次のことが起こる。
・ 発射点では A が消滅する。
・ 到着点では B が発生する。
ここでは、「消滅と発生」が起こる。そして、それを観測した人が、
「一つの量子が A から B へ移動した」
と認識するのである。
このような現象は、超球理論では「ワープ」と呼ばれることもある。
電子は、発射点から到着点へワープする。そして、それは、移動するのとは異なる。
比喩的に言おう。送電線の一端 A で電子を入れる。すると、百キロ離れた土地 B で電子が出る。
A ● → ━━━━━━━━━━━━━━━━━ → ● B
では、電子は A から B へと光速で移動したのか? いや、そんなことはない。送電線中の電子は、かなり遅い。電圧が低ければ、せいぜい人間が歩くぐらいの速度でしかない。とはいえ、Aで電子を入れてからBで電子が出るまでの伝達速度は、光速である。では、なぜ?
このことは、水のホースのようなものだと考えればいい。仮にホースが空であれば、水を入れてから水が出るまでに、とても長い時間がかかる。しかし、ホースに水が入っていれば、水を入れてから水が出るまでは、ほとんど時間がかからない。なぜなら、入る水 と 出る水は異なるからだ。
送電線の場合も同様だ。入る電子 と 出る電子とは異なる。だからこそ、電子は瞬間的に長距離を伝達する。(下図参照)
● → ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● →
この図は、玉突きモデルの図と同じだ。だから、真空中を伝わる電子についても、同じことが当てはまる。電子銃で発射された電子と、感光板に到達する電子とは、別のものなのだ。
・ 電子Aが消滅して、真空中の波が発生する。
・ 真空中の波が消滅して、電子Bが発生する。
これが現実に起こることだ。つまり、ワープという現象である。
そして、それを見た人が、「一つの電子がAからBに移動した」と思い込むのである。(それは勘違いなのだが。電線中の電子が光速で動くと勘違いするようなもの。)
なお、ワープという現象については、比喩的に、「ミッキーの移動」という話でも説明される。
一部引用しよう。
パリでミッキーが消え、そのあとでミッキーがカリフォルニアで現われた。この現象を知った観客は、ミッキーがパリからカリフォルニアに移ったと信じがちである。これはこれで、面白い比喩(たとえ話)だろう。
しかし、ミッキーはパリからカリフォルニアに移ったのではなかった。現実には、一つのミッキーがパリで消え、別のミッキーがカリフォルニアで現われたのだ。
( → 「超球理論」における「玉突きモデル」の説明 )
──
(4) 媒体としての真空
玉突きモデルを取ると、次の重要なことが言える。
「真空は、何もない空間ではなくて、何らかのものが充満している空間である」
ここで言う「何らかのもの」とは、玉突きモデルにおいて ◯ で示されたものだ。
では、このような ◯ とは何か? それを考えるのが「超球理論」だ。
超球理論では、次のように考える。
「真空は、超球というもので満たされている」( ◯ が超球に相当する。)
これは、真空を一種の「媒体」と見なす発想だ。そして、ここまで来ると、重要なことがわかる。それは、
「超球理論(玉突きモデル)は、場の量子論のモデルとなっている」
ということだ。
「粒子説」(粒子モデル)では、真空とは、何もない空間だった。
「場の量子論」のモデルでは、真空とは、媒体としての空間だ。
そして、超球理論は、後者の立場を取る。つまり、超球理論は、場の量子論のモデルとなっているのだ。
( ※ 実際、場の量子論としての適格性をもっている。たとえば、空間を量子化することで、空間から量子が発生する、ということをモデル的に言える。こういうことは、粒子モデルからは決して得られないことだ。)
前にも述べたが( → 量子論の根源問題 )、現代の量子論とは、「場の量子論」のことである。にもかかわらず、量子の解釈としては、(時代遅れな)「質点の量子論」のモデルを取ることが多い。そして、その結果、いろいろと問題が起こる。
だから、(時代遅れな)「質点の量子論」のモデルなど、あっさり捨ててしまえばいいのだ。そして、かわりに、「場の量子論」のモデルを取ればいいのだ。そして、そうすれば、さまざまな奇妙な結論(重ね合わせ・多世界など)を避けることができる。……このことが、超球理論のモデルからわかる。
要するに、超球理論のモデルを取れば、何もかもがすっきり解決がつくのだ。
[ 付記1 ]
二重スリット実験についても、超球理論のモデルを取れば、すっきり解決がつく。
従来の発想では、「一つの粒子が二つのスリットを同時に通る」というような奇妙な解釈が出現した。
超球理論では、「波が二つのスリットを同時に通る」というだけのことだ。そのあと、干渉縞が生じるが、それは当然のことだ。何も不思議なことはない。
もし電子を1個ずつ発射したとしたら? そのときの電子は、(真空中では)波になっている。とすれば、干渉縞が生じるのは当然だ。「1個の粒子がたがいに干渉するはずがない」というような変な問題は、最初から起こらない。
ここでは、「波が干渉する」という説明だけがある。おかしなことは何もない。
[ 付記2 ]
観測との関係を説明しよう。
コペンハーゲン解釈では、「観測は状態を決定する」となる。たとえば、二重スリットを通った電子を観測すると、電子の状態が決定される、というふうに。
超球理論では、「観測は状態を決定する」ということはない。たとえば、二重スリットを通った電子を観測しようとすると、その電子は波であるのだから、粒子としての電子は観測されない。どこか一点に局在する粒子が観測されることはない。
ただし、波としての電子が波のまま観測されることはある。その場合、電子は波として観測されるだけだ。つまり、「波が空間を通過した」というふうに電磁波で検知される。位置は特定されない。……このことは、次の実験で示されている。
→ 日立の実験 (電子線バイプリズム)
要するに、量子は波のまま(近辺の空間全体に)観測されることがある。その場合には、「波から粒子へ」の転換が起こっていないから、粒子の位置は検出されない。粒子の位置が検出されるとしたら、「波から粒子へ」の転換が起こったあとだ。
とすれば、
「観測が状態を決定する」
ということはありえない。かわりに、
「状態が決定すると(波から粒子への転換があると)、観測可能になる」
ということがある。(順序関係は逆である。)
コペンハーゲン解釈を取る人々は、「観測する」ということと、「観測可能になる」ということとを、混同してしまっているのだ。
この件は、前に詳しく述べた。( → 観測とは ) これの [ 付記 ] では、次の皮肉も述べた。
比喩を言おう。あなたが歩いていると、美人を見つけた。素敵だな、と思って、じっと見ていると、彼女がこちらを向いた。そこであなたは、こう思った。「自分が見つめたから、彼女はこちらを向いたのだ。自分の意識が彼女の行動を決定したのだ」と。しかし、それは違う。つまり、「観測が状態を決定する」ということはありえないが、観測している人が「観測が状態を決定する」と勘違いすることはある。それがつまりは、コペンハーゲン解釈という勘違いだ。
[ 付記3 ]
話は変わるが、参考として、別の勘違いを指摘しておこう。正解ではなく、間違いの指摘。特に、初心者の初歩的な勘違い。
次の解釈がある。
「二重スリットを通る電子は、二つのスリットのうち、どちらを通るかはわからないが、必ず どちらか一方を通るはずだ。というのは、観測すると、必ずどちらか一方で観測されるからだ」
こういう解釈は、初心者の間違いである。こんなことはありえない。
現実には、次のようになる。
「二重スリットを通る電子を観測しようとしても、たいていは観測されない。スリットのところでちょうどうまく『波から粒子への転換』が起こることはないからだ。ほとんどの場合、量子は波のまま、スリットを通過する。したがって、スリットのところでは、粒子は観測されない。ただし、たまたま、『波から粒子への転換』が起こった場合には、必ずどちらか一方で粒子が観測される。とはいえ、そんなことは、めったに起こらない」
要するに、スリットに光を当てたって、たいていは何も見えないのである。なぜなら、そこでは粒子が発生していないのだから。
「そこには粒子があるはずだから、光を当てれば必ず見えるはずだ」と思い込むのは、早計だ。それは「電子は粒子である」という思い込みゆえの勘違いだ。
パリのディズニーランドでミッキーが消えて、カリフォルニアのディズニーランドでミッキーが出現した。すると、物理学者は、次のように考えた。
「ミッキーがパリからカリフォルニアに、瞬間的に移動したのだ。したがって、パリとカリフォルニアの中間に電波を当てれば、必ずミッキーの姿が見出せるはずだ」
そう思って、大西洋にくまなく電波を走らせてレーダーで探ったが、しかしながら、どこにもミッキーの姿は写っていなかった。物理学者は「不思議だ、不思議だ、ミッキーは途中ではどこに消えたんだ?」と首をひねった。
( ※ 正解は? ミッキーは、パリからカリフォルニアに移ったのではなかった。一つのミッキーがパリで消え、別のミッキーがカリフォルニアで現われたのだ。)
[ 付記4 ]
二重スリット実験について、コペンハーゲン解釈のどこがおかしいかも、本項からわかるだろう。
コペンハーゲン解釈では、次のように考える。
「一つの電子が、二つのスリットを同時に通る」
この発想では、次のことが前提となっている。
「一つの電子が空間中を進む」
その際、次のように考えている。
「電子銃で発射された電子と、感光板に到着した電子は、同じである」
こういうことを前提として、話が組み立てられている。
しかしながら、超球理論によれば、次のことが真実であるはずだ。
「電子銃で発射された電子と、感光板に到着した電子は、別のものある」
コペンハーゲン解釈では、
「出発点と到着点の電子は同じだ」
と考えたから、
「一つの電子の経路が確率的に予想される」
というふうに認識した。しかし、それは、妥当ではないのだ。正しくは、
「空間中を進むものは、一つの電子ではなくて、(超球の)波である」
というふうに認識するべきなのだ。その上で、
「どの超球が電子になるかは、確率的に決まる」
と考えるべきなのだ。
図式的に言おう。出発点の電子を A とし、到着点の電子を B とする。
(1) コペンハーゲン解釈では、
A=B
である。ただし、Bの位置だけが異なる。
(2) 超球理論では、
A≠B
である。そして、B がどれになるかは、
B ,B2 ,B3 ,B4 ……
などの多数の Bn のなかから、確率的に決まる。
確率的に決まるのは、到着点の位置でなく、選ばれる超球だ。
【 関連項目 】
粒子説について、次の項目もある。
→ 「粒子か波か」
これは、歴史的な背景を示す解説。科学史的な理解。
「粒子説」と「波動説」とを対比することで、量子についての歴史的な事情を明かす。「真実とは何か?」よりも、「過去の誤りは何だったか?」を知るために役立つ。

http://openblog.meblog.biz/article/1377081.html#comment
マクスウェルの電磁方程式であれば、c0^2=1/e0μ0(真空中の誘電率x透磁率)
つまり真空の持っているポテンシャル(潜在力)を意味します。
c0^2は時空の究極の力であり、質量に掛かりエネルギー交換する。
究極の力が4つの力に分かれたのではなく、4つの状態に究極の力が作用して変化を産む。 電気回路でいうと回路(物質)に電源(真空バイアス)が供給され信号(波)に変化するようなものです。
★波や物が何も無い時空を進むのではなく、光速度の二乗の力を持った時空が波や物の流動を押し進めるから、エネルギーは速度の2乗に比例するのである。 真空中で光速度リミッタが観測されるのもその究極の力があってこそのcだ。
そもそも力の作用方向が違うからエーテルの風は吹かない。
・現代物理学の物質観と時空(真空)観
相対性理論はエーテルを追放し、いったん真空を空にしたが、量子論とともに再び真空を物質で埋めた。
http://zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-64.html
絶対時空からの転換が中途半端で矛盾を呼んでいます。
絶対時空(ニュートン)→相対時空(アインシュタイン)→時空の変化力(ひゃま)
物が縮む(ローレンツ)→時空が歪む(アインシュタイン)→時空の力(ひゃま)
重力場のポテンシャル c0^2-2GM/r(重力と等価な慣性力)
その場の光速 c=√c0^2-2GM/r、 絶対屈折率 c0/c=c0/√c0^2-2GM/r
空間に何も無いなら慣性運動は起こりません。
時空が歪むと言われても何も無いなら歪みようがありません。
月が有るか無いかは観測者が見るかどうかによりません。
まるで観測者からどう見えるかという演繹は天動説に逆戻りさせた様です。
どのような規定で定めようが真空との力の相対しか有りえないのです。
★物や波の輝きは、時空の光の潜在力の表面的な輝きに過ぎない。
このエーテルの語源はギリシア語のアイテール (αιθήρ) であり、ラテン語を経由して英語になった。アイテールの原義は「燃やす」または「輝く」であり、古代ギリシア以来、天空を満たす物質を指して用いられた。英語ではイーサーのように読まれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB_(...
以上いかがですか? 本来、光と真空の相関を潜在力で見ないといけないのを、相対論は光速度で規定して一人歩きして説明しようとしても(結局、静止している系って何に対して? http://www.youtube.com/watch?v=VXdlehza6UI&feature=related のように循環する)、時空は歪み、重力との関係が無くなり特殊と一般に分け(無重力な空間など無い)それを量子化しろって言っても混迷しているのが現状です。 重力だけが行き来する高次元ワールドや膜理論と、力を持った時空とどっちが現実的でしょうか?
宇宙は究極の力の秩序の元で物に集まり波で拡散しています。
c0^2(真空ポテンシャル)=c^2(光速の二乗)+|2φ(重力と慣性力)±v^2(移動速度)|
ひゃまの時の変化力より