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西洋人は、死刑のない自分たちを「文明的だ」と見なして、死刑のある国を「野蛮だ」と見なす。( → 前項)
では、このように西洋と東洋で違いが出るのは、なぜだろうか?
西洋人の発想では、「自分たちが文明的で、東洋人は野蛮だから」ということになる。しかしその基準は「キリスト教徒であるか否か」だ。キリスト教を信じるものは文明的であり、キリスト教を信じないものは野蛮である。そういう宗教的価値観に基づいて判断する。……だが、このような発想は、キリスト教徒の思い上がりと言えるだろう。
東洋ではどうか? 「罪人を赦す」のとは逆に、「罪を赦してはならない」「罪を犯してはならない」という厳しい規律意識がある。
西洋人は悪を赦したがるが、東洋人は悪を赦したがらない。そういう違いがある。この違いは、社会における治安の差となって現れる。
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実際、日本は治安が良いが、欧米は治安が悪い。そのことは、来日した外国人がしばしば感嘆して指摘する。
→ 「アメリカではまず無理」「誰も盗らないことに感動」 日本の治安の良さに外国人が感激した瞬間3選 | Hint-Pot
では、日本ではない欧米人の社会とは、どういう社会なのか? 治安が良くないというのは、どういうことか?
例としてしばしば挙げられるのは、ローマやパリにおけるスリの横行だ。
→ ヨーロッパで「スリ」が多い理由とは?
→ イタリアはスリ天国、逮捕されてもすぐ釈放され刑務所で服役しないワケ
こういうスリをするのは、移民やロマ人や貧困層が多い、と思われがちだ。だが、それだけでは済まないようだ。
欧米人は、かなりの金持ちでさえ、「ちょっとした盗みぐらいは悪ではない」というふうに思っているらしい。
→ フランス人は結構気軽にレストランやバーのものを『失敬』する事があるらしい「しかも年もそこそこのいい服着ていい家に住んでるような金持ち」 - Togetter
(まだ盗まれたとは決まってないですが)以前、フランス人が結構気軽にレストランやバーのものを「失敬」するのに驚いた事がある。
しかも、若者ではなくて、年もそこそこの、いい服着ていい家に住んでるような金持ち。
知り合い(ともいえないような程度)の家にお邪魔した時、ちっこい置き物があって、あ、可愛い?と言ったら、「Ah, celui que j'ai pique au resto ?」とな。いや、piquerじゃないだろ、盗みだろと。その人、歯医者さん。
フランスのお金持ちは自分は特別な階級という意識が強いのか、そういうのが「許される」と思っている節があり、たかだか数十ユーロでグタグタいうな、お遊びだよ、的な。価値観が違い過ぎて絶対に親しくなれない。
ともあれ、西洋では治安が良くないことが多い。欧州もそうだし、北米諸国もそうだし、中米諸国はなおさらだ。いずこも治安が良くない。
そして、それというのも、盗みのような罪そのものが「悪いことだ」と認識されていないからだろう。
そのことは、たぶん、「罪は赦される」というキリスト教の発想から来るのだ。
特に、(プロテスタントのドイツは別だが)、カトリックでは、「(金を払って)免罪符を買えば、罪は赦される」という発想が強い。ここから、「赦しは金で買うものだ」という発想に至る。それは「悪は赦される」という発想がない東洋社会とはまったく別のものだ。
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結局、こうだ。
西洋人は死刑廃止論を唱える。それは、キリスト教の「罪が赦される」という発想があるからだ。そして、そのことゆえに、西洋では治安が悪い。罪が赦され、犯罪が赦されるからだ。
一方、東洋は逆だ。東洋には「罪が赦される」という発想がない。だから東洋では、社会の治安がいい。当然ながら、最悪の凶悪犯は厳しく処罰される。だから死刑制度も存続する。
こういう差があるわけだ。
さて。ここで問題だ。西洋と東洋のこうした違いは、いったいどこから来るのか?

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
(1) 罪と恥
ルース・ベネディクトは、著作「菊と刀」で、「罪と恥」というふうに対比した。
Feloの回答
ベネディクトは、西洋文化、特にアメリカ文化を「罪の文化」として位置づけています。この文化では、個人の行動が絶対的な善悪の基準に基づいて評価され、罪を犯すことが重大な問題とされます。個人の良心や倫理観が行動の指針となり、社会的な規範に従わないことは、罪として認識されます。
一方で、日本文化は「恥の文化」として特徴づけられています。ここでは、他者の目や社会的な評価が行動に大きな影響を与えます。日本人は、他者からの評価を非常に気にし、自分の行動が社会的にどう見られるかを重視します。このため、恥をかくことが避けられ、社会的な調和や義理が重視される傾向があります。
これはこれで興味深い指摘だが、東洋の治安の良さを説明するには足りない。
(2) 倫理学
倫理学における規範主義と功利主義という対比もある。
Perplexity の回答
規範主義と功利主義は、倫理学における異なるアプローチを代表する重要な立場です。両者の主な違いは以下の通りです:これらの違いは、倫理的判断や道徳的行為の基準をどこに置くかという根本的な視点の相違を反映しています。規範主義は普遍的な道徳規則の遵守を重視し、功利主義は結果としての幸福や効用の最大化を目指すという点で、倫理学における異なるアプローチを示しています。
- 判断基準:
- 規範主義:行為そのものの性質や規則への適合性を重視します。
- 功利主義:行為の結果や帰結を重視します。
- 道徳的判断の方法:
- 規範主義:普遍的な道徳規則や義務に基づいて判断します。
- 功利主義:最大多数の最大幸福を基準に判断します。
- 行為の正当化:
- 規範主義:行為が道徳的規則や義務に従っているかどうかで正当化します。
- 功利主義:行為が全体的な幸福や効用を最大化するかどうかで正当化します。
- 柔軟性:
- 規範主義:比較的硬直的で、状況に応じた柔軟な判断が難しい場合があります。
- 功利主義:状況に応じて柔軟に判断できますが、時に直感的な道徳観と衝突する可能性があります。
- 代表的な思想家:
- 規範主義:イマヌエル・カントが代表的です。
- 功利主義:ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルが代表的です。
これはこれで興味深い指摘だが、これもまた、東洋の治安の良さを説明するには足りない。
(3) 団体意識
そこで私は新たな発想を提出しよう。こうだ。
「東洋では(特に日本では)、個人主義とは逆の意識がある。それは、団体や集団の一員としてふるまうべきだ、という意識だ。我欲を殺し、滅私的にふるまう。利己主義とは逆だ。そのような方針が行動規範となる。このような団体優先の発想を、子供のころからたたき込まれる」
これは、儒教的とも言えるし、共同体的とも言える。このように、「個人を抑圧して、集団(団体)を優先する」という意識がある。
このような傾向があること自体は、目新しいことではない。以前から広く知られていることだ。ただし、次のことを新たに指摘したい。
・ このような団体意識を、幼児からずっとたたき込まれる。
・ そのことで、社会における行動規範が定まる。
こうして、「社会に迷惑をかけるようなふるまいは、やってはいけない」という意識も育つ。
ここで注意しよう。このような行動規範は決して(西洋的な意味の)倫理観から生じたものではない。善悪の規範となる法律に従おうという「規範主義」から生じたものではないし、そのようにふるまうと自分が幸福になって得をするからだという「功利主義」から生じたものでもない。西洋的な観点からの、個人的な規範主義や功利主義に基づく倫理観から生じたものではない。
それは個人的な行動規範ではないからだ。むしろ社会や団体の一員としての行動規範である。個人としてどういうふうにふるまうべきかを考えて、個人が各自で悪をしないのではない。個人が社会の一員として、社会に迷惑をかけるべきではないと考えて、社会の一員としてふるまう。それが悪をしないということになる。
これはこれで、「高い倫理観がある」というふうにも見える。実は、各人に特別に気高い正義感や潔癖感があるわけではなく、単に「社会に迷惑をかけて社会からつまはじきにされたくない」と怯えているだけなのだが、しかし、それでも周囲から見れば、「高い倫理観がある」というふうにも見える。だから、日本に来た外国人は、治安の良さに感嘆して、「日本は倫理が高い文明社会だ」と感嘆するのだ。
本当は、日本の文明が高度であるからではなく、単に集団に従う意識が強いだけなのだが。
ただ、それでもともかく、東洋や日本は「治安の良い社会」を構築する。そこでは個人の自由は抑圧されがちだが、それゆえ、罪や犯罪が免除されることもなく、治安の良さが保たれる。
西洋と東洋には、そのような違いがある。
西洋が東洋を見下して、「死刑制度のある国は野蛮だ」と見なすのは、西洋の思い上がりである。
東洋が西洋を見下して、「治安の悪い欧米社会は野蛮だ」と見なすのは、東洋の思い上がりである。
両者には違いがあるが、特に優劣があるわけではない。
ただし西洋の側は、やたらと優越感にひたりがちで、東洋を見下しがちである。そのことは、死刑制度を批判する国連の人を見てもわかるし、トランプ大統領のあれこれの主張を見てもわかるし、欧州人がガザの有色人種虐殺を見て平気でいるのを見てもわかる。
以上のように、話をまとめることができるだろう。
[ 付記 ]
前項では、「罪は赦される」というキリスト教の立場を解説した。
これと似た発想は、仏教にもある。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
これは親鸞の歎異抄の言葉だ。ここでは、悪人さえも救われるし、むしろ、悪人こそ救われる、という趣旨のことが語られている。
実は一般に、あらゆる宗教に共通することがある。それは、信じる人に慰めを与えることだ。信じる人は、信じることで、慰めを得られる。ただし、直接的に受け取るものが何かというと、それには若干の違いがある。
キリスト教では、受け取るものは、神の赦しだ。それは罪に対する赦しだ。今すぐに得られる慰めだ。
仏教では、受け取るものは、極楽への往生だ。それは死後に得られる安楽だ。それはやがて得られる幸福への期待だ。
ともあれ、キリスト教でも仏教でも、似たようなもの(慰め)を得られるわけだ。そこに、宗教の本質が見て取れる。
日々の人生が苦しくて苦しくて仕方ない。だから、その苦しみから逃れ、その苦しみに耐えようとして、人々は何かにすがりつこうとする。そのすがりつく相手が「神」である。そして、すがりついた相手から、人々は「慰め」を得られる。そのためには、神を信じるだけでいいのだ。信じるものは救われるのだから。
【 関連サイト 】
関連する情報がいくつかある。
《 ガザ状況は「恥ずべき」、ローマ教皇がイスラエル批判強める 》
ローマ教皇フランシスコは9日、パレスチナ自治区ガザの人道状況は「極めて深刻で恥ずべきもの」と述べ、イスラエルによるガザでの軍事作戦に対する批判を強めた。
( → ロイター )
《 ガザの死者数、実際には7万人超と推定 地元当局の発表を大幅超過 》
医学誌ランセットに発表した。それによると、2023年10月7日から24年6月30日の間にガザで外傷を負って死亡した人は、推定6万4260人だった。ガザのパレスチナ保健省は、この期間の死者を3万7877人としていた。
( → CNN.co.jp )
《 日本人は同情や共感が低く支援を求めにくい 名古屋大学が文化的背景を指摘 》
日本人を含む東アジア人は、欧米人に比べて、他者からの助けや感情的な支えといった社会的支援を求めることに消極的であることが知られている。
本研究では、新たに共感的関心(困っている人への同情や思いやり)に着目し、社会的支援の求めやすさへの影響を検討した。
( → 大学ジャーナルオンライン )
まず、キリスト教論で「罪」とは原罪を指すものであって、法的・道義的な「犯罪」ではないかと思います。
また、「○○教」という括りが大きすぎて、論ずるには相当な下地がないと厳しいと思います。日本は仏教・神道の国と分類されることと思いますが、仏教の経典、神道の教義に親しく触れて正確に理解している人は多くないと思います。教派によって経典も教えも異なります。「なんとなく」の感覚が文化の中に落とし込まれて国民性に影響を与えているのであって、「仏教のこういう教えがこの事象をもたらしている」などの直接的影響を論ずるのは困難と考えます。欧米では諸民族が入り乱れた歴史的経緯も複雑で、さらに難しくなります。
> 結局、こうだ。
と、まとめてしまうのはかなり思い切ったことで、暴論になりかねないなと思います。
> 私は新たな発想を提出しよう
「新たな発想」ではありませんよね。
昔から言いならわされていたように思います。
ジョークの題材にもなっていたような。
> 実は一般に、あらゆる宗教に共通することがある。
「宗教」を定義するのが難しい中、なかなか大胆なまとめ方だと思います。
管理人様の論説は時々すごく大胆で、まあ、それが魅力だったりするのですが。
ちょっと書き方がまずかったですね。
「団体意識があること」
それ自体は、前から広く知られています。
このことから倫理観に相当する行動規範が生じる、という点が、新たな発想だ。規範主義や功利主義に並ぶべき位置づけとして、団体意識というものがある、ということだ。
この点が説明不足なので、あとで書き直しておきます。
それは当たり前のことで、混同する人はいないでしょう。前項でも、
「刑罰が免除されることはないが、神に赦される」
と解説している。
とはいえ、キリスト教はどちらも「罪」という言葉を用いることで、両者を似たものである・同種の者であるというふうに意識させる。そのことで後ろめたい思いにさせる。そこへ神の赦しを与えようとする。
そういう構造がある。菊と刀にも解説してありそうだ。
AIの解説は、別に、AIに情報を教えてもらっているわけではありません。私が書こうとしていることがあって、それを書くときに、「私はこの分野では素人だから、私が素人として書くよりも、AIの解説の方が一般性があるな」と思って、AIに文章作成を頼っているだけです。情報そのものは、私が書こうとしていたことです。
したがって、AIの回答のうち、私が書こうとしていた部分だけ(半分〜8割ぐらいだけ)を抜粋して、引用しています。
また、AIへの質問を何度か変えてやってみて、そのうちの特定の1回だけが「狙い通りの回答だ」というふうに選ばれます。
AIに情報を教えてもらっているわけではありません。単に文章を書いてもらっているだけです。話の内容自体は、私の言いたいこと、そのまんまです。
ただし、AIがその文章を書いたので、AIの顔を立てて、「AIの見解です」というふうに記しているだけです。
実質的には、私の見解そのまんまです。だけど私はその分野では素人だから、「私の見解だ」として書くことはないだけです。
(1)「日本人はこうだ」とは言えるのですが、「西洋人はこうだ」とは言いにくいです。西洋人はずっと多様です。それで犯罪者も多いのです。
(2)日本人の集団主義は治安など良い面も多いのですが、とびぬける人の足を引っ張る悪い面もあります。日本ではマスクやゲイツは生まれにくいと思います。最近のIT社会でこの欠点が目立つようになってきたと思います。
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「団体意識があること」
それ自体は、前から広く知られています。
このことから倫理観に相当する行動規範が生じる、という点が、新たな発想だ。
> キリスト教はどちらも「罪」という言葉を用いることで、両者を似たものである・同種の者であるというふうに意識させる。
これは管理人様がそう誤解なさっているだけではないでしょうか。ミッションスクールや日曜学校などでも「日本語で「罪」というと犯罪を連想することと思いますが、聖書に書かれている「罪」は意味合いが違っていて」なんて教わるんじゃないでしょうか。
このあたり、AIに答えさせたら興味深いですね。AIの種類によって正反対の説明を出してくるようです。
いずれにしても、「仏教は」「神道は」「キリスト教は」「イスラム教は」というのは主語が大きすぎます。それぞれ構造が複雑ゆえ、その主語に対する適切な結論を設けるのが難しすぎます。特に世界宗教は世界各国・各民族に教義の異なる多くの宗派が分散浸透しているので「人間は」くらいの主語に相当してしまいます。
同じ言葉を取るのに、まったく別々のものだ、というのは、認められません。(異なる分野で転用するのは別だが。)