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この件は、前々項のメキシコの話で言及した。(再掲)
欧州は、日本のテロリストを死刑にしたことについて大騒ぎしているが、もっと重大な事件については等閑視している。それは、メキシコの政治家の大量殺害だ。麻薬マフィアが、自分の意に沿わない政治家を大量に殺害している。
麻薬マフィアが跋扈(ばっこ)して、政治家や国民を大量殺害しているという事実がある。
ならば、こういうところを問題視すればいいのだが、欧州は相も変わらず、年平均で5人ぐらいしかない 日本の死刑執行ばかりを問題にしている。
( → 人道主義(死刑・難民・麻薬・人質): Open ブログ )
メキシコであれ、ガザであれ、さらにはアフリカ難民であれ、世界には多数の虐殺や人命軽視が見られる。なのに、それらの問題をうっちゃって、日本における年間5人ぐらいの死刑ぐらいにこだわる。大きなものを見失って、小さなものばかりにこだわる。
しかも、である。これらの死刑囚は、2人以上を殺害した凶悪犯であって、処罰されるのはやむを得ない面もあるのだが、これらの悪魔的な凶悪犯の命を救うことばかりに熱中する。無辜の民であるガザの女や子供たちが虐殺されても放置するくせに、悪魔的な凶悪犯の命を救うことの方に熱中する。
まったくバランスを失している。ほとんど狂気の沙汰だ。なのに、こういう狂気的な判断を、西洋人は「人道的だ」と判断する。自分たちが正しいことをしていると信じている。
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このような西洋人の発想は、国連特別報告という形を取った。
日本の死刑制度が国際法に違反する疑いがあるとして、国連人権理事会に任命された「特別報告者」が日本政府に対し、執行方法の見直しや執行停止の検討を求める通報を行った。人権問題の専門家である特別報告者が、日本の死刑制度に特化して通報するのは初めてとみられる。
死刑が取り返しのつかない刑罰であることを踏まえ、「非人道性」を排除しないままの執行は「モラトリアム(停止)を求める」と結んだ。
特筆すべきは6テーマの報告者が名を連ねたことだ。日本の死刑制度が「恣意的拘禁」や「拷問」などに加え、「プライバシー」「健康」など様々な点で深刻な問題をはらんでいることを突きつけた。
国連の人権理事会や人権条約機関の審査は日本の死刑制度を何度も人権問題の一つとして扱ってきたが、死刑に特化して、これほど多様な観点で問題を指摘したのは初めてだろう。
( → 日本の死刑「停止検討を」 国連特別報告者、「非人道性」「国際法違反の疑い」通報:朝日新聞 )
現実にはアンバランスで狂気的なことをしているのだが、そのことに気づかず、自分たちが人道的なことをしていると思い込んでいる。
「日本における死刑執行をする野蛮な制度を否定するなんて、おれたちは人道的だなあ」
と思い込みながら、ガザにおける女子供の大量虐殺を放置する。
あるいは、ユダヤ人を助けることで、
「虐げられたユダヤ人やシリア難民を助けるなんて、おれたちは博愛的で人道的だなあ」
と思い込みながら、ガザにおける女子供の大量虐殺を放置する。
要するに、「自分たちは天使だ」と自惚れながら、イスラエルの悪魔的な残虐な行為を容認する。天使の顔をした悪魔である。
あまりにも異常だ。いったいどうして、西洋人はそんなに狂気的なことができるのか?
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そのことがずっと謎に思えていたのだが、ずっと考え続けたすえ、ようやく結論に至った。つまり、真相にたどり着いた。それは、ルース・ベネディクトの「菊と刀」を思い出したことによる。キリスト教徒の根源に「罪の意識がある」という話。これがヒントになる。
そこから最終的に、こう結論できる。
「西洋人の発想の根源には、キリスト教の宗教観がある。それゆえに、悪をなしたキリスト教徒を赦す。一方で、悪をなしていない異教徒の命をないがしろにする」
こういう形で、キリスト教徒の罪は許され、凶悪犯の罪も許され、凶悪犯の命は救われるべきだと考える。その一方で、異教徒の命は、もともと考察の対象外なので、いくら殺されても無視するのである。
以上が結論だ。以下では詳しく解説しよう。
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話の根源には、西洋の主流であるキリスト教の発想がある。
キリスト教では、「罪の意識」がある。人は全員が罪人(つみびと)である。それは神の下における罪である。ここでは、全員が罪人であるが、全員が赦される。赦されるには、どうすればいいか? 懺悔をして、悔い改めればいい。罪はあるが、罪は赦される。信じるものは救われる。それが、キリスト教社会の文化であり、西洋の文化である。
この発想は、死刑囚にも適用される。
死刑囚は罪をなした。だが、懺悔をして、悔い改めることで、罪は赦される。懲役刑という刑罰が免除されることはないが、神に赦される。神に赦されるのだから、命を奪われることはない。そういう理屈で、死刑廃止にたどり着く。
つまり、キリスト教的な宗教観においては、どんなにひどい凶悪犯であっても、その罪は神の赦しを得て、命を救われるのである。あらゆる人は罪人であり、あらゆる罪は赦され、あらゆる命は守られるのだ。命を奪う権利をもつのは神だけであり、神に召されるまでは人が人の命を奪うことはあってはならないのだ。
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この件については、私の意見だけでなく、AIの解説もある。
Feloの回答
質問:キリスト教社会では、罪は許されるか
回答:
キリスト教社会において、罪は許されるという概念は非常に重要であり、聖書の教えに基づいています。
神の許し: キリスト教の教義によれば、神はイエス・キリストの犠牲を通じて人間の罪を許すことができます。信者は、心から悔い改め、イエスを信じることで罪の許しを受けることができるとされています。
他者の許し: キリスト教徒は、神からの許しを受けた者として、他者をも許すことが求められています。
キリスト教社会では、罪は神の恵みによって許されると信じられていますが、その許しは悔い改めと信仰に基づいています。また、許しを受けた者は他者をも許すことが求められ、罪の結果に対する責任も重要視されています。
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キリスト教社会では、人は誰しも、赦しを得られるし、命を守られる。こういうふうに命を尊重することが人道的な(文明的な)ことなのだ、と思い込んでいる。
それでだけではない。キリスト教社会では、最も悪質な凶悪犯こそが、最も大きな赦しを得る資格がある、とも見なされる。なぜなら、そのことで神の偉大さが称えられるからだ。
最悪の凶悪犯である大量殺害者でさえ、神の赦しを得て、生命を救われる。それはキリスト教の宗教観では、神の偉大さを称えることと同様である。ゆえに、最悪の凶悪犯の命を救うことは、キリスト教の布教活動においては必要不可欠なことである。
だから彼らは、キリスト教の布教活動の一環として、野蛮で非文明的な異教徒たちに、崇高なキリスト教の発想を教えてやろうとするのだ。非道な野蛮人にキリスト教の崇高な概念を教え込むこと。その一環となるのが、「死刑廃止」なのである。
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ついでに言うと、このような西洋の方針には、歴史的な伝統がある。過去の西洋について、AIの解説を示そう。
Feloの回答
大航海時代におけるスペインはカトリック教会の強力な支持を受け、異教徒を改宗させることを重要な使命としました。特に、16世紀の宗教改革によってプロテスタントが台頭したことから、カトリック教会はその権威を守るために積極的な布教活動を行いました。
キリスト教の布教は、植民地政策を正当化する手段としても機能しました。探検家たちは新しい土地での支配を宗教的な使命として捉え、現地住民に対する支配を「文明化」として説明しました。
西洋はアジアやアフリカを植民地化することを、野蛮人への文明化と見なして、是認した。
日本も同様であって、明治維新がなかったなら、もう少しで植民地化されるところだった。
→ 明治維新と武力 : nando ブログ
西洋には十字軍以来の「キリスト教化」という伝統がある。その一環として、「人命尊重」「死刑廃止」という方針を強制しようとしているのだ。愚かな野蛮人に、神の赦しを教えるという形で。(その裏ではひそかに、偉大なる神を称えながら。)
こうしてすべては、キリスト教の概念で説明されるのだ。
※ 話が長くなったので、いったん中断します。
続きは、次項で。
裁けるのは神様だけということでよい点は、神様以外の権威を認めないことです。上司や教授が何を言っても信用せず、自分の考えを通すことができます。西洋で科学が発達したのはそのっためだと思います。
> それでだけではない。キリスト教社会では、最も悪質な凶悪犯こそが、最も大きな赦しを得る資格がある、とも見なされる。なぜなら、そのことで神の偉大さが称えられるからだ。
⇒ 日本の仏教宗派に置き換えると、親鸞上人を開祖とする浄土真宗あたりが、「悪人正機」といって、これに近い根本教義を持っていますね。また、先に法然上人が開いた浄土宗も、これに近い教えはあるようで。
<Google検索:AIによる概要>
悪人正機(あくにんしょうき)とは、他力本願と並んで、浄土真宗の教義のひとつです。「阿弥陀仏の本願の正機は悪人である」という思想です。(中略)
・阿弥陀仏の本願は、罪業の深い悪人を救うことにある。
・悪人こそが極楽に往生しうる者である。
・自分の犯した罪を自覚し、罪悪感や後悔の念から深く苦悩し続けた悪人ほど、仏教の学びは進みやすい。(後略)
⇒ それで、私のほうでも Felo に、「日本で、死刑に対して否定的な仏教の宗派はなんですか?」と聞いてみたところ、
日本において死刑に対して否定的な立場を取る仏教の宗派には、主に浄土宗や真宗が含まれます。これらの宗派は、いのちの尊厳や慈悲の教えに基づき、死刑制度に対して批判的な見解を示しています。(以下略)
という回答が返ってきました。筆者がいうところの西洋の主流であるキリスト教≠ニ何か同根のものがあるように感じます。
<Felo の回答全文>
https://felo.ai/ja/search/Ru4FXvN8KvCuPVRyHZakuS
perplexityに尋ねてみても重要な点で類似が見られるとのこと。独りでこの考え方に到達した親鸞って凄かったんだ!
本論から外れた感想、失礼しました。
話が長くなるので、次項に回したけれど。