2024年12月18日

◆ 企業に人権はあるか?

 「企業に人権はある」という石破首相の発言があった。いかにも奇妙な詭弁である。

 ──

 (1) 石破発言

 「企業に人権はある」というのは、いかにも奇妙な詭弁である。しかるに石破首相がこの発言をした。
 石破茂首相は10日の衆院予算委員会で、野党が要求する企業・団体献金の禁止に関し「企業も表現の自由は有している。献金を禁じることは、少なくとも憲法21条には抵触すると考える」との見解を明らかにした。
 「参政権ではなく表現の自由だ」と答えた。
( → 企業献金禁止「憲法に抵触」 石破首相、21条表現の自由巡り | 共同通信

 献金を「表現の自由」と見なすのも滅茶苦茶だが、企業に人権を認めるというのはもっと奇妙だ。
 日本国憲法
 第三章 国民の権利及び義務

 第十一条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。
 この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 第二十一条
 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
( → 日本国憲法 | e-Gov 法令検索

 憲法第21上は、それ単独で規定されているのではなく、第三章第十一条の規定とともに、日本国民に与えられるものだ。もちろん、外国人は対象外だし、犬や猫も対象外だ。日本国民ではないものはすべて対象外だ。
 ところが、日本国民を対象とした憲法の基本的人権を、企業がもつ、と石破首相は答える。日本国民でないものが、日本国民の権利をもつ、というわけだ。……滅茶苦茶すぎる。これには、唖然とするしかない。

( ※ 企業が日本国民でないことは、企業が戸籍登録されていないことからもわかる。出生届も出されていないし、誕生日や年齢も続柄も記されていない。企業は人間ではないから、日本国民でもないわけだ。)


 (2) 非合理

 そもそも企業に人権があるわけがない。企業は人間ではないからだ。特に、生命を持たない。
 仮に企業が人権を持つのであれば、生存権を持つ。ゆえに、企業を消滅させたなら、企業の生存権を損なうから、企業を消滅させた人は殺人罪で逮捕されることになる。しかし、企業を消滅させたからといって殺人罪にはなるというのは、滅茶苦茶だ。狂気的とも言える。
 企業を日本国民と見なすのも、企業に基本的人権があると見なすのも、狂人の発想だ。石破首相は、狂人と言うしかない。気違いが日本の首相になってしまったわけだ。ひどいものだ。

  ※ 韓国では独裁者が戒厳令を発したが、日本では狂人が憲法無視の暴論をふるっているわけだ。どっちがひどいんだろう? 


 (3) 最高裁判決(1970年)

 ただし、石破首相の場合、ただ一人で狂っているわけではない。それには前例があるのだ。つまり、1970年の八幡製鉄事件の判決だ。ここでは、石破首相と同様の暴論が唱えられている。「企業にもなるべく人権が認められるべきだ」という趣旨。
 八幡製鉄政治献金事件で最高裁大法廷は(最大判昭和45年6月24日民集24巻6号625頁)、会社にも人権が保障されることを認めた。その理由は、会社も自然人と同様な社会的実在であることに求められた。
( → 企業価値と人権をめぐる覚書−憲法からの問題提起

 本判決は法人の人権がどこまで認められるか、という点でも注目され、憲法学界において注目される判決であった。法人の政治的自由が認められたことは一つのエポックであった。
( → 八幡製鉄事件 - Wikipedia

 このようにして、1970年の最高裁判決では、企業の人権が認められることとなった。
 だから、石破首相が「企業に人権がある」と主張しても、それは彼個人の独自の主張だというわけではなく、昔の最高裁の判決に典拠があるわけだ。決して暴論ではない。
 とはいえ、先にも (2) で述べたように、いかにも非合理である。


 (4) 法的手続き

 1970年の最高裁判決をしたころは、最高裁は自民党べったりであり、自民党に有利になるように判決を歪める傾向があった。そのせいで法的には滅茶苦茶な理屈を出すことはあった。この件でも同様だったと言える。
 そもそも、会社などを法人と呼んで、会社を人のように扱うとは、どういうことか? 
 それは、「現実に人と同様のものと見なす」という意味ではなく、「法律上では人のように扱う」という意味だ。つまり、法的手続き上の手続き論を述べただけだ。
 たとえば、下記だ。
  ・ 法的契約を結ぶことができる
  ・ 土地の所有権を持つ
  ・ 納税の義務がある

 これらの行為は、普通は人間が行う。犬や猫はそういうことはできないが、人間はそういうことができる。同様に、会社などの組織もまた、同様のことができるようにする。……そういう法的手続きをするために、「法人」という法的資格が与えられる。このことで、抽象的な組織が人間のようにふるまうことができる。
 ただし、それはあくまで「法的手続き」における話だけだ。決して法人が人間生命を持つことを意味しない。当然、法人には結婚権も参政権も与えられない。また、法人を消してもは殺人罪は適用されない。
 以上のことから、法人には基本的人権などはない、とわかる。表現の自由のような権利もない、とわかる。もちろん、法人に表現の自由を認めてもいいが、それは、法人に基本的人権があるからではない。そこを勘違いしてはならない。
 さらに言えば、献金が表現の自由であるわけがない。献金はたいていはこっそりと内緒で行うものであり、表現するどころか表現しないことを目的とする。そんな行為に「表現の自由」などがあるわけがない。
 石破首相の論理は、あまりにも詭弁が過ぎる。


 (5) 最高裁判決(1996年)

 石破首相の理屈の根拠は、1970年の最高裁判決だが、1970年と言えば、半世紀以上も前だ。そんな昔の判決は、あまりにも古すぎる。
 実を言うと、頭が化石化している石破首相と違って、まともな頭がある人ならば、ググるだけで真相がわかる。最高裁判決は、1970年の化石的な判決のあとで、1996年に新判決が出たのだ。そこでは、「企業献金はダメだ」という新判決が出た。
 1996年に新判決の内容は、次の通りだ。( Feloの回答)
 企業や団体が政治献金を行うことは、個々の会員の意志に基づくべきであり、強制的な徴収は許されないとされました。
 最高裁は、企業や団体による政治献金が、公共の福祉に反しない限り、憲法上の権利として認められるとしつつも、個人の自由や権利を重視する立場を取ったため、事実上、個人以外の献金を否定する形となりました。

 企業献金の制限:
  最高裁は、企業や団体が政治団体に対して金銭を寄付することは、憲法上の「表現の自由」に基づく権利の一部であると認めつつも、企業が政治活動において影響力を持つことが適切かどうかについて疑問を呈しました。特に、企業は投票権を持たないため、政治献金を通じて政治に影響を及ぼすことは問題があるとされました。

個人の判断の重要性:
 判決では、政治献金は個人の自由な判断に基づくべきであり、企業や団体がその意志を代弁することは適切ではないとされました。これは、企業献金が個人の政治的自由を侵害する可能性があるためです。

立法政策の必要性:
 最高裁は、企業献金の弊害に対処するための具体的な法的枠組みを整備することは立法政策に委ねられるべきであるとし、企業献金の禁止や制限については国会での議論が必要であるとしました。

 新たな最高裁判決では、企業献金について「企業は基本的人権を持つ」というような詭弁を持ち出すことはなくなった。
 なのに、石破発言は古い判決ばかり見ていて、新しい判決を見ない。頭が半世紀以上も前の状態に固執しているわけだ。ボケているのかもね。


 (6) 石破の発言修正

 さすがにそのボケぶりを指摘されたらしい。12月10日の報道のあと、三日後に発言を訂正した。朝令暮改ふうで、みっともない。
 しかも、そこでは相も変わらず、半分ぐらいは強弁を続けている。つまり、「1996年の判決がある」ということに気づいていない。自分の間違いに気づいていない。
 石破首相もひどいが、石破首相の間違いを指摘しない部下(法務官僚)もひどすぎるね。主人が馬鹿だし、部下も馬鹿だ。まともに法律を理解する人がいないのだろうか? 
 せめてAIに質問すれば、正解を教えてくれるのだが。

 石破首相が国家答弁するより、AIに国会答弁させる方が、ずっとまともになるだろう。そうすれば、少なくとも最高裁判決を理解しないというデタラメ状態を是正することはできるはずだ。



 [ 付記 ]
 この問題は、政治献金の問題だ。
 石破首相は、企業の政治献金を続けるために、「企業には政治献金の自由がある。それは企業の基本的人権だ」という詭弁を繰り出した。
 では、そういう詭弁でなく、正解は何か? ……それはまた、別の話題となる。ただし、この話題については、すでに扱った。前項がそうだ。前項を読めば、「企業の政治献金をどうするべきか」という問題に、正解が与えられている。

 ※ その核心は? 「企業献金は、禁止はしないが、明朗化する」ということだ。詳しくは前項を参照。
   → 政治資金規制の対案: Open ブログ

posted by 管理人 at 22:00 | Comment(2) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
先のスレッドのあった「不倫をする人間は人を裏切る」という言葉は私の心に突き刺さりました。私が不倫をしたということではありません、念の為。その意味で、玉木も小泉息子も「人を裏切る人間だ」との認識が明確になりました。
国民民主がキャスティングボードを握り、自動的に自民につくようにしたことは野党にとってはものすごくまずかったでしょう。
企業献金も、組合系の団体献金も一律に禁止という国民民主の主張に立憲が乗れば、野党は一本化され国民民主だけが調子に乗ることもなかったし、弱小与党は困ったことになったでしょう。
企業や団体が寄付をするなら、国連とか世界の貧しい人とかに利他性による献金であるべきでしょう。企業が自国の政治団体に献金することはビジネス行為でしょう。表現の自由には当たらないでしょう。
Posted by SM at 2024年12月19日 14:22
1996年の南九州税理士会政治献金事件最高裁判決の判決文を、
ちゃんと読む、別に読まないでもPDFごとAIにぶっこんでしまえば、おかしな結論は出ない。
下記に記す通り、1996年の判決は八幡製鐵事件をまったく否定していない。
むしろ肯定しつつそれが及ばない範囲を指摘している。


1996年の南九州税理士会政治献金事件最高裁判決の判決文
https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/864/055864_hanrei.pdf
これをGrokにぶっこんだところ・・・

八幡製鐵事件の判例との関係
この判決では、八幡製鐵事件(最高裁昭和45年6月24日大法廷判決)の判例が参照されていますが、
税理士会と会社の法的性格の違いから異なる結論が導かれています。
八幡製鐵事件の判旨
八幡製鐵事件では、会社が政党に政治資金を寄付することが問題となりました。最高裁は、会社の定款に明示された目的に限定されず、
会社の社会的役割を果たすためにされた行為であれば、目的の範囲内の行為と認められると判断しました。

つまり、会社が政治献金を行うことは、客観的・抽象的に見て社会的役割に関連する場合、定款の目的に含まれるとされました。

本判決との比較
法的性格の違い: 本判決では、税理士会は会社とは異なり、強制加入団体であり公的な性格を有すると指摘されています。
税理士法により目的が具体的に定められており、会社のように広範な解釈を許容すると法の趣旨が没却されるとされました。

目的の範囲の解釈: 八幡製鐵事件では会社の目的が柔軟に解釈されましたが、税理士会については、会員の思想・信条の自由を侵害する可能性があるため、
政治団体への寄付は目的の範囲外と厳格に判断されました。

結論の相違: 八幡製鐵事件では政治献金が認められたのに対し、本判決では税理士会の政治団体への寄付が否定され、特別会費徴収決議が無効とされました。

位置づけ
本判決は、八幡製鐵事件の判例を踏まえつつ、税理士会の特殊性(強制加入団体、公的監督下にあること、会員の思想・信条の自由への配慮)を強調し、
会社に関する判例をそのまま適用することはできないと明確に区別しています。この違いが、本判決が八幡製鐵事件と異なる結論に至った根拠となっています。

結論
この判決は、税理士会が政治団体に寄付するための特別会費徴収決議を無効とし、上告人の納入義務不存在を確認しました。
八幡製鐵事件では会社の政治献金が目的の範囲内とされたのに対し、税理士会の法的性格や目的の特殊性から異なる判断が示され、両者の関係は対比的に位置づけられています。
Posted by カエル at 2025年03月16日 04:14
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