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能登の水害(9月)は記憶に新しい。そこで石破首相も所信表明で、「能登の復興」を唱えた。
能登半島では、今年の元日、地震により一瞬にして奪われました。……その後さらに能登半島地震の被災地を豪雨が襲い、河川の氾濫や土砂災害が相次ぎ、多くの尊い人命が失われました。度重なる被災の前の活気ある能登を取り戻すため、復旧と創造的復興に向けた取組を一層加速してまいります。
( → 所信表明演説 | 首相官邸ホームページ )
一方、もはや忘れられたかもしれないが、山形の水害(7月)もあった。これも同程度に大規模な水害だった。回顧する朝日の記事がある。
山形県と秋田県で、死者5人、約2100棟の住宅に全半壊や浸水などの被害をもたらした豪雨から2カ月。
米どころで知られる庄内地方の田園風景は、7月25日に降った大雨で一変した。
( → (Photo Story)明日が怖くて:朝日新聞 )
こういう大規模な水害があった。
ここで、前項のことを思い出す。「防災庁が設置される」と。
では、防災庁はそもそも、何をするのか? 新たな省庁ができるとして、いったい何をやるのか? ……それについては、前項の最後の 【 追記 】 で記した。再掲しよう。
防災庁がやるべきことは何か? 簡単に言えば、「被害の最小化」だ。加えて、「そのためにかける費用は、なるべく少なくすること」だ。つまり、コスパを最大限にすることだ。
とにかく、知恵を絞ることで、莫大な被害の発生を最小化することができる。莫大な金をかけるのではなく、莫大な知恵を投入することで、超巨額の自然災害を最小化する。もちろん、人命被害も最小化する。
これは原則ないし理念である。
その具体的な例として、能登や山形の事例をケーススタディふうに示そう。
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石破首相は「被災地を復興する」という。世論の多くも「一日も早く被災地を復興しよう」と言う。そのためには莫大な費用がかかるが、その金は当然、増税でまかなうしかない。
ところが、「復興のために増税します。消費税を1%だけ上げます」と唱えれば、国民はこぞって大反対する。
要するに、人々は口では心優しく「復興を」と唱えるが、「じゃあ金を出せ」と言われると、後ろを向いて、逃げ出してしまうのだ。なぜか? 彼らは当初、金は天から降ってくるとばかり思っているからだ。ところが現実には、そうは行かないから、莫大な復興の金は、増税でまかなうしかない。その真実を突きつけられると、たちまち逃げ出してしまうのだ。破綻。
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国民も政府も、ともに愚かである。そこで、こういう愚かな人々のかわりを果たすのが、防災庁の務めだ。その目的は、こうだ。
「最小の費用で、最大の効果をもたらす」
つまり、人々のかかる負担は最小にして、被災の削減を最大化する。そのための方法は何か? 知恵だ。知恵さえあれば、「最小の費用で、最大の効果」が実現できるのだ。
「そんなうまいことができるのか?」
という疑問は、当然、生じるだろう。そこで、ケーススタディとして示すのが、能登と山形の事例だ。
復興はしない
原則がある。「復興は目的としない」ということだ。なぜなら、復興は「地方振興」という方針の一環であり、莫大なコストがかかるからだ。それは「最大の費用で最小の効果」というのに近い。(つまり逆効果。)
なぜか? 「地方の復興」というのは、「水は高きから低きに流れる」というのに逆らう方針だからだ。そもそも、地方はどんどん衰退する。特に、日本海側は、急激に衰退していくしかない。そこには原理的な理由があるからだ。前出。
→ 能登はなぜ栄えたか?: Open ブログ
- ※ 江戸時代には、中国・朝鮮との貿易が盛んで、北前船が日本海を巡って、産業の基幹となった。しかし開国後は、欧米との貿易が盛んとなり、平地の少ない日本海側は衰退するしかなくなった。
水は高きから低きに流れる。それに逆らって、低き水を高みに戻そうとしても、それは、シジフォスの神話の努力にすぎないのだ。(無駄なあがき、ともいう。)
石を上げても上げても、また落ちる。
復興は目的ではない。地方振興は目的ではない。
では、何が目的か? 人を救うことだ。そして、そのためには、ふるさとをあえて捨てることが必要なのだ。なぜなら、ふるさとは危険な土地であるからだ。
被災地は、そこが危険であるがゆえに、大きな被害を受けた。ならば、その危険な土地を離れるべきなのだ。
逆に、現状でそのまま復興することは、危険な土地にあえて留まることを意味する。それは、「自殺をしそこなって、死なずに済んだ」という人に、「もう一度自殺をするチャンスを与えます」というようなものだ。馬鹿げている。
しかも、そのために巨額の費用を負担します、というのでは、滅茶苦茶である。人を救うために金を出すのなら道理が通るが、人を自殺させるために金を出すのは道理が通らない。
だからこそ、「復興」のためには金を出すべきではない。というか、そもそも、「復興」をするべきではない。代わりに、新たに安全な土地での「移転再興」または「新興」をめざすべきなのだ。
救われるべきものは、土地ではなく、人だ。そこを間違えてはならない。「ふるさとを元通りにするために金を出す」というのは、名分だけは立派だが、人々は本心ではそれを望んでいない。
なぜなら、「そのために金を出してもらいます。消費税をを1%だけ上げます」と言われれば、人々は羽虫のように雲散霧消してしまうからだ。
こういうふうに口先だけは立派で 金を出さない人々の代わりに、知恵を出すべきなのが、防災庁なのだ。
※ 次項に続きます。(能登と山形のケーススタディ)
なお、読みは「きたまえせん」ではなく、「きたまえぶね」です。読みも間違えていました。お詫びします。