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パトカーが出向いたことについては、「そんな無謀なことはするな」と結論した。つまり、こうだ。
「巨大な自然災害に対して、人はあまりにも無力だとわきまえよ。とりあえず、何とかなるさと思って、無防備なまま嵐のさなかに出向くのは、自殺行為だ」
ひとことで言えば、「驕るな」ということだ。
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さて。それはさておき。もう一つ、別の話題がある。山間僻地における洪水という問題だ。次の記事がある。
山形、秋田両県を中心に降った記録的な大雨の影響で、多くの住民が避難を強いられている。
約80世帯が暮らす住宅地のほぼ一帯が水につかった蔵岡地区は27日午後になっても、茶色く、分厚い泥で覆われていた。
村は「日本三大急流」に数えられる最上川の中流にあり、過去にも何度も水害に見舞われてきた。ただ、今回はレベルが違った。氾濫(はんらん)を繰り返す支流から集落を守るための「輪中堤」も整備されていたが、最上川の本流があふれた。
同じ地区の柳田まゆみさん(37)は……水害に備え、1階が店舗、2階と3階が住宅だったが、高さ約4メートルの2階まで浸水した。「こんな思いをするなら、いっそのこと国や行政にここには住めません、移転してくださいと方針を決めてほしい」と話した。
村で舟下りを運営する最上峡芭蕉ライン観光の船舶課係長の三瓶勇さん(37)は……社が所有する16隻のうち11隻を流失した。
三瓶さんは「こんな小さな村に人が来てくれるのも、川の恵みがあってこそ。適度な量で降ってくれることを願うばかりです」
( → 大雨で靴も車も流され 停電で冷房使えず 記者が歩いた山形・戸沢村:朝日新聞 )
「適度な量で降ってくれることを願うばかりです」というが、そういう時代はもう終わった、と理解するべきだ。今では毎年のように、どこかで洪水被害が起こる。本サイトでも毎年毎年、水害の記事を書いている。
「適度な量で降ってくれる」ということは、もうないのだ。今後は毎年毎年、日本のどこかで、ひどい水害被害が起こる。
とすれば、どうすればいいのか?
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この件については、前に考察したことがある。
→ 川沿いの危険地は居住制限せよ: Open ブログ
要するに、川のすぐそばには住むべきではないのだ。すでに住んでいる人には、立ち退きを勧告するべきだ。また、(土地が格安だからという理由で)介護施設があるなら、閉鎖命令を出すべきだ。
このような場所は、たいていが田んぼだらけであって、土地はいくらでも余っている。なのに、多くの人家が、川のすぐそばに建つ。これでは洪水で莫大な被害を受けるのは当たり前だ。最低でも川から 100メートルぐらいは離れるべきだ。できれば 500メートル以上は離れるべきだ。そのあたりにも、いくらでも土地は余っているのだから、そういうところに家を移すべきなのだ。別に、上り下りで不便な高台に移る必要はない。単に川から遠ざかるだけでいいのだ。そのくらいのことならば簡単にできるはずだ。
ところが、人々はそうしない。安全な土地には移りたがらず、あえて危険な川沿いの土地に住みたがる。「そこに愛着があるから」というような理由で。
これはつまり、人々があえて自殺行為をしている、ということだ。だから毎年毎年、水害の被害が起こるし、水死者も出るわけだ。
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パトカーで水死者が出るのも、洪水で水死者や家屋浸水が起こるのも、すべては意図的な自殺行為が原因なのである。そこで被害が生じるとわからないのではない。そこで被害が起こるとわかっていながら、あえて被害が起こるところに身を突っ込むのだ。狂気の沙汰だ。レミングの自殺行為みたいなものだ。
レミングの集団自殺(想像図)
家のある所に狭い道をつけるのはドブ板民主主義です。いつまでたっても今より良くなりません。日本は戦後ずっとドブ板でした。国交省の怠慢とマスコミの民主主義に対する無理解の結果です。
一方で、川沿いの地域は家が密集しているところがある。なぜか? 私が思うに、夏は涼しくて、過ごしやすいからだ。快適な場所に人が集まる。
かくて、わざわざ危険な場所に人は集まる。飛んで火に入る夏の虫のごとく。集団自殺のレミングのごとく。
「毒まんじゅうをあげます。食べれば死にますが、おいしいですよ」と差し出せば、愚か者はどんどん毒まんじゅうを食べる。「おいしい、おいしい」と喜びながら死ぬ。