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制作は対面で
制作は対面してやるべし、ということを、前にも述べた。
→ 原作改変・総括 .2(対策): Open ブログ
→ 原作改変・総括 .5(補足): Open ブログ(前項)
これと同趣旨の話を、漫画家が述べている。体験記ふう。
このキャラ作りのそもそもの工程や作業、想いなどが伝わっていなければ、ただ「口うるさい」と言われてしまいます。こういうことは、編集部を介した伝言ゲームでは伝わりません。みんなが顔を突き合わせて、定期的に想いのすり合わせをする必要があるのです。ああそうだったのだ、そういうことなんだっていう「納得」が生まれます。さらにこうしたすり合わせが互いの仕事に対する「リスペクト」に繋がります。
原作者が生んだ子供の子育ての苦労話、想い、大事な子供を預けるにあたってやってほしいこと、やっちゃいけないことこういうことを話す場が必要です。納得がリスペクトに変わっていくと仕上がる作品も違ってくるわけです。
魅力的なキャラとストーリーを紡げる人とそれができなくて乗っかる人との間には元々理解し得ない大きな溝があるんです。
もちろん、この話し合いの場で、乗っかる人たちもすべての打算を吐き出すべきです。この俳優をこう使いたい、こう売りたい、こう魅せたいなど…耳を傾けない漫画家はいないと思います。
ゼロから1を作り、それが1以上になるメディアミックス。許諾した以上は本当に楽しみなんですから。是非、原作者には監修料というのを発生させて共にいいものを作るチームづくりを目指してもらいたいです。
長々と書きましたがいかがでしょうか。仕事にトラブルはつきものです。トラブルの種は芽が小さいうちに都度都度摘み取った方がいい。大きくなってしまうと手がつけれないことがほとんどです。わたしもゲーム化の時にどんどん違う流れになってこれは言わなければ!と思い制作チーム全員を呼んで、話し合いの場を設けました。そこで、たくさんのリスペクトが生まれました。「話せばわかる」ということだと思います。
編集部の方も原作者の意向をただ伝えるのではなく心のケアをして、最大の味方でいつつもバランスを持って、時には話し合いのセッティングをしていって欲しいと思います。
( → なぜメディアミックスに漫画家が細かく口出しするのかについて新條まゆせんせいが解説 - Togetter )
私が先に指摘したことを、実作者の立場からより精密に語っている。
セクシー田中さん 最終回
セクシー田中さん 最終回ついて、視聴者の評判はどうであるか、具体的に調べてみた。
→ 【実況・感想】セクシー田中さん #10 最終回 | ガールズちゃんねる - Girls Channel -
不評と戸惑いがかなり見られる。「きちんとまとまりのつく結末」(大団円)にならなかった……ということが、不満の原因であるようだ。
また、最後に取って付けたように「2年後の話」がついているが、これがあまりにも不自然なので、「こんな結末はない方がマシだった」という不評もある。
いずれも、視聴者の感想としては、納得できる。
一方で、私は先に、「これはアンチ恋愛ドラマだから、こういう結末になるのは当然であり、大団円にしないのは当然だ」とも述べた。
→ セクシー田中さん・最終回: Open ブログ
では、二つの見解の折り合いを、どう付けるか?
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この件については、重要な前提がある。
「原作が未完成だ」
ということだ。これに注意しよう。
仮に何らかの形で大団円の結末にすると、原作が影響を受ける。そうなると、金を払って原作を買ってくれるの読者に失礼だろう。
例。主人公ふうの二つのカップルが結びついて、大団円になる。……こういう結末だと、ドラマとしては、きちんとまとまる。視聴者はそれで満足できる。
だが、それだと、原作の読者が不満になる。あとで原作を買ったとき、「そのストーリーはすでにテレビで見たので知っている」というふうになる。「これでは二番煎じだ。金を出して買った価値がない」と思うので、原作の読者ががっかりする。
かといって、ドラマとはまったく別のストーリーの結末にすると、二通りの作品ができてしまうことになり、作品としての統一性がなくなる。それも困る。
以上のことから、ドラマが先行しているときには、ドラマが(未完の)原作の先取りをしてはならないのだ。つまり、大団円はできないのだ。どうしても(どっちつかずの)中途半端にしなくてはならない。そういう縛りがあるのだ。これは、未完の作品をドラマ化することによる宿命とも言える。
まあ、ドラマ制作者が勝手にオリジナルの結末を用意することもあるが、それだと、二通りの作品ができることになるので、それはそれで読者が不満になる。
以上のような問題を避けるには、どうすればいいか? 簡単だ。
「漫画をドラマ化するときには、漫画の最終刊ができるまで待て。できないうちに、勝手にドラマだけで独走するな」
こういう原則を立てるべきだ。
また、どうしても早めにドラマ化するならば、最初から未完成の形にするべきだ。つまり、「これ以後の話はドラマ2期目(続編)で」というふうにするべきだ。
これなら、問題はない。
一方、今回の「セクシー田中さん」では、最終刊ができる直前に、ドラマが勝手に独自の最終回を作ろうとした。これでは原作無視がひどすぎる。そんなことをするテレビ局が悪い。焦らずに、完成まで待つべきだった。
※ 今回のセクシー田中さんのドラマ化では、時期にせよ何にせよ、あらゆる点で、テレビ局の横暴がひどすぎた。原作軽視の度合いがひどすぎた、とも言える。だから、人の命がかかわる結果になってしまった。テレビ局がクソ過ぎた、と言えるね。
原作者は待たせよ
テレビ局はクソ過ぎる。ならば、原作者は、そのことを念頭において、自己防衛するべきだ。つまり、「映像化」の許可を与えなければいい。原作者にはその拒否権があるのだから、その拒否権を行使すればいい。
どうせ出版社は「急いで映像化した方がいいですよ」とけしかけてくるだろうが、そういう出版社の尻馬に乗ってはならない。出版社は原作者の味方ではない。出版社は自分の利益のために行動するだけだ。原作の尊重なんてことは、微塵も考えない。単に金儲けのことを考えているだけだ。つまり、原作を食い物にして、自分がいかに儲けるか、ということを考えているだけだ。(先に出版社が出した声明文は、嘘八百の猫かぶりだ。)
原作者には拒否権がある。この拒否権を駆使して、原作の映像化をなるべく遅らせるべきだ。特に、次の二点が重要だ。
・ 原作が完成するまで、映像化しない。
・ 脚本が完成するまで、映像化しない。
換言すれば、原作や脚本が未完成である中途段階では、映像化について拒否権を駆使するべきなのだ。これが絶対的に必要だ。
(1) 原作が完成するまで
原作が完成するまでは、結末が未定である。この状況で、ドラマが勝手に先行して、結末を作るべきではない。
二次創作というのはあってもいいが、原作ができたあとでの「もう一つのアイデア」という追加であるべきだ。原作ができる前に勝手に結末を作るべきではない。それは原作への冒涜だ。
それでも映像化をしたがる会社は出てくるだろうが、原作者は断固として、この段階では拒否権を発動するべきだ。
出版社は「映像化しろ」と推奨するだろうが、そういう出版社は、自分の利益ばかりを考えていて、原作者の敵である。そういう出版社とは、さっさと縁を切れ。「あまりにもうるさいので、もう貴社では連載を続けません。今後は原作者を尊重する他社で連載します」と言え。そうすれば、出版社も無理にゴリ押ししてこなくなるだろう。
(2) 脚本が完成するまで
脚本が(最後まですべて)完成するまで、映像化の許可を与えるべきではない。ここが大事だ。
通常の契約では、脚本ができてもいないうちに、映像化の許可を与えることになる。これでは駄目だ。脚本が全部できたあとで、その脚本のすべてを見てから、映像化の許可を与えればいい。それまでは与えてはならない。(拒否権を発動せよ。)
脚本が途中で変更されることはあってもいい。しかし、とりあえずは、脚本がすべて書かれる必要がある。それができるまでの途中段階では、映像化の許可を与えるべきではない。
日本ではどうも、脚本を書くのと撮影をするのとが、同時進行になりがちだ。それが当り前だと思っている。しかし、こういうことだと、脚本が原作者の手を離れて、勝手にどんどん書き換えられがちだ。
だから、「原作からの大幅な改変がイヤだ」と思うのであれば、「脚本が全部書き上がったあとで、脚本の全体を見てから、許可を与えるべきだ。
また、(本項の冒頭で述べたように)原作者と脚本家が対面して協調するのであれば、「一回ごとに執筆を協力する」という作業を、最終回まで全部(10回分)完遂した上で、そのあとで最終的な許可を与える、というふうにするべきだ。
※ この時点では、まだ撮影は開始されていないので、不許可になったとしても、テレビ局の損失は最小限で済む。脚本料と監修料ぐらいで済む。
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ともあれ、以上のようにすれば、原作者はいつでも拒否権を発動できる。そのことによって、原作からの改変の大きなドラマを拒否できる。
こういうことが可能なのだから、原作者は、自らの「拒否権」を最大限に利用して、「原作尊重」の方針を貫徹するべきなのだ。そして、そのためには、自ら強くドラマに介入するべきなのだ。
自分では何もしないで、他人が勝手に原作を尊重してくれる、というのは、虫のいい願望である。それが実現することもあるが、実現しないこともある。どうしても原作尊重の立場を貫徹したいのであれば、自分の労を厭うべきではあるまい。
そのために(自ら介入するために)、「拒否権」を最大限に利用するべきなのだ。
台湾のドラマ化
自分では何もしないで、他人が勝手に原作を尊重してくれる……という例は、ないわけでもない。
実作者の体験談がある。台湾では原作尊重でドラマ化をしてくれたそうだ。一方、日本テレビでは原作をひどく踏みにじられたそうだ。
台湾の制作者サイドから編集部を通じてオファーがきた際、監督のツァイ・ユエシュン氏が原作のファンであり原作に忠実に創りたいと仰っていると聞き、もちろんこれは社交辞令にすぎないと半信半疑で承諾したのですが、蓋を開けてみれば本当に原作に忠実に創られていて逆に驚かされました。
そういった経緯があったため同じ作品が日本で作られた場合どうなるのか確かめてみたかったのですが、結果は想像通り原作とは別物と言うほかない仕上りとなっていました。想定内とは言え台本に修正を入れるたび、何故私の作品を実写化しようとしたのか謎に思うこともありましたが、それでも制作サイドの誠意は伝わってきましたし、演者の皆さんは本当に頑張っておられたと思います。
これは仕方のないことで台湾版とは予算も時間も掛け方が違うため、キャラクターや背景描写の解像度が極端に低くなり、それを補うために演者の俳優やタレントの人気に頼るしかない作りになっている…と言うか、その逆で演者のために用意されたドラマという表現の方が本当は正しいのかもしれません。
台湾の制作サイドが原作のリスペクトから始まっているのに対して、日本テレビサイドはまず芸能事務所の俳優、タレントの存在ありきで、それに適した原作を素材として引用しているだけのように私には感じられました。
( → 実写化について思うこと | FUYUMIS )
ここでは、日本テレビが名指しされている。日本のテレビ局でも、日本テレビは特にひどいのかもしれない。
深夜ドラマの例
実は、深夜ドラマでは、原作漫画を十分に尊重してくれるドラマの例が、かなり多くある。原作よりもセリフをずっと多く増やして、貧しいストーリーを人間味豊かなストーリーのあるドラマにしてくれる、という事例はとても多い。
たとえば、「推しが上司になりまして」というドラマがある。このドラマは、ドラマとしてはとても豊かな話が描かれていたが、原作の漫画はごく貧弱な話しか描かれていない。それを、脚本家が肉付けして、演者が豊かに演じたから、とても楽しいドラマができた。原作に比べれば圧倒的に豊かな作品となっている。
原作 :即席ラーメン
ドラマ:一流ラーメン
というぐらい、豊かさ(おいしさ)に差がある。
このことは、この漫画に限ったことではない。「トクサツガガガ」という作品でもそうだが、女性漫画家の漫画というのは、たいていが「素人に毛が生えた程度」という、低レベルの未熟な作品であるものだ。今回の「セクシー田中さん」も、漫画としてみれば、同程度の作品だ。
とはいえ、そこには、骨格としてのストーリーがある。それは他人には真似のできない独自性のあるものだ。女性漫画家の作品は、芸術作品としてはヘボであっても、骨格としてのストーリーは独自性のあるおもしろいものが多いのだ。(アイデアの勝利と言っていい。)
だからこそ、ドラマ界では、脚本家のオリジナル脚本は採用されず、(女性)漫画家の作品を原作とするドラマができる。
つまり、次の組み合わせが最強だ。
・ 原作 …… (女性)漫画家
・ ドラマ …… (女性)脚本家
一方、次の組み合わせは、失敗が多い。
・ 原作 …… なし
・ ドラマ …… オリジナル脚本家
なぜそうなるか? それは、数の原理による。
・ 原作あり …… 100人の漫画家の上位5作を選別
・ 原作なし …… 30番目の脚本家にオリジナルを依頼
つまり、「原作あり」ならば、多数の原作の中から好きなものを選別できるのに、「原作なし」だと、オリジナルを依頼しても、それが当たるかどうかは不確実である。ヘボ脚本ができる可能性も高い。そんな不確実な博打に頼るよりは、多数の原作(漫画)を見たあとで、最優秀のものを選別する方が、ずっとリスクが少ないのだ。
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ただし、テレビ局がそういうふうに原作者を利用するのであれば、原作者を自分の利益のために(自己都合で)利用するわけであるから、相手を尊重しなくてはならない。つまり、原作尊重だ。
なのに、現実には、それができていない。むしろ、横柄に威張る。
「俺たちが映像化してやるんだ。そうすれば本が売れて、原作者もありがたがるだろう。だから、原作者はタダ同然で映像化の権利を譲れ。また、内容の改変も大幅に許容しろ」
こういう傲慢さが、諸悪の根源だ、とも言える。
原作改変度を評価せよ
原作改変の問題を回避するために、新たに別案を提案しよう。こうだ。
「そのドラマが原作を勝手に改変しているかどうかを、視聴者が評価する。ドラマと原作の双方を見た上で、改変の度合いを数値で示す」
ここでは「話を充実させた」という程度のことは、改変には含まれない。原作とは明らかに話の進行が異なる(矛盾する)ような場合のみを、「改変」に含める。
その度合いを、チェックして、ネットで公開するといいだろう。このことで、「このドラマは改変の度合いが高い」と判明する。
※ 改変の判断をする方法については、二通りある。どちらでもいい。
・ サイトの運営者が自己の文責で、全作品を評価する。
・ 5段階ぐらいの ★ で、サイトのゲストが個別に評価する。
(映画の評価サイトの評価と同様の手法。それで改変度を示す。)
例。
「セクシー田中さん」第3回:
原作忠実度 ★★★★☆
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上記のように、原作忠実度は ★★★★☆ だと評価する人が多くて、それを数値化すると、全体では 80.5% という数字になりました。原作にかなり忠実なドラマ化だと言えるでしょう。
一方、原作からの改変の度合いが多ければ、 ★☆☆☆☆ のような評価が多くなる。すると、「原作から大幅に変更されたドラマ化だ」という評価になる。
こういう一覧が得られれば、原作者にとっては参考になる。
その一覧情報と、プロデューサーや脚本家の情報を照合することで、「このプロデューサーのドラマは改変の度合いが高い」ということが知られるようになる。そういう情報が出回れば、原作者が(契約前に)プロデューサーや脚本家を拒否することも容易になる。「改変度の高いプロデューサーなので、契約を拒否しよう」と。
こうしてトラブルを未然に防ぐことが可能となる。
※ シリーズはこれで完結です。おしまい。
→ NHK、正体を現す。「原作者が脚本に口出ししてきてクランクイン間に合わなかった! 6000万円請求する!」
https://alfalfalfa.com/articles/10538479.html
NHK が勝手に原作を大幅に改変したドラマを作ろうとしたが、原作者が「改変がひどいので、ドラマ化は不可」と決めた。あげくNHK が、「賠償金を払え」と文句を突きつけて、訴えたが、敗訴した、という事例。
原作者が許可しなかったことを「第三者による検閲なので けしからん」と主張している。
呆れた。狂気の沙汰だ。それが NHK のドラマ制作の現場だ。上層部も同様だ。
人のものを盗んで自分のものだという顔をするのだから、盗人猛々しいとは、このことだ。
こういう横暴なことが、NHK に限らず、テレビ局ではまかりとおっているのだろう。
先に私が示したように、この問題の本質は、「真犯人は組織だ」ということだ。
→ http://openblog.seesaa.net/article/502308120.html
組織が原因なのだということを理解した上で、組織全体を変革しようとしないと、事件の真相を理解できないことになる。