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脚本家の告白
新たな展開があった。脚本家が「自分は何も知らなかった」と告白したのだ。
「芦原先生がブログに書かれていた経緯は、私にとっては初めて聞くことばかりで、それを読んで言葉を失いました」
( → ドラマ「セクシー田中さん」脚本家・相沢友子氏が追悼「頭が真っ白に」 自身の投稿を反省「深く後悔」(スポニチ) | 毎日新聞 )
「ブログに書かれていた経緯」というのは、「原作優先で改変なし」という原則のことだろう。この原則について何も知らされていなかった、と告白しているわけだ。
なるほど。それは納得できる。「原作優先で改変なし」という原則を知っていたなら、あえて自分勝手に改変するほど、厚顔無恥ではないはずだからだ。つまり、「原作に関係なく好き勝手に改変していいですよ」と言われていたわけだ。
もう少し具体的に言うと、こうだろう。
「脚本家の才能を最大限に発揮することが何よりも大事です。自分の才能を十分に発揮して、自由にのびのびと力量を発揮してください。原作にはこだわらなくていいですよ。あなたの力量を発揮することが最優先です。それでこそ、優れた脚本ができるでしょうから」
こう言われていたと推定できる。そのことが、上の文章からわかる。
※ 原作者が「原作を改変しない」という条件を付けていたように、脚本家は「原作を改変できる」という条件を付けていた可能性もある。この場合、双方はたがいに矛盾するが、そのことを伏せて、プロデューサーが双方に「いい顔」をしていた可能性がある。……これは「詐欺」も同然だが、けっこう、ありがちだろう。
※ このような契約があったとして、契約自体はたがいに矛盾する。だが、原作者と脚本家が対面すれば、実質的には矛盾は解消する。相談して、合意すればいいからだ。対面はすべてを解決するわけだ。……前項の最後で述べた通り。
※ とはいえ、現実には、対面はなかった。だから事件が起こった。では、その経緯は? …… それを本項で分析するわけだ。
出版社とテレビ局
この問題については、劇作家・鴻上尚史による指摘もある。下記で紹介されている。
→ 劇作家・鴻上尚史氏、「セクシー田中さん」作者・芦原さん死去めぐる問題で持論展開 問題は「原作者と脚本家ではなく、出版社とテレビ局」
引用元の原文には、こうある。
僕はずっと今回の悲劇を「原作者と脚本家」の問題にしてはいけないと思っていました。
問題は、「変えないで欲しい」という原作者さんの意向をちゃんと出版社が伝えたかどうかです。そして、それをちゃんとテレビ局が受け止めたかどうかです。そして、もっと大切なのは、その要望が違っていた時に、それに対して対応するのは、原作者個人ではなく、原作者側に立つ出版社であり、その変更の要望を対応するのも、脚本家の前にテレビ局、つまりプロデューサーです。プロデューサーが「絶対に変えないで欲しい」という原作者さんの意向をどれぐらいのレベルで伝えたのか。そして、出版社は、どれぐらいの熱意で、その言葉をテレビ局に伝えたのか。
この佐藤秀峰さんの文章は、はっきりと出版社もテレビ局も、原作者の意向を無視し、原作者の立場を守ろうとしていないという痛切な事実が綴られています。その経済的な要求と脚本家の立場をイコールにしてはいけないと思います。問題は、原作者と脚本家ではなく、出版社とテレビ局です。そう思います。
( → (1) Xユーザーの鴻上尚史 )
ここでは、出版社とテレビ局に責任があることが示されている。特に、テレビ局のプロデューサーだ。
出版社の自己弁明
出版社からは、自己弁明が出た。
→ 芦原妃名子先生のご逝去に際して | 小学館(プレスリリース)
→ 作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ | プチコミック 公式サイト|小学館
前者は、会社の公式声明。
後者は、編集部による声明。
そのいずれについても、自己弁明がなされている。つまり、次の趣旨の説明だ。
「2023年8月31日付に、原作者のメッセージがあり、そこでは脚本の修正がなされたと説明されている。だから、これを読んだはずのスタッフも、脚本の修正があったことを理解しているはずだ。つまり、原作者の意図が現場に伝わらなかったということはない。原作者の意図はちゃんと現場に伝わっているはずだ。この原作者メッセージを読んだことで」
こうして「自分たちはちゃんと連絡しました」と自己弁護している。
しかしこれは自己弁護になっていない。なぜなら、原作者の意図を現場に伝えるのは、脚本執筆前になされなくてはならないからだ。なのに、上の説明では脚本執筆後に修正された、と説明されているだけだ。
こんな馬鹿げたことをやっても意味がない。結果的に、こうなった。
・ 1〜8回では、原作者に多大な修正の手間がかかった。
・ 9,10回では、原作者が自ら脚本を書く手間がかかった。
これではまったくのナンセンスだ。
では、どうするべきだったか? 脚本家が脚本を書いた後で原作者が修正する(書き直す)のではなく、脚本家が脚本家を書く前に原作者が方向を修正する(支持する)ことが必要だった。なのに、現実には、その場(対面する場)が与えられなかった。
このように、事後と事前の違いがあった。事前調整が必要なのに、現実には事後修正がなされた。
この意味で、出版社の側は、なすべき仕事をしていなかったのだ。
※ この手順前後の件については、前項の最後で説明した。
→ 原作改変・総括 .2(対策): Open ブログ
プロデューサーの不作為
鴻上尚史は「出版社とテレビ局に責任がある」と指摘した。そのうち、出版社については、上に述べた通りだ。一方、テレビ局にも責任がある。特に、テレビ局の窓口となって全責任と全権限を握っているプロデューサーに、責任がある。
原作者とテレビ局が「原作を改変しない」という契約をした。(原作者および出版社の証言)
しかし脚本家は「原作を改変しない」という方針を知らなかった。(脚本家による証言)
とすれば、原作者との契約内容(原作を改変しないということ)を、プロデューサーは脚本家(などの現場)には、伝えていなかったことになる。それも、意図的に。
この不作為。これは非常に悪質である。
これは、職務怠慢や職務放棄にあたるだろうか? いや、もっとひどい。契約内容について、意図的な隠蔽をしていたことになる。ほとんど犯罪的だ。
いや、これはまさしく犯罪である。罪名は「背任罪」だ。
刑法第247条
他人のためにその事務を処理する者が、自己若しくは第三者の利益を図り又は本人に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、本人に財産上の損害を加えたとき
( → 背任罪 - Wikipedia )
これにぴったりと該当する。
・ 原作者と契約をしたのに、その契約をあえて隠蔽して、現場に伝えなかった。このことによって、原作者に大きな不利益を与えた。
・ 原作者との契約を反故にすることで、原作者との信頼関係を損ねて、会社側に損害(信頼喪失)を与えた。
このように、原作者と会社の双方に損害を与えた。従って、「背任罪」の要件にぴったりと当てはまる。
つまり、プロデューサーが原作者との契約内容を、現場に伝えなかったこと(故意に隠蔽したこと)は、背任に当たる。刑法違反の犯罪なので、警察に逮捕されてしかるべきだ。(五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する、と規定されている。)
このような犯罪をしたプロデューサーは、原作者と会社に大きな損害を与えたことになる。特に、原作者の命を奪った倫理的な責任もある。(殺人罪とまでは言えないが。)
こういう犯罪者については、会社側は断固とした処分を下すべきだろう。
・ 責任を調査する (背任について)
・ 懲戒免職にする
・ 背任罪で告発する
・ 会社への損害について賠償金を請求する
このくらいのことをするべきだ。
会社の責任
以上の方針を取るとしたら、そのことには前提がある。
「今回のプロデューサーの不作為については、プロデューサーが勝手に独断でなしたのであって、会社側は何ら関与しなかった。すべてはプロデューサー個人による個人的犯罪であって、会社は何も知らなかった」
しかし、そんなはずはないのだ。「原作者と脚本家は対面させない」という方針が会社全体で取られているのに、プロデューサーが個人で独断で両者の関係を遮断できるはずがない。「両者の関係を遮断せよ」というのは、会社全体で共有されている原則なのであって、プロデューサーが個人でどうにもできる方針ではないのだ。
つまり、プロデューサーの不作為は、プロデューサー個人が独断的になした背任ではなくて、組織ぐるみの方針だったのである。
「原作尊重という契約を守らない」
という方針を取るとしたら、それは、
「プロデューサーが原作者と会社に不利益をもたらした」
のではなくて、
「会社が原作者に不利益をもたらしたが、会社自身は不利益を受けなかった」
ことになる。
これはつまり、「組織ぐるみの契約違反」と言える。
その場合は、「契約違反」なので、民法上の問題があるだけだ。もはや「個人の背任」という刑法違反ではなくなる。(もはや犯罪にならない。)その意味では、罪の大きさは格段に小さくなる。
しかしそのかわり、責任は格段に大きくなる。なぜなら、それはもはや「個人の独断による不作為」ではなく、「会社ぐるみの不作為」であるからだ。
会社全体が「原作者との契約を破る」という方針を取っていたことになる。これではもはや暴力団並みの「反社団体」「反社組織」だと言える。
会社の利益優先
ではなぜ、会社はそんな「契約違反」を制度化するほどの「反社団体」「反社組織」となってしまったのか?
それは、先に示したとおりだ。つまり、会社のコストカット体質だ。
→ ドラマの原作改変の騒動: Open ブログ の (7) と 【 関連項目 】
ここで示したように、会社のコストカット体質がある。それがすべての根源だ。
具体的に言おう。
原作者と脚本家は、対面して、発想をすりあわせるべきだ。それが問題解決の方法だ。そのように、すでに示した。前項末で。
→ 原作改変・総括 .2(対策): Open ブログ
しかしながら、この方法には、コストがかかる。原作者と脚本家が、対面して、発想をすりあわせると、打ち合わせ会議のコストがかかる。プロデューサーと脚本家だけならば、1時間もかからずに、あっという間に調整が済む。(脚本家の方針を聞いて、オーケーするだけだ。最短、5分間で済む。)
一方、原作者と脚本家が、対面して、発想をすりあわせると、毎回、1日がつぶれる。となると、原作者と脚本家に出席料を払う必要がある。その費用に毎回、数万円がかかる。
また、打ち合わせ会議がある分、脚本の執筆もドラマ1回につき1日ずつ遅れる。その分、時間と金が余計にかかる。
これらのかかる額は、制作費全体の1%にもならないだろうが、0.3% ぐらいにはなりそうだ。1回 3000万円の制作費のうち、10万円ぐらいにはなりそうだ。で、その 10万円という金を惜しむ。10万円のコストを節約したがる。そのために原作者の権利を踏みにじり、脚本家と原作者との相談を解消して、脚本家の方針だけで独断的に脚本を書くようにさせるのだ。(そうすれば、手間がかからずに、コストを節約できるからだ。10万円ほどの節約。)
こうしてわかっただろう。会社としては、原作者の方針を踏みにじり、原作軽視という方針を取る。そのすべては、「原作者と脚本家が相談する」ことによる 10万円ほどのコストを節約するためなのだ。
10万円ほどのコストをカットすることが最優先であって、そのためには原作をどれほど破壊してしまっても構わないのだ。
これが会社の方針である。「コストカットのために、原作者と脚本家を会わせるな。両者が会うための出席料 10万円を節約せよ」と。
こういう方針があるから、プロデューサーとしては、「原作者と脚本家を会う場を設けない」という方針を取ることになる。
だからこそ、原作者がどれほど「原作優先」という方針を打ち出しても、その契約のすべてを無効にして、原作無視の作品を作ることになるのだ。
すべては「コストカット最優先」という会社の方針なのである。プロデューサーは、それに逆らうことはできない。
※ これが会社の方針であることは明らかだ。その証拠に、会社はプロデューサー個人を「背任罪」で訴えない。プロデューサーは、会社の方針に従っただけなのだから、会社は「背任罪」で訴えることはできないのだ。
スポンサーの責任
以上のことからして、すべての責任は会社にあるとわかった。会社の利益優先体質が、今回のような問題をもたらしたのだ。それというのも、会社そのものが「契約違反が当然だ」という反社団体・反社組織であるからだ。
では、会社に責任があるとしたら、どうすればいいのか? 誰が会社を罰すればいいのか?
会社を罰することができるとしたら、株主とスポンサーだけだ。ここで、株主が会社の不当性を批判して訴えるはずがない。(株主と会社は一体化しているからだ。自分で自分を訴えるはずがない。)
となると、残るは一つ。スポンサーによる会社批判だ。つまり、番組の CM のスポンサーとなっていた会社が、テレビ局を批判することだ。
しかしながら、現実にはスポンサーは黙っている。スポンサーは下記の通りだが、いずれも口を閉じている。
→ https://twitter.com/madinacharlotte/status/1752665211222540643
ならば、これらのスポンサーの責任を問題視して、不買運動を取ってもいいだろう。
ただし、注意。この番組を放送したから不買対象となるのではない。日テレが何もしないから(事件について、責任回避するばかりで、解明・対策などをしないから)、日テレへの圧力をかけるために、スポンサーが不買対象となるだけだ。
一方、スポンサーが日テレに圧力をかければ、その時点で、スポンサーは不買運動の対象外となる。たとえば、「XXXX」というスポンサーが、日テレに「事件の解明をして責任を取れ」と圧力をかければ、そのスポンサーは対象外となる。
逆に、日テレに圧力をかけないで、黙っているだけでは、(責任回避をする)日テレの「共犯」と見なされるので、不買運動の対象となる。
ともあれ、こういう形で、真犯人である会社を処罰することができる。あるいは事件解明のために、会社の真相を暴露することができるようになる。
※ 本当に真相を暴露したら、テレビ局は滅茶苦茶になりそうだ。とはいえ、少なくとも「対策」をとることはできる。そのためには、10万円程度のコストをかけるだけで済む。これが名案っぽい。
※ 不買運動は、「伝家の宝刀」とするべきだ。「抜くぞ、抜くぞ」と見せかけるだけでよく、実際には抜かずにおくべきだ。つまり、実際には不買運動を実施する必要はなく、「実施するかも」と見せかけるだけでいい。一種のブラフだ。
結論:真犯人
ともあれ、本項では、真犯人を指摘している。「真犯人はおまえだ!」と。
そして、その指の先にあるのは、プロデューサーや出版社ではなくて、テレビ局という会社なのである。今回の真犯人は、どこかの個人ではなく、会社という組織なのだ。
この意外な真犯人について、きちんと理解するべきだ。決して、脚本家やプロデューサー個人を「犯人だ」と思ってはならないのだ。彼らは「いかにも怪しい容疑者」ではあるが、怪しくとも、真犯人ではない。
真犯人は誰か? それは、「この悪(原作改変をしないという契約をホゴにしたこと)で、最も利益を得たもの」である。そいつが最大の権限を握っていて、そいつがあらゆる命令を発した。自己の利益を守るために。……それは、テレビ局という会社組織なのだ。
※ 「テレビ局が真犯人だ」というのは、意外ではないぞ……という文句の声も上がりそうだ。だが、ここで言う「テレビ局」というのは、テレビ局の経営陣(上層部)のことだ。テレビ局の全体が悪いのではない。末端にあたる現場職員の一人一人が悪いのではない。「コストカット」という方針を決めた経営陣が悪いのだ。こいつこそが真犯人なのだ。……なお、この件については、シリーズの最初の回でも指摘した。
→ ドラマの原作改変の騒動: Open ブログ
※ つまり、真相は最初から判明していたのである。(名探偵の推理)
[ 付記 ]
「アイデア料の 10万円を惜しんで、アイデア全体のレベルを下げてしまったら、元も子もないだろ。10万円を節約できても、作品全体の質が大幅に低下してしまうので、かえって大損になるだろ。10万円を節約しても、視聴率低下で、莫大な損失になるだろ」
と人は思うだろう。
なるほど。それは正しい。しかし、正しいことができないのが、日本人だ。だからこそ日本ではどこもかしこも「賃下げによるコストダウン」ばかりが進む。一方、外国では、「優秀なアイデアを出す人は、高給で優遇する」というふうにする。こうして、日本企業の製品は知的水準がどんどん低下して、外国の製品は知的水準がどんどん上昇する。
どの分野でもそうなっている。だから、ドラマ制作の現場も、知的アイデアに払う金は削られて、ドラマの水準は低下するのだ。(イケメンに払う金はあっても、知的アイデアのために払う金はないからだ。)
貧すれば鈍す。それがすべての分野で成立する。
※ セクシー田中さんは、たまたま原作者が無償労働してくれたので、かろうじて品質が向上した。しかし、テレビ局はそのための対価を、一切、払うつもりはない。「原作者が死んでくれたので、あとから追加費用を払わずに済んだぜ。しめしめ」と思っているのだろう。
※ この番組の出演者の一覧を見たが、ギャラが安めの俳優ばかりだね。木南晴夏は初めての主演だし、生見愛瑠や前田公輝や毎熊克哉も「主演級」の扱いになることはめったにない。どの俳優もギャラが安めだ。日曜の夜 10:30 という時間帯を考えると、もっと有名な俳優を起用してもよさそうなものだが、コストダウンを貫徹したようだ。
「結論:真犯人」
という章です。