──
前項でも述べたように、業界には「原作や原作者を軽んじる」という風潮がある。これに対して、どういうふうに対策を取ればいいか? それを考えよう。
原作者の拒否権
原作者は徹底的に軽んじられている。だが、原作者には強力な権限がある。「著作権」だ。これゆえに、映像化に対する「拒否権」をもつ。
これは絶対的な権限だ。作者が「許可しない」と決めれば、映像化を一挙に停止することができる。いったん契約を結んだあとでも、いつでも好き勝手に「拒否権」を発動できる。それほどにも強い権限なのだ。
ただし、これは「伝家の宝刀」である。「抜くぞ、抜くぞ」と見せかけるときにだけ、効果を持つ。実際に抜いてしまうと、もはや効果を持たなくなることがある。
というか、実際に拒否権を発動すると、違約金が発生することもあるし、「以後は誰からも相手にされなくなる」という危険もある。だから、現実には、拒否権を発動することは無理だ。
とはいえ、「あまりにも相手の契約違反がひどいから、拒否権を発動する」という形でなら、世間は拒否権発動に共感してくれるので、問題ない。
実際に、拒否権を発動した例がある。
一つは、「続編の制作拒否」というふうにした「海猿」だ。これは前項で述べた。
※ ただし、原作料のアップで手打ちする方が妥当だ。
もう一つは、森川ジョージの「はじめの一歩」のアニメだ。下記に詳しい。
→ 人気漫画家が日本テレビアニメ第2話のデキに納得いかず「今すぐやめて」「やめないなら僕が連載やめる」と言った結果
アニメの出来があまりにもひどいので、アニメについて「今すぐやめて」「やめないなら僕が連載やめる」と言ったら、アニメの制作会社が反省して、お詫びして、方針を改めた。以後、アニメが高品質化されたので、問題は解決した。
原作者がこれくらい強硬に主張すれば、原作の方針を貫徹することはできるのだ。「拒否権」というのは、それほどにも強力なのだ。
実は、今回の「セクシー田中さん」の場合もそうだった。原作者が拒否権を発動して、最後の2話を自分で脚本化した。それほどにも強力な拒否権があるのだ。
だから、今回の原作者の方針には、何も問題はなかったと言える。
ひるがえって、その原作者の方針に難癖を付けた形になった、脚本家や日テレの態度が、悲劇的な結末をもたらした、とも言える。
彼らが何もしなければ、原作者の方針は「当然のこと」と見なされて、悲劇的な結末には至らなかっただろう。
※ 結局、拒否権の発動が大事だ。それは、次の二通りのために行使できる。
・ 原作料アップ。
・ 作品の改善のため。
連絡の必要性
原作者と脚本家は、プロデューサーによって遮断されている。(時間がかかることによるコストダウンが目的だ。先に述べたとおり。)
→ ドラマの原作改変の騒動: Open ブログ
プロデューサーは「コストダウン」を目的とするが、原作者は「作品の高品質化」を目的とする。この両者は、目的が対立する。通常、プロデューサーの意見が通る。
そこで原作者としては、この問題で拒否権を発動するべきだ。つまり、「原作者と脚本家の連絡の確立」を、絶対的に要請するべきだ。
セクシー田中さんの場合は、あれこれと条件を付けていたが、そこには「原作者と脚本家の連絡の確立」は、条件となっていなかった。そのせいで、原作とドラマとの一致については、直接的なやりとりができずに、間に多くの人が挟まる形の連絡となった。
田中さんの原作改変の原作クラッシャーの件、推しの子読んだからなんとなくわかる
— 舞台挨拶のジャンプ (@SVUQQA5WLHstrlX) January 27, 2024
原作者と脚本家はほぼほぼ伝言ゲーム pic.twitter.com/41EXdi1lUP
こういう体制では隔靴掻痒である。まともに(相互に)相談もできるわけがない。
だから、「原作者と脚本家の連絡の確立」を、原作者の側から要求するべきなのだ。
※ 拒否権発動が可能なので、要求できる。つまり、コストダウンを優先するプロデューサーによる「連絡の遮断」という方針を、覆すことができる。
成功の事例
「原作者と脚本家の連絡の確立」を、実際に実行した例がある。それによって見事に成功したようだ。下記項目で例示した。
→ セクシー田中さん・最終回: Open ブログ
この項目の最後で、こう引用した。
今回の問題の中核は、「原作者と制作者との間に入る人間が無能」、これに尽きます。
特に近年は、製作委員会のプロデューサーの質が著しく低下しており、調整役としては完全に無力であると言わざるを得ません。
まず姿勢として「作品を預かる」、そして己の無駄なプライドは捨てる、そして何より、原作者と制作者との距離を近づける、そこからではないのでしょうか?
風見鶏的にドヤ顔をして間に入り、ワアワア喚き散らすだけで結局何の調整もできないプロデューサーは、一人でも多くこの業界から去るべきです。
( → セクシー田中さん | 山本寛 )
この人の場合には、(アニメの監督として)次の方針を取った。
原作者には必ず「構成から本読みまで絶対参加すること!」と通達しました。
同時に、もし参加できないなら、どう改変されても文句は言わない!後から「これは原作と違う!自分の思っていたイメージと違う!」と絶対言わない!と言っておきました。
するとやはり、自分の作品が大事なのでしょう、皆さん打ち合わせに必ず参加してくださいました。
ましてトラブルや諍いなんかただの一度もありませんでした。原作者と制作者が直接膝突き合わせて話をして決めるのだから、後から文句は言えないのです。
( → セクシー田中さん | 山本寛 )
原作者をアニメ制作の場に招いた。当然ながら、原作者は黙って傍観していたわけではあるまい。あれこれと口出ししたはずだ。特に、「打ち合わせ」の場では、あれこれと語ったはずだ。そして、それを受けて、脚本家もあれこれと修正したはずだ。かくて、原作者と脚本家は統一的な合意を得て、アニメ制作の共作者となった。一心同体ふうに。……これならば、何も問題はないわけだ。
原作者と脚本の連絡が確立すれば、問題は何も生じなくなるのだ。
──
なお、これと似た話は、下記記事にもある。
以上のようなテレビの現状と現場の事情の中で、「制作者側」と「原作者側」がしっかりと会話をするなどのコミュニケーションを取る時間と余裕がなかったことが、今回の事件の一番の原因ではないかと私は考えている。
( → なぜ日本テレビは「セクシー田中さん」を改変したのか…元テレ東社員が指摘「テレビの腐敗」という根本問題 「すぐにドラマ化する」という風潮の危険性 )
脚本家の独断?
原作者の話を聞かずに独断で決めたがる、という脚本家もいるそうだ。
そんななか、芦原さんの訃報が出た当日に収録された、日本シナリオ作家協会の動画が波紋を広げている。数名の脚本家が「緊急対談」と銘打ち、「原作者と脚本家はどう共存できるのか」意見を交わし合う内容になっている。
注目を集めてしまったのは、出演者の一人が語った「私は原作者の方には会いたくない派なんですよ。私が対峙するのは原作であって、原作者の方は関係ないかなって」という意見だった。
( → 「原作者には会いたくない。関係ない」日本シナリオ作家協会動画内の発言が拡散「全くリスペクトがない」と広がる波紋 )
原作無視も極まれり、ということで、批判を浴びたようだ。
だが、同じようなことを考えている脚本家は多いようだ。「原作者は脚本家の邪魔をするだけ」と思っている脚本家も多いようだ。下記記事がある。
→ 「アニメ制作において石ころより役に立たないのが原作者という存在」アニメーターのツイート
※ ただしこれは 10年前の記事だ。今回とは無関係。
なお、こういう脚本家がいることが問題なのではない。脚本家は、こういうふうに思いがちだ。それというのも、原作者と顔を合わせていないからだ。
対面もしないまま、ときどき強権的に「変更しろ」という命令だけが下る。これでは「原作者は邪魔なだけだ」と思うのも当然だ。
だからこそ、原作者と脚本化が顔合わせをすることが大切なのだ。そうすれば、両者がうまく対面して調整するので、脚本家が「迷惑だ」と怒ることもなくなる。これで万事は解決する。
※ 簡単に言えば、「コミュニケーションギャップ」を解消すれば、問題はなくなる。現状では問題が生じるのは、脚本家と原作者との「コミュ障」問題があるからだ。それに尽きる。
──
《 参考 》
※ ちなみに、テレビドラマの脚本の打ち合わせの場では、プロデューサーや、脚本家や、各種の関係者が、そろって顔出しをして、会議をして、ドラマの方針をあれこれと修正する。そういう場が、もともとあるのだ。決して脚本家が一人で勝手に書くのではなく、その前に方針を決める場があるのだ。(¶)
だから、そのような場に原作者が出席して、意見を開陳すれば、問題はうまく解決できるはずなのだ。何しろ原作者には「拒否権」という圧倒的な権限がある。あとはうまく調整をすれば済むのだ。
(¶)
このような打ち合わせの場があるというのは、私の想像ではない。テレビドラマの脚本を決める場、というのをドラマ化した番組があったので、それを見たことがある。[たぶん、「共演NG」(鈴木京香・中井貴一の主演)という番組だったと思うが、うろ覚えなので、違うかも。]
【 追記 】
核心は次のことだ。
・ 脚本の執筆後に、原作者が修正を命じるか。
・ 脚本の執筆前に、原作者が方向づけをするか。
現状は、前者だ。これだと、せっかく書いた脚本を台無しにされるので、脚本家が怒り狂う。
一方、後者ならば、書く前の打ち合わせの段階での方向づけなので、通常の打ち合わせ会議と何ら変わらない。この段階での変更はよくあることだ。何も問題ない。プロデューサーや芸能事務所が口出しするように、原作者も口出しするが、脚本家はそれらの口出しをすべて聞いた上で、打ち合わせ会議の結論に従って、脚本を仕上げる。それだけのことだ。
こうして、「事後に変更するか、事前に変更するか」という手順前後の差だけで、問題は一挙に解決するわけだ。
すべては手順前後の問題にすぎない。ちょっとした方針の違いだけで、問題は解決する。(困ったときの Openブログ。)
──
もう少し具体的に言うと、こうだ。
(1) 脚本執筆前の打ち合わせ会議の場において、原作から変更したい点を列挙する。理由も示す。
(2) 原作者は個別にその可否を判定する。些細な設定変更ならば、受け入れればいい。
(3) 一方、作品の本質に関わる核心的な変更ならば、原作者は拒否すればいい。ただし、その理由を説明して、脚本家の同意を得る必要がある。
この(1)(2)では、脚本家が説明して、原作者の同意を得る。(3)ならば、原作者が説明して、脚本家の同意を得る。いずれにせよ、十分な説明で、相手の同意を得る。これが大事だ。
例。東野圭吾の「探偵ガリレオ」シリーズでは、原作の男性刑事が、ドラマでは女性刑事に変更された。これは、話の本筋には関係なく、ドラマ化の味付けの問題だから、原作者があっさり受け入れた。(実際、女性刑事の二代目である吉高由里子は好演した。)
例。「セクシー田中さん」では、事前の打ち合わせがなかったので、脚本家の変更方針は原作者に伝わらなかった。脚本の完成後に、いきなり原作者が拒否権を発動した。かくて、脚本家の努力はないがしろにされた。せっかく執筆したのに、脚本料はゼロになった。タダ働き。大損だ。……欠陥システムのせいで、脚本家ばかりが損をした。(脚本家が悪いのではなく、システムが悪い。)