2024年02月02日

◆ セクシー田中さん・最終回

 セクシー田中さんの最終回では、脚本が変更された。その事情。

 ──

 セクシー田中さんの1〜8話は、原作を脚本家が大幅に変更したので、原作者が修正を要求して、原案に近づけたそうだ。しかし9、10話(最終話)は、あまりにも原案から遠ざかっていたので、原作者が「脚本家の交替」を要求したが、それが実現しなかったので、原作者自身が脚本を書いたそうだ。(ドラマ用の脚本の形式に書き直すのは、テレビ局の担当者が協力したそうだ。)

 ※ 詳しい話は下記。
   → 芦原妃名子 ブログ

 この最終回は、(男女がくっつく)ハッピーエンドではなかった。そこで、(男女がくっつく)ハッピーエンドを期待した視聴者が「がっかり」という感想を漏らしたこともあったようだ。
 それを見た脚本家が、「ほら見ろ。言わんこっちゃない。だから原作通りになんかしなければよかったんだ。やっぱり改変した方がよかったんだ」というふうに、鬼の首でも取ったかのようなツイートを示した。
  → 過去記事

 それに弁明する形で、冒頭の原作者の記事が公開されたわけだが、その後、世間で大騒動となったわけだ。





 以上が、現実の経緯だ。このあと、このような修正を経たあとで、結果的には作品はどうなったかを、評価しよう。

 まず、前項では次のように述べた。
 「このドラマは、恋愛ドラマとは逆に、アンチ恋愛ドラマである」

 これは「恋愛の話が進むドラマ」ではなく、「恋愛の話が進まなくなるドラマ」である。「恋愛の成立」を描くドラマではなく、「恋愛の中断と不成立」を描くドラマである。その意味で、「アンチ恋愛ドラマ」と言える。

 で、そんなドラマがなんで面白いか? 次のことがあるからだ。
 「非モテのアラフォーの独身女性が、恋愛になりそうでならないという微妙なところで、足踏みしているが、それでも人間としてはまともに立派に生きるという人生観を示している」

 これは、ドラマ全体を貫く方針だが、最終回でもまさしく、その方針が貫かれた。三つのカップルがいかにも成立する寸前にまで行ったのだが、いずれも成立しかけたところで、不成立となった。

 このような結果になったのは、ドラマ全体を見れば、当然である。最初からずっと「アンチ恋愛ドラマ」として話が進んでいたのだから、最後の最後になって、(男女がくっつく)ハッピーエンドになったら、話のテーマが破綻してしまう。あまりにも安直すぎて、作品全体が崩壊してしまう、とも言える。
 だから、三つのカップルがいずれも不成立となったのは、作品全体としては、ごく当然である。これで全体としては作品の骨が通っているし、視聴者も「良い作品を見た」という満足感を得ることができる。
 実際、Twitterを見ても、「良い最終回だった」「ありふれたハッピーエンドにしないのが良かった」という好評の声が大半だ。「今期のたくさんあるドラマ全体のなかでもトップクラスの出来映えだ」という高い評価が与えられている。

 ──

 以上のことから評価すると、次のように言える。
 「原作者が作品のテーマを貫徹する形で、アンチ恋愛ドラマとして話を進めたのは、成功した」

 換言すれば、こうだ。
 「アンチ恋愛ドラマとして、1〜8話を修正したのは、成功した」
 「アンチ恋愛ドラマとして、9、10話を原作者が書いたのは、成功した」

 換言すれば、こうだ。
 「1〜8話を原作から改変して、普通の恋愛ドラマとなるようにしたのは、失敗だった」
 「9、10話を、(おそらく結婚の形で)ハッピーエンドに改変して、普通の恋愛ドラマとなるようにしたのは、失敗だった」

 つまり、今回のドラマが成功したのは、あくまで原作者が原作のテーマ(アンチ恋愛ドラマ)を維持したからなのだ。
 一方、脚本家は、原作のテーマを大幅に書き換えて、「ベリーダンスを味付けにしたトレンディ・恋愛ドラマ」を描こうとしたのだが、その改変はまったく失敗だったのだ。

 で、このような失敗となる改変を、どうしてやろうとしたのか? それは、「プロデューサーが無能であったから」ということで、話は済むだろう。
 前項でも述べたように、水中の話は魚となる脚本家に依頼すれば良かったのだ。なのに、水中の話を鳥となる脚本家に依頼した。人選を間違えた。で、鳥となる脚本家は、必死に空を飛ぼうとしたが、もともと水中を泳ぐ話だったので、まったくのミスマッチとなって、企画の全体が破綻してしまった。

 プロデューサーが無能であると、あらゆるものの全体が崩壊する。今回は、原作者がかろうじて尻ぬぐいしてくれたので、なんとか作品をまともに完成させることができた。しかし、その代わり、尻ぬぐいをしてくれた原作者は、褒められるかわりに、罵声を浴びた。金ももらえなかった。かくて、すべてを奪われて、あげく、命さえも失うこととなった。
 プロデューサーが無能であると、あらゆるものの全体が崩壊するのだ。



 【 関連サイト 】

 プロデューサーの無能さを指摘する、別記事もある。
 今回の問題の中核は、「原作者と制作者との間に入る人間が無能」、これに尽きます。
 特に近年は、製作委員会のプロデューサーの質が著しく低下しており、調整役としては完全に無力であると言わざるを得ません。

 まず姿勢として「作品を預かる」、そして己の無駄なプライドは捨てる、そして何より、原作者と制作者との距離を近づける、そこからではないのでしょうか?
 風見鶏的にドヤ顔をして間に入り、ワアワア喚き散らすだけで結局何の調整もできないプロデューサーは、一人でも多くこの業界から去るべきです。
( → セクシー田中さん | 山本寛

 ちなみに、これを書いた人は、山本寛というアニメーション監督。アニメーション作品を作るときには、日常的にプロデューサーと交渉している。そこで無能なプロデューサーと、さんざん接触してきたらしい。
 「ドヤ顔をして間に入り、ワアワア喚き散らすだけ」という表現もあるが、とにかく「威張るだけしか能がない」というプロデューサーは、非常に多いようだ。特に、映画会社ではそうだ。(東宝、東映など)



 [ 付記 ]
 女性脚本家が(男女がくっつく)ハッピーエンドの脚本を描きたがるのは、理由がある。そういうマンガがやたらと多いのだ。
 特に最近の女性マンガのドラマ化では、そうだ。
 「 35歳以上のアラフォーの独身女性が、10歳以上も年下のイケメン男性に、一方的に迫られる。こうしてモテモテになったすえに、結婚に至る」
 というストーリーのものが多い。ひとつやふたつではなく、やたらとこういうストーリーのものが多い。あまりにも荒唐無稽であり、「非モテ女性の白昼夢のような妄想にすぎない」とも言えるのだが、こういう馬鹿げた妄想ドラマが大人気なのだ。
 男の私からしたら、呆れて物が言えない、というところだ。

 どうせなら、次のようにするべきだった。
  ・ 10歳年下でなく、3歳年下
  ・ 相手はイケメンではなく、ちょっとだけイケメン気味
  ・ 相手は猛烈に迫るのではなく、ちょっと迫るだけ

 このくらいだったら、まだしも、いくらかは現実味がある。ところが現実にドラマ化されるのは、そうではない。
  ・ 10歳年下
  ・ 相手はイケメン
  ・ 相手は猛烈に迫る 

 こんな好都合の話ばかりを求めるのだから、最近のアラフォーの女性はどうかしているね。
 で、そういう女性の要求に応えてばかりいるから、今の女性脚本家は、まともな価値判断ができなくなってしまっているのだろう。かくて、「何が何でも、(アラフォーのヒロインが)ハッピーエンドになるように、原作を改変してしまえ。それこそが視聴者の要求に応えることだ。それこそが視聴率アップの方法だ」と思い込むわけだ。

 げに恐ろしきは、年増女性の欲望と妄想だ。



 [ 余談 ]
 今回のドラマで清涼剤のようなフレッシュな感じを与えてくれたのは、(女優の)朝倉あき だ。
 だけど、この人、32歳だし、心のきれいな(貧しい)お嬢様の役柄だ。控えめで奥ゆかしい人柄(役柄)なので、傲慢で非モテの年増女性からは、大いに反発を食いそうだ。
 「控えめで奥ゆかしい若い美人なんて、とんでもない。女は年増で、わがままで傲慢で、それでもモテる、というのが理想だ」
 というふうに。


 男であろうと、女であろうと、非モテのオタクというのはそういうものなのかもね。



posted by 管理人 at 23:58 | Comment(0) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
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