2024年02月01日

◆ セクシー田中さん・講評

 ドラマ「セクシー田中さん」を、作品として評価する。(すると事件の真相がわかる。)

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 ドラマ「セクシー田中さん」を鑑賞した。長いドラマなので、少しずつ鑑賞しているので、時間がかかる。それでも時間をかけて鑑賞した結果、よくわかったことがある。

 このドラマの出来はどうか? なかなか良い作品である。佳品と言っていい。人の心にじんわりとした感動をもたらす。とはいえ、大衆の熱狂を駆り立てるというような人気作ではない。むしろその逆だろう。「わかる人にはわかる」というタイプの作品だ。では、どうしてそうなのか? 

 このドラマの本質は何か? そういう命題を立てて考えると、こう言える。
 「このドラマは、恋愛ドラマとは逆に、アンチ恋愛ドラマである」
 つまり、恋愛のすばらしさを描くのではなく、恋愛とは逆のものを描こうとしているのだ。
 
 通常の恋愛ドラマならば、「恋のときめき」を描こうとする。胸がときめいて、胸が熱くなって、心臓がドキドキして、足が軽く浮き立つ……というような「恋のときめき」を描こうとする。
 その典型は、「推しが上司になりまして」というドラマだ。ただのファンがスター(推し)に憧れたあとで、偶然のきっかけから、恋愛関係になるが、恋人同士として付き合うより、一方的に憧れて、ときめいている……というような話だ。(これはドタバタ・コメディである。)

 一方、「セクシー田中さん」は、それとは正反対だ。恋愛で盛り上がりそうになることは何度もあるのだが、少し盛り上がりそうになると、すぐにつぶれる。男と女が見つめあったり、手を握ったり、ベッドをともにしたりするのだが、盛り上がりかけたところで、すぐにつぶれる。これは「恋愛の話が進むドラマ」ではなく、「恋愛の話が進まなくなるドラマ」である。「恋愛の成立」を描くドラマではなく、「恋愛の中断と不成立」を描くドラマである。その意味で、「アンチ恋愛ドラマ」と言える。

 で、そんなドラマがなんで面白いか? 次のことがあるからだ。
 「非モテのアラフォーの独身女性が、恋愛になりそうでならないという微妙なところで、足踏みしているが、それでも人間としてはまともに立派に生きるという人生観を示している」
 つまり、「非モテのアラフォーは生きる価値がない」というような風潮に対して、「ちゃんと立派に生きることができる」という、鼓舞のメッセージを伝える。そのことで、人に勇気を与える優良ドラマとなっている。(これは大切なことだ。)
 実際、人間にとって大事なことは、恋愛ではない。生きることだ。生きるためには、恋愛はなくてもいいのだ。恋愛なんか成立しなくても、人はちゃんと生きることができるのだ。

 では、どうやって? それを示すのが、ドラマにおけるベリーダンスだ。これによって、昼間は平凡な芋虫のような冴えない女性が、夜には変身して蝶のように美しく舞う。一種の「変身」が生じる。それは変身ドラマと同様だ。プリキュアやセーラームーンのように、あるいは、仮面ライダーやウルトラマンのように、主人公は変身する。その方法が、ベリーダンサーになることだ。
 こうして、ベリーダンスを通じて、人は見事に変身することができる。そのことで、つまらない凡人と見なされた非モテが、一挙にヒーローやヒロインのようになる。そして、そこで大切なのは、見かけではなくて、人間の内面としての自信なのだ。人間としての自信を持って、人としてしっかり生きることができれば、普段は非モテのアラフォーと見なされている人も、とても立派に生きることができるのだ。
 そういうことを、このドラマは伝える。すこぶるシリアスで、真面目な作品だ。
 この作品では、いかにも軽佻浮薄に見えるチャラい男女も、主人公と同格の重みで活躍しているが、軽佻浮薄に見えるチャラい男女も、実は深く悩みながら真摯に人生を考えている……というふうに描かれる。なかなか考えさせられる面がある。

 以上の点からして、いろいろと人生を考えさせるような、佳品のドラマと言えるだろう。そこには熱狂するような楽しさはないが、それとはまったく別の良さがある。




 以上は、作品評である。
 さて。この作品評を通じて、今回の騒動を考えると、次の重要なことに気づく。
  ・ 原作は、アンチ恋愛ドラマである。恋愛とは逆のものをテーマにする。
  ・ 脚本家は、恋愛ドラマの専門家である。チャラい熱い恋愛を描くのが上手。


 つまり両者は、水と油の関係にある。これは、比喩的な用法ではなく、まさしく水と油なのだ。前者は、水のように冷たくて静かだ。後者は、油や火のように熱くて動的だ。……およそ正反対の関係にある。あまりにも異質である。
 とすれば、この両者が原作者と脚本家になれば、水と油の関係になるので、決して融合しないで離反するのは、当然のことだ。両者を混ぜて、一つの作品にまとめようとすれば、うまく混ざらないまま、最終的には破綻してしまうのは当然だ。
 つまり、今回の破綻は、「水と油」という選択をした時点で、最初からわかっていたことなのだ。

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 一般に、原作のあるドラマならば、原作者と脚本家とは傾向を同じくする必要がある。「似た者同士」にする必要がある。それでこそ、脚本家は原作者の意向を理解できる。
 なのに、今回の作品では、原作者と脚本家は「水と油」だった。原作は「アンチ恋愛」をテーマにした傾向のものだったのに、脚本家は「恋愛第一」を得意とする傾向の人物だった。……これでは、うまくまとまるはずがない。

 とすれば、今回の問題が起こった原因は、このような人選をした人(水と油となる原作者と脚本家を組み合わせた人)に、責任があると言える。その人物は、プロデューサーだ。このプロデューサーが、(悪意があるというよりは)能力的に無能であるせいで、最悪の人選をしてしまった。その人選のせいで、現場は大トラブルとなり、大混乱が巻き起こった。
 イメージ的に言えば、「うる星やつら」の(各話の最後の)ハチャメチャ状態である。これと同様に、ドラマ作成の現場は、大混乱のハチャメチャ状態となった。それというのも、プロデューサーがとんでもない人選をして、とんでもない組み合わせのペアを組ませたからだ。

 これが今回の大騒動の核心だ、と言えるだろう。



 [ 付記 ]
 通常は、原作者と脚本家は、心を通じあうような関係にあるものだ。脚本家は原作者に同調して、原作者の意向に従おうとするものだ。そのとき、脚本家は自分の心をねじ曲げて、原作者に寄り添おうとするのではない。もともと原作者を尊重するような、似た傾向の脚本家が選ばれるのだ。人選の問題だ。
 その成功例としては、次のものがある。
  ・ 推しが上司になりまして (上記) 
  ・ ゴールデン・カムイ ( → 評判


 それがうまくできれば、上記2作のように成功する。
 それがうまくできなければ、今回の騒動のように、大トラブルを起こす。
 どちらになるかは、プロデューサーによる人選しだいなのだ。(プロデューサーの能力しだい、とも言える。まともな人選をするだけの能力があるか否か、だ。)
 
 
 ※ ついでだが、脚本家には何ら責任がない。空を飛ぶことしかできない鳥が、プロデューサーから「水中を泳げ」と命じられても、そんなことは鳥にはできないのだ。なのに、できもしないことを命じるプロデューサーが人選を間違っているというしかない。「水中を泳げ」と命じたければ、鳥ではなく、魚に命じるべきだったのだ。鳥には何ら責任はない。
(「契約を無視して勝手に改変した脚本家が悪い」という声もあるが、鳥は魚ではないのだから、鳥は空を飛ぶことしかできないのだ。なのに「水中を飛ぶ」という役割のために、鳥を選んだプロデューサーがいるなら、水中を泳げなかった鳥に責任があるのではなく、鳥を選んだプロデューサーに責任がある。人選ミス。)



 [ 補足 ]
 本項を読んで、読者は疑問に思うかもしれない。
 「前項では、すべては金の問題だ、と言っていただろ。なのに本項では、金の話をしていない。金の問題なのか、そうでないのか、どっちなんだ? はっきりしろ!」
 
 それには、こう答えよう。
 原作者が不満になるのは、原作の改変がある場合だ。
 原作の改変があると、同一性も消えるし、原作の売上げも減るので、作者としては受け入れがたい。受け入れるためには、多額の補償金(原作料)を要する。
 一方、原作の改変がなければ、原作者は不満にならない。原作料が少額だっても、あっさりと許容するものだ。

 前項では、今回の騒動(原作との不一致)を前提としていたので、「金を出せ」「解決は金の問題だ」と結論した。
 一方、本項では、「そもそも原作との不一致がなければ、トラブル自体が起こらないので、金銭で争う必要も起こらない」と結論した。
 この双方は、話のレベルが違うのである。

 比喩的に言えば、不和な夫婦は離婚トラブルの金銭問題が発生するが、仲良しの夫婦は離婚の金銭問題が発生しない。トラブルそのものがなければ、その解決手段としての金銭問題も発生しないのだ。「問題を解決するためには金銭に頼るかどうか?」というテーマは、トラブルのない夫婦には無縁なのだ。
 そして、トラブルをなくすにはどうすればいいか、という話を本項では示した。(水と油ではトラブルが起こるよ、と。)

posted by 管理人 at 22:49 | Comment(0) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
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