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何が妥当であるかは、価値観の問題であるから、「これが正解だ」というようなものはない。人それぞれの人生観に従うしかない。裁判所が「死刑」を宣告したのは、それなりに妥当性があるだろう。
だが、私の個人的な判断を言うなら、「無期懲役が妥当だ」となる。以下では理由を示す。
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そもそも私は死刑反対論者ではない。凶悪犯には死刑を宣告するのが妥当だと思う。問題は、この犯人が凶悪犯であるか否かだ。
行為自体を見れば、「凶悪事件だ」と言える。多大な死者を出したからだ。
意思を見れば、「凶悪事件だ」と言えない。犯人は多大な死者を出そうと思っていなかったからだ。むしろ、手違いのせいで、「間違って多数を死なせてしまった」という過失事件だからだ。
この事件の本質は、二つある。
第1に、「手違いで多数を殺してしまった」という錯誤。
第2に、犯人は精神病者であること。
以下では順に述べよう。
(1) 錯誤
この事件の本質は、錯誤である。犯人は多数を殺すつもりがなかったのに、多数を殺してしまった。そのことがわかるのは、「犯人は自殺をするつもりがなかった」ということだ。
私はてっきり「犯人は自殺をするつもりだった」とばかり思っていた。ところが犯人が助かったあとの告白を聞いてみると、「自分は助かるつもりだった」と判明した。つまり、ガソリンをぶちまけて、多大な火災を発生させて、自分が火だるまになったのだが、それでも助かるつもりだったのである。
これはどうしてかというと、「ガソリンをぶちまけるぐらいで、そんな大火災になるとは思っていなかった」ということだ。ただの灯油をぶちまけるのと同程度だと思っていた。ガソリンは、爆弾と同様で、爆発的な火災をもたらす激烈な威力があるとは思ってもいなかった。あまりにも無知だった。
この無知ゆえに錯誤が起こった。……これが事件が大規模になった本質なのだ。
比喩で言えば、能登地震における輪島の火災や、糸魚川の大火のようなものだ。火元となる誰かが、何らかの失敗(過失)をしたものと思える。本人は、そんなつもりはなかったのだが、ついつい、火の扱いを間違えてしまった。(たとえば、ガスコンロのそばに、燃えやすいプラスチックの袋を置いておく、というふうな。)
そういうわずかな過失のせいで、あたり一帯がすべて燃えてしまった。では、その過失をした人は、大量殺人の罪で死刑になるべきか? いや、そうではあるまい。本人には殺意はなかった。単に手違いがあるだけだった。ならば、その人の過失がいかに重大な結果をもたらしたとしても、死刑にするには忍びない。
この事件の本質が錯誤であるからには、死刑にするほどのことだとは思えない。
仮に、私が被害者の遺族だったとしよう。私が妻や子を残虐に殺されたなら、私は犯人を殺したいと思う。「たとえ自分の命を失っても、あとで自分が死刑になるとしても、こいつを殺してやりたい」と思う。「妻や子を殺した犯人がぬくぬくと生きているのは許せない。刑務所で生きるのも許せない。今すぐ殺してやる」と思う。
一方、今回の犯人を殺したいかと思うと、そんなことはない。たとえこの犯人に妻や子を殺されたとしても、この犯人を殺したいとは思わない。「頭が悪すぎたせいで、手違いで人を殺してしまった」というような、頭の弱い人間を殺しても、何の意味もないからだ。こんな阿呆を殺すために、自分の人生を差し出すなんて、馬鹿げている。自分の人生を投げうってまで殺すだけの価値はない。「死刑にする価値すらないゴミクズだ」と思う。
ゴミクズを死刑にしても意味はないのだ。だから、この犯人に死刑はふさわしくない。
(2) 精神病者
今回の犯人は精神病者である。
実は青葉被告は京アニ事件のおよそ3年前から、国の制度で訪問看護を受けたり、精神科に通ったりしていました。訪問看護師は青葉被告から居留守を使われても通い続けるなどしていたということですが、事件直前に青葉被告自らがそうした支援を断ち切って、孤立を深めていったということでした。
改めて、裁判では青葉被告に“妄想”があったことに争いはありません。その上で検察は犯行直前のためらいなどから、“妄想”の影響は限定的だったということで死刑を求刑しています。
( → 「裏切り者やパクった連中は絶対に許さない」京アニ放火殺人、青葉被告が語った“妄想”の正体【報道特集】 - 記事詳細|Infoseekニュース )
検察も裁判所も「妄想」を持つ精神病者であることを認めている。その上で、責任能力があったか否かを論じている。
まあ、責任能力はあっただろう。だから「無罪」にはならない。だが、「完璧な責任能力があったか?」と言えば、もちろんなかった。だとすれば、「完璧な責任能力」が要件となるべき「死刑」は、妥当ではないと言えるだろう。(私の判断)
そもそも、気違いを野放しにしてきたのは、政府である。政府が気違いをきちんと管理する制度を整備しておけば、こうはならなかったはずなのだ。その意味では、政府にも責任があると言える。
「気違いを死刑にすれば、気違いによる凶悪犯罪を予防できる」
ということはありえない。一方で、
「気違いを政府が管理にすれば、気違いによる凶悪犯罪を予防できる」
ということはあり得る。
だからこそ、「気違いを死刑にする」よりは、「気違いを政府が管理する」という対処の方が有効なのだ。
逆に言えば、「気違いを死刑にすれば、事足れり」という方針では、事件の再発を予防できないし、正しい対処にもなっていないのだ。単に遺族の応報感情を満たすだけであって、何の解決にも救いにもなっていないのである。
結局、犯人を死刑にすることは、物事の本質から目を逸らして、すべての責任を犯人個人に押しつけて、物事を簡単に片付けようとする、無責任な解決策である。愚の骨頂と言える。
[ 付記1 ]
今回の犯人を殺人犯と見なすとしたら、犯人に「殺意」はあったか?
これは難しい問題だ。なぜなら、犯人は被害者が誰であるかを知らないからだ。普通の殺人事件ならば、殺意が認められるときには、被害者がもともとわかっている。犯人は「こいつを殺してやろう」と思って殺す。
今回の犯人は違う。被害者が誰であるかを知らない。顔も名前も知らない。単に「その場にいる誰か」と思っているだけだ。
このような場合には、「殺意」というより「破壊欲」があった、と見なすべきだろう。その場合の罪は、「放火罪」が該当する。法定刑は殺人罪と同じだ。最高刑は死刑だ。その意味で、殺人罪と同様の量刑であってもいい。また、放火による殺人は、殺意がなくても認められるので、犯罪の要件は弱まる。
したがって、法的に考える限りは、「放火による死刑」は量刑としてあり得る。何も問題はない。
とはいえ、「放火犯罪に対する死刑」が成立するためには、「放火による大量死」を犯人が狙っていた場合だろう。一方、今回は、こんなに大量死が起こるとは犯人が思っていなかった。その意味では、「錯誤」があったというのは、物事の本質に関わるのだ。
- ※ 犯人が殺意を持っていなかったのに、その犯人を死刑にしようというのは、殺意のない人を「殺そう」とする殺意を持つことになる。この場合は、死刑にしたがる人の方が、罪は大きいね。死刑にしたがる人を死刑にするべきかも。
[ 付記2 ]
犯人は最初から最後まで「パクられたことに対する復讎」を唱えていた。これを正当な理由だと主張していた。
完全に頭がおかしい。こんなことが正当だと主張すること自体が、頭がおかしいことの証拠である。まともに死刑にするだけの価値のない狂人であることは明らかだ。
ちなみに、ポケモンのキャラクター・デザインが他社(パルワールド)にパクられた……という事件があり、ゲーム業界で話題になっている。
→ https://x.gd/w1wgJ
こういうパクリ騒動というものはあるものだ。で、だからといって、相手を放火で殺してやろう、などと思う人はいない。いるとしたら、気違いだけだ。
こういう気違いを、まともに相手にするのは、あまりにも馬鹿げていると言える。
※ 「被害妄想」という用語を使うこともできる。統合失調症の患者にはよくある症状だ。幻聴を聞くこともしばしばある。
[ 付記3 ]
というわけで、気違いに対しては、「死刑」は妥当ではない。では、かわりにどうするべきか? 私の提案は、こうだ。
「気違いの犯罪には、死刑にしない。最高刑を無期懲役とする。そして、減刑した分、被害者遺族には補償金を増額する。通常の犯罪者遺族の補償金の倍額ぐらいを支給する」
これが私の提案だ。この提案の方が、ずっと建設的だろう。
ちなみに、現状の被害者遺族への補償金は、かなり安い。そこで、増額が決まっているが、まだまだ不足しがちであるようだ。
→ 犯罪被害者・遺族への給付金を大幅引き上げへ…1年以内に制度整備、政府が方針 : 読売新聞
ただし、京アニ事前の被害者遺族に限っては、世間から義援金が 32億円も集まった。
→ 京アニ義援金32億円 遺族と負傷者に1回で全額配分へ [京都府]:朝日新聞
事件では、36人が死亡し、32人が重軽傷を負った。遺族と重度重症者には 5000万円以上を給付できそうだ。その意味では、補償額は何とかなっている。
しかし国からの補償金は全然不足しがちなのだ。とすれば、私の提案は有意義であろう。
「精神病者の犯行については、死刑でなく無期懲役にするかわりに、国の責任を認めて、国が補償金を増す」
こういう方針の方が、遺族の痛みも癒されるはずだ。
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