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人は敗北を認めたがらないものだ。第二次大戦でも、さっさと敗北を認めていれば、被害は最小限で納めることができた。東京大空襲もなかっただろうし、広島・長崎の原爆投下もなかっただろうし、ソ連の参戦もなかっただろう。なのに、軍部は決して敗北を認めようとしなかった。「神国日本」と唱えて、神風が吹くと信じて、勝利にこだわった。勝利が不可能だとわかると、敗北のかわりに、「一億総玉砕」を唱えて、民族滅亡の道を唱えようとした。……これが人間というものだ。意地でも敗北を認めようとしないのだ。敗北を認めるぐらいなら滅亡した方がいいとさえ思うものだ。
今回の能登地震でも同様である。能登の人々は「故郷を離れたくない」と言い張る。「故郷を離れるくらいなら死んだ方がマシだ」とさえ言い張る。これも「地震への勝利」を盲信しているからだ。「地震に敗北して、故郷を明け渡すぐらいなら、死んだ方がマシだ」と思うわけだ。
しかも、このことは、能登の地元民だけではない。日本人の大半が同じ発想に染まっている。「地震に対して敗北してはならない」と。「どれほど地震に打ちのめされようとも、地震を克服して、被害を復旧して、元のように復興しなくてはならない」と。地震に敗北することを絶対に認めようとしないのだ。
以上のような風潮が日本全体にある。それは第二次大戦のころから連綿として続いてきた、日本人全体の精神でもある。大和魂と言ってもいい。「敗北よりは死を選ぶ」という美学だ。
だが、ここで私はあえて異を唱えよう。「死よりは敗北を選ぶべきだ」と。それは昭和天皇の発想と同じだ。
陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてはじつに忍び難い。
( → 昭和天皇は終戦間際に何を語っていたのか )
軍部が一億総玉砕を唱えたとき、昭和天皇は民族存続のために敗北を選んだ。だから今、日本という国は存続している。滅亡のかわりに敗北を認める勇気。そのおかげで、日本という国は存続しているのだ。
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ひるがえって、今の日本はどうか? 決して敗北を認めようとしない。「きっと勝利できる」「きっと復旧できる」と思い込んでいる。
(1) 巨大な土砂崩れを、容易に復旧できると思い込んでいる。
→ 土砂崩れは復旧できるか?: Open ブログ
(2) ズタズタになった地下の水道管を、容易に復旧できると思い込んでいる。
(3) 3万人もいる被災者に対して、仮設住宅を全員に提供できると思い込んでいる。(1カ月に 100戸なら 100カ月かかる、という計算ができない。)
これらはただの荒唐無稽な妄想にすぎない。自然の破壊力はあまりにも巨大であり、人間の工事力はあまりにも微力だからだ。大自然の力は、数百キロの距離に渡って、あちこちの山を崩して、大地に巨大なヒビを入れた。それも、ほとんど瞬時に。一方、人間の力は、ずっと小さい。地震による破壊を修復するには、数十年の時間と超巨額の金を要する。それは実質的には「復旧不可能」といえる規模だ。
そういう真実を理解すれば、もはや「敗北」を認めるしかない。そうするのが、まともな判断というものだ。
しかるに、今の日本人は、まともな判断力がない。だから、敗北を認めることができない。
あげく、「竹槍で B-29 を撃墜する」というのにも似た、荒唐無稽な戦いを挑もうとしている。その例が (3) だ。県知事も、首相も、せっせと仮設住宅を作ろうとする。しかし、いくら仮設住宅を作ろうとしても、3万人もいる人々にとっては焼け石に水である。また、仮に仮設住宅を作っても、1千万円も与えるわりには、効果はごく微量でしかない。「自宅のゴミ片付けをするのに役立つ」というぐらいの効果しかない。仮設住宅を作るために投入した1千万円は、将来の生活再建のためには何の役にも立たないのだ。なぜなら、輪島市も珠洲市も、水道が復旧しないので、そこに住むことはできないからだ。そこで生活再建は不可能だからだ。
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敗北を認めなければ、被災者はみな「滅亡」への道を歩むしかない。外部で生活再建をすることもできず、現地に残って、避難所で健康を悪化させて、その地で死ぬしかない。
一方、敗北を認めれば、故郷を捨てることになるが、かわりに外部で生活を再建することができる。仮設住宅を諦めれば、仮設住宅の費用 1000万円と、住宅再建の費用 300万円で、合計 1300万円をもらうことができる。(双方を二重にもらうことができる。現行制度はそうなっている。)
ただし、現行制度は、現物供与が原則だ。そこで、現物供与をやめて、現金で供与することにすれば、被災者は 1300万円をもらうことができる。(国の出費はどちらでも同じだ。現金供与で、新たに増額になることはない。)
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敗北を認めること。それは、現実を認めることであり、現実に立脚して未来を再建することだ。
一方、敗北を認めないこと。それは、現実のかわりに妄想を信じることであり、過去への懐旧のために自らを滅ぼすことだ。
だからこそ、私は唱える。「敗北を認めよ」と。
それは、「王様は裸だ」と叫ぶことと同様だ。真実を直視し、真実を語ることのできない人のために、「王様は裸だ」と叫ぶことが大切なのである。

悪いのはアメリカやソ連だろうに。あなたも戦後GHQに捻じ曲げられた学校教育に洗脳されてしまってますね。
「相手に悪い点がある。だから、自分の悪い点があっても絶対に認めない」
というのは、子供だね。
そもそも、「どっちが悪いか」なんていう話をしていません。「地震が悪い」と地震を責めても仕方ないでしょ。
そりゃまあ、地震が悪いのかもしれないが、地震に負けたんだ。負けたら負けたと認めるべし。負けたのに勝ったつもりでいれば、滅亡するしかない。
私の提案に従えば、被災者は 1300万円をもらって幸福に生きられるのに、あなたの提案に従えば、被災者は地元に残って滅亡する。できもしない復興が可能だと信じることで。(戦勝を妄想するのと同様だ。)
だが、人間は感情的な生き物なので、「敗北を認める」ことを前面に出すとプライドやこだわりが邪魔をして物事がうまくいかないこともある。
前向きであることを前面に出せば良いのでは。
敗戦を認めない人々は、神国日本の復興を試みながら、新しい国家建設をめざす人々の足を引っ張って、国家再興を妨害しました。日本を後戻りさせようとしました。
靖国神社にこだわる安倍晋三もその一人。統一教会と結託して、日本を汚染しました。
敗北を認めたがらない人々は、真実から目を背ける人々です。彼らは「厳しい現状から目を背けずに」ということができません。