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被災地の復興については、前々項や前項で示したように、賛否両論がある。
そこで、この問題について、さらに考えてみよう。
移住より地震が残酷
「ふるさとを離れるように促すことは残酷だ」という主張があった。先に示したとおり。
→ 能登半島地震の話題 .6: Open ブログ
再掲しよう。
東日本大震災の経験から学んだのは、多くの人が「その土地を離れたら、自分が自分でいられなくなる」という感情を共有していることだった。それは人間存在の根幹にかかわる感情で、ときに生命よりも優先される。彼らに「危険な土地を捨てて移住せよ」と勧めることが、いかに残酷な提案でありうるか。
( → Togetter )
なるほど、福島で放射線の危険にさらされた人にとっては、そうかもしれない。放射線の危険があるからといって、「危険な土地を離れよ」と促すことは「残酷だ」と言える面もありそうだ。
では、能登半島地震でもそうか? ここでは、こう言える。
「この地震では、家屋を破壊され、ふるさとを破壊され、何もかも破壊された。それこそ何よりも残酷なことだ」
この地震は、人の生命を危険にさらしただけではない。人の持つ財産のすべてを奪ったのだ。また、人の命を大量に奪ったのだ。200人以上も。……これこそまさしく、残酷なことだ。
これほどの残酷さが現実にあった。それは「放射線の危険」というような生易しいものではない。「放射線の危険があるからふるさとを離れよ」と促すことがレベル 10の残酷さであるとするなら、家屋とふるさとを全部破壊して近隣者の 200人の生命を奪う地震は レベル 100ぐらいの残酷さだろう。残酷さのレベルが全然違う。
現実の地震はひどく残酷だ。こんな残酷さに見舞われた人々に対して、「ふるさとの土地を離れるのは残酷ですよね?」と言っても、「何言っていうんだ、こいつ」という目で見られるだけだろう。「私たちがどれほど苦しんだかを理解できないのか?」と呆れはてられるだろう。
孤立集落の破壊
そのことを知るには、現実の被災者の声を聞くといい。前項でも簡単に言及したが、もっと詳しい話もある。引用しよう。
「トイレの水が流れることに感激した」「暖房がこんなにあったかいなんて」。周辺の道路が土砂に埋まったり海に落下したりして孤立していた集落からヘリコプターで脱出した人たちが、12日ごろから相次いで2次避難所となった温泉旅館などに着き、ようやく人心地ついている。
輪島市大沢(おおざわ)町から来た小崎香代子さん(76)は「親戚の家に居候するのは気を使うので感謝です。ただ大沢にはもう戻れないと思っている。空から周りの道路のあまりのひどさを見たから。冷静に今後の生活を考えたい」
「道路を直すのはもう無理じゃないかな。でも、子供たちの写真を取りに一度は帰りたい。写真がなくなったら寂しいでしょう」
( → 「あったかいね」孤立集落から脱出 2次避難所の旅館で人心地 | 毎日新聞 )
ふるさとを徹底的に破壊されたのを目にしてきた。だから、ふるさとにはもう戻れないと諦めている。せいぜい、写真を取り戻したい、と願うぐらいだ。
彼らは感情的になって、「何が何でもふるさとに戻りたい」と泣きわめいたりはしない。現実を知った上で、「冷静に今後の生活を考えたい」と考える。自分の悲しみに耐えて、悲しみを克服して、未来に向かおうとする。何と立派なことであるか。何と健気なことであるか。
そういう彼らの悲しみと勇気を理解するべきだ。人の心を持つというのは、そういうことだ。それは、人に同情するフリをしながら、「喚け」「怒れ」「泣け」「叫べ」とけしかけることではないのだ。そういうふうにけしかけるのは、天使のフリをした悪魔のなすことである。
悲しみのどん底に落ちた人が、何とか立ち上がろうとすることがある。映画「風と共に去りぬ」の最後には、そういう場面がある。ヒロインのスカーレットが、苦しみのさなかで挫けたあとで、立ち上がる場面だ。
この場面について、前に言及したことがある。(東日本大震災の直後に。)
大事なのは、すべてを失った絶望のさなかで、なおかつ再起する意志を持つことだ。その意志の強さが、人々を感動させる。
この場面は、何度見ても、感動してしまう。あらゆる映画のなかで最も感動的とも言えそうだ。
( → 「風と共に去りぬ」(震災後に): Open ブログ )
そういう人間の勇気を称えるべきだ。そのとき、優しい手をそっと差し伸べることこそが、まわりの人のなすべきことだ。それは善人ぶって優しいフリをすることとはまったく違う。
※ できれば上記記事を読み返してほしい。
僻地のみ
ふるさとの復興を諦める……という方針を示すこともあるが、この方針が適用されるのは、あくまで僻地だけである。今回の地震でも、孤立集落とされた場所があるが、そういう場所のことだ。具体的には、輪島市の「大沢」(前出)や「西保」などだ。
→ 輪島の完全孤立集落「情報ないんです」 徒歩で訪ねた記者が見た現実 | 毎日新聞
これらの孤立集落は、山間僻地にあるのではなく、臨海部の集落だが、海岸線の細い道でつながっているだけだ。その細い道が今回の地震で土砂崩れで不通になった。
( ※ 画像は上記記事にある。動画は下記。)
こうして孤立したわけだが、これらの集落はもともと僻地にある。たとえば、大沢町の人口は 150人しかない。震災で人が抜ければ、このあと復興したとしても、100人ぐらいの規模にしかなるまい。
そのくらいの規模でも、隣町に隣接しているのならまだしも、輪島市の中心部からは遠く離れていて、道路でつながっているだけだ。どうしても「僻地」と見なさざるを得ない。「山間僻地」ならぬ「海沿いの僻地」だ。そういう僻地が、能登半島の海岸沿いにはいくつかあって、それらの多くが地震で「孤立集落」となった。
これらの僻地を復興するべきか? 費用が少なければ、復興してもいいだろう。だが、今回の震災の被害はあまりにも大規模であり、復興のためには巨額の費用がかかる。その巨額の費用に見合うだけのメリット(効用)が得られるか? 簡単に言えば、コスパは大丈夫か? それが問題だ。
おおざっぱに計算すれば、人口 100人の集落を復興するために、50〜100億円の金がかかる。つながる道路の復旧費、街中の道路の地盤改良費、住居の地盤改良費、住居の再建費、電信柱や電線の復旧費用、水道や下水の復旧費用、……これらのものをすべてひっくるめれば、50〜100億円の金がかかるだろう。
だが、それほどの金を投入するくらいなら、1戸あたり1億円の金をプレゼントして、他の都市に出ていってもらった方が、安上がりになるだろう。
( ※ 人口 100人なら、戸数は 100よりも少なくて、70戸ぐらいだろう。1人 5000万円、夫婦で1億円、というふうにすれば、100人で 50億円で済む。50〜100億円の復旧費をかけるよりも、安上がりだ。)
というわけで、僻地を復旧するくらいなら、「1戸あたり1億円を贈って、出ていってもらう」方が、はるかにマシなのである。
( ※ 本人だって、その方がずっと幸福になれる。1億円もあれば、ぜいたくづくしができる。)
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なお、注意。僻地については「移住する方がいい」と言えるが、僻地でない地域(輪島市や珠洲市の中心部)は、話は別だ。
輪島市の人口は 2.4万人。珠洲市の人口は 1.4万人。その3分の2ぐらいの人口が、市の中心部にいるとして、それぞれ、かなりの人数がいることになる。
とすれば、それだけ多大な人数のためには、復興の工事をしていいだろう。多額の工事にを投入しても、十分にペイするからだ。(むしろ土地を放棄することの方がもったいない。)
というわけで、コスパを考えても、市の中心部については「復旧していい」と言える。
「復旧を諦めて移住した方がいい」と言えるのは、あくまで僻地だけだ。間違えないようにしてほしい。
- ※ 「ふるさとから追い出すのはけしからん」といきり立つ人もいるが、輪島市や珠洲市の中心部は対象外である。そこからあえて移住させるわけではない。(まあ、どうしても移住したければ、移住してもいいが。)
《 注記 》
「1億円を払え」と述べたが、実際に1億円を払うことを推奨しているわけではない。僻地を復興するために巨額の金を投じることの無駄(コスパの悪さ)を指摘するために、比喩的にそう述べただけだ。
実際には金を払うとしたら、周囲住民とのバランスもあるので、あまり高額にはできない。500〜1000万円ぐらいの額が現実的だろう。
そのくらいの額でも、四国の僻地でなら、空き家を購入することができる。前項の最後で述べたとおり。
→ 僻地からの移転(被災者): Open ブログ
だから、1億円のかわりに、500〜1000万円ぐらいを払うだけで、問題は容易に解決する。「僻地を復興するために 100億円を投入する」(そして 100人の住民を助ける)ということの馬鹿馬鹿しさを、理解するべきだ。
※ しかし誰も、その馬鹿馬鹿しさを理解できない。国民そろって馬鹿になっているありさまだ。「裸の王様」状態だ。
※
【 訂正 】
米山隆一も同趣旨のことを言っている。
粟島浦村は今何とかなっていますから、今移住の必要はありません。佐渡と同じです。一方地震以前からすでに維持が困難だった集落で地震で甚大な被害受けた所は、多額のお金で復興して、結果被災者が年老いた数十年後に廃村になるより、被災者もまだしも若い今のうちに移住を考慮すべきと言っています。 https://t.co/Aud4VIpCdn
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) January 11, 2024
《 加筆 》
「金を払って追い出すのは冷血だ」
という批判もありそうだが、問題は金の額だろう。1億円を払うのであれば、冷血ではない。むしろ温情だ。あなただって「1億円もらえる」と言われたら、大喜びになるはずだ。
現実には、1億円ではなく1千万円かもしれないが、そうだとしても、現状の 100〜300万円に比べれば、はるかに高額となる。冷血どころか、ずっと温情だろう。何て心優しいんだ、私は。
ひるがえって、現状では、 100〜300万円しか払おうとしない。それでいて、工事費には、1人あたり1億円もの金をかける。国民の血税を大量に投入して、被災者のかわりに工事業者が儲ける。……まるで悪魔のごとき狡猾さだ。(冷血でもある。)
結局、現状では、政府や自治体の誰も被災者のことを助けようなどとは思っていないのだ。彼らは復興を名目に工事で金儲けをしようとしているだけだ。住民に同情して「ふるさと復興が大事だ」と唱える人々も、同じように血税を食い物にしようとしているだけだ。死体に群がるハイエナのごとく、地震の被災を利用して食い物を得ようとするわけだ。
そういう現状のひどさ・デタラメさを指摘するのが、本項だ。
【 関連サイト 】
孤立集落のニュース。すさまじい状況がわかる。
→ 孤立集落からの「山越え」脱出…子連れの一家5人に立ちはだかった「歩行困難な」ぬかるみと急勾配:東京新聞
→ 孤立状態 少なくとも793人「1時間歩いて 食料調達」 NHK
冷血か温情か、という話。