マンガ「 PLUTO 」のノース2号はなぜ感動的なのか?
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マンガ「 PLUTO 」が Netflix でアニメ化されるという方を受けて、旧 Twitter では「ノース2号の物語が感動的だった」と回顧する声があふれている。
では、ノース2号の物語が感動的だったのは、どうしてか? どこにその秘密があったのか?
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私の考えを言おう。それは、そのテーマだ。つまり、
「愛するもののために死ぬ」
ということだ。そして、それが男にとって感動的なのは、それが男の宿命だからだ。
「愛するもののために死ぬ」
というのを感動的だと感じるのは、男だけだろう。男は女のために死ぬ。そのことを自らの宿命だとわきまえている。しかし女はそんなことを考えることはない。「彼氏が自分のために死ぬ」という場面を思い描いて陶酔することはあっても、「自分が彼氏のために死ぬ」という場面を思い描いて陶酔することなどはありえない。(そんな勇敢な女性は、歴史上、ジャンヌ・ダルクみたいな少数の例外だけだ。)
女にも自己犠牲の気持ちはある。だが、その自己犠牲は、子を守るための自己犠牲だ。その自己犠牲の思いの強さは、男が女を守ろうとする思いよりも強いかもしれない。いや、強いと断言してもよさそうだ。それが母性愛だ。
しかしその犠牲は、「愛するもののために死ぬ」という自己犠牲とは違う。一瞬の戦いのために命を散らせるのではなく、長い奉仕行動のために自らの命を消耗させるような自己犠牲だ。それは「死ぬ」というよりは「衰弱する」というような自己犠牲だ。
男は違う。女を守るために一瞬の火花を散らして、自らの命を散らす。それはたぶん遺伝子的に宿命づけられている。
だからこそ、その「男の宿命」を発現させるのと同様なあり方として、「自分にとって何よりも大切な人」(女ではない)のために命を散らすノース2号が、このうえなく感動的に思えるのだ。それは男の宿命の象徴だからだ。……そして、その感動を理解できるのは、男だけだろう。
自分もいつかその日が来るかもしれない。愛する女を守るために。愛する子を守るために。自分の命を犠牲にする日が。……そう予感している。漠然と。……だからこそ、男はノース2号の物語を読んで、感動の涙を流すのだ。いつか来るかもしれない、自分の最後のことをかすかに想起しながら。
それを、言葉で表すとしたら、悲愴ではなく、悲壮というものだろう。
※ だけどノース2号の弾いていたピアノ曲がチャイコフスキー「悲愴」だとしても、おかしくはないね。
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