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これは先日(5月17日)に話題になった。
テレビで有名な林先生(林修)が、他人の意見を紹介するという形で、「低所得者は社会のお荷物だ」という表現をした。その表現がテレビのテロップで表示された。
すると、テレビを見た人は誤解はしなかったが、テレビの画像をスクショにしてネットに転載したのを見た人が、テロップばかりに目を奪われたあげく、「これは林修の意見だ」と勘違いして、林修を批判した。
「低所得者は社会のお荷物だ、と林修が表現している。けしからん」
というふうに。
そこで、この誤解を受けた林修が、「それは私の意見ではありません。他人の意見です。勘違いしないで」と釈明した。
→ ご報告 | 林修オフィシャルブログ「いつやるか?今でしょ日記」

なお、そのテレビの番組における発言は、原文(口頭)では、次の通り。
これは、ある人の試算ですけれども、年収で890万から920万ないと足りないと、きつい言葉で、社会のお荷物だって書いている人もいるんですよ。
この「他人の意見」「ある人の試算」というのは、誰の意見か? 山本一郎の見解である。
ブロガーの山本一郎氏が解説する。
「内閣府の試算をもとに計算すると、世帯の総収入が890万〜920万円を超えるまでは『受益超過』となります。所得がそれ以下の世帯はいわば『社会のお荷物』です。表現は過激かもしれませんが、これは日本社会の素晴らしさでもあります。なぜなら所得が低く『担税力』のない人にも、市民サービスを平等に提供するという合意の表れだからです。ただし、そうした美しき日本社会は、近い将来、経済・財政的に破綻する恐れがあります」
( → 年収890万円未満は"社会のお荷物"なのか 近い将来破綻する"美しき日本社会" | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) )
以上で、林修の発言と、山本一郎の発言を、紹介した。
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では、これらの全体を、どう評価するか?
第1に、山本一郎が「社会のお荷物」という表現を取ったのは、妥当でない。表現が過激であるというだけでなく、歪めた不正確な表現である。単に「所得再配分をしている」とだけ指摘すれば良かった。それならば、何の問題も起こらなかった。変に歪めた表現は不要だった。(誤解を招くだけだ。)
とはいえ、話の後段では、「表現は過激かもしれませんが、これは日本社会の素晴らしさでもあります。なぜなら所得が低く『担税力』のない人にも、市民サービスを平等に提供するという合意の表れだからです」と書いており、誤解の余地は少ない。表現はともかく、話の趣旨としては、特におかしくはない、と言える。(「所得再配分をしている」、と言っているだけだ。)
第2に、林修が「社会のお荷物」という表現を、そこだけ抜き出して取ったのは、誤読と言える。山本一郎は、それが過激な表現であると釈明して、真意はそこからはズレていることを注記している。話の後段では、「社会のお荷物」という内容を否定しているとすら言える。なのに、林修は「社会のお荷物」という表現を字義通りに受け止めてしまった。
「自分の発言ではなく、他人の発言だ」というふうに紹介したが、紹介している時点でその発言を肯定的に認めている。しかも、それを字義通りに受け止めており、本来の意図とは逆方向に誤読している。修辞(レトリック)に引っかかって、誤読してしまった、という感じだ。誇張表現を真に受けたことで、本来の意味とは異なる方向に受け止めてしまった(歪曲して解釈した)、という感じだ。いずれにせよ、国語の読解力テストとしては、ペケであると言える。(落第だ。)
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では、林修はなぜ、こういう誤読をしたのか? それは、彼の発言の全体を見ればわかる。
我々は、非常に社会的なコストがかかる暮らしを、当たり前のものとして享受することになってしまっているので、今のシステムを維持するのは大変なんですよ。満員電車で運ばれてブーブー言いながら働いて、それで給与明細見て、うわ、また引かれてる、なんでって、辛い思いしながらも頑張って働いている人たちが、この社会を支えている部分って結構大きいんですよ。
高所得者が多額の負担をしているから、今の社会は維持されているが、こういうシステムを維持するのは大変だ……と述べている。
だが、これはまったくの誤りだ。以上の話は、ただの「所得再配分」であるにすぎない。そして、「所得再配分」というのは、過去においても将来においても、ずっと持続してきたし、今後も持続可能である。
だから、山本一郎や林修の考えるような心配(持続可能でないこと・破綻すること)は、ただの杞憂にすぎないのである。
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いや、話は逆だ。「所得再配分」というのは、やむを得ない制度ではなく、絶対的に必要不可欠な制度なのである。そのことは、この 30年のデフレ期を見ればわかる。この 30年のデフレ期では、貧富の格差がどんどん拡大していった。富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなった。そのことは統計的に「ジニ係数」で実証されている。また、「労働分配率の低下」でも実証されている。
→ 裁量労働制をなぜ推進する?: Open ブログ
このように貧富の格差が拡大すると、どうなるか? 貧乏人は欲しいものを買えなくなる。たとえば、パソコンや自動車や家などを買えなくなる。ではその分、金持ちが多くを消費するか? 金持ちが一人でたくさんの商品を購入するか? パソコン 100台、自動車 100台、家を 100軒というふうに? いや、そんなことはしない。単に、パソコン、自動車、家などの販売総数が減るだけだ。……かくて、貧富の格差が拡大すると、商品は売れなくなって、デフレが悪化するのだ。
※ 経済の発展のためには、供給力の成長だけがあってもダメであり、需要の成長も必要だ、ということ。
貧富の格差が拡大すると、経済成長が低迷する。貧富の格差を是正すると、経済成長が高まる。……これは、理論的にも実証的にも判明していることだ。だから、貧富の格差を是正するために、「所得の再配分」をすることは、好ましいことなのである。
ここで、好ましいというのは、低所得者にとってもそうだし、高所得者にとってもそうだ。高所得者にとっても、「所得の再配分」をすることは、好ましいことなのである。高所得者は、所得再配分によって、自らの所得から多額の納税を強いられるが、同時に、経済が成長して、自らの所得が大幅に増えるからだ。税金で取られる金の何倍もの所得増が得られるからだ。
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そもそも、林修は、次のような勘違いをしている。
「人の所得額は、能力を反映している。高い所得を得る人は、高い能力があるから、高い所得を得られるのだ」
これはまったくの勘違いだ。社会に莫大な貢献をしている学者は、ちっとも金を儲けていないことが多い。他にも、莫大な能力をもって社会に貢献しているが、所得は少ない、という人は多い。典型は、近年のビルゲイツだ。稼ぐどころか、財団を通じて、莫大な金を社会に還元している。昔は巨額の金を貯め込んだが、今はその巨額の金を使うことに熱中している。「社会貢献」という形で。……ここでは、所得はゼロどころかマイナスだが、能力も貢献度も非常に高い。
人を能力と所得とは一致しない。比例もしない。では、何が所得を決めるのか? それは、「金を引き寄せる能力」である。特に、会社の経営者や資本家は、賃金の決定権があるので、「労働者の金を、労働者に配分しないで、自分に配分する」というふうにできる。これがつまり、「金を引き寄せる能力」である。そのおかげで、自分の能力に比べて、はるかに高い所得を得ることができる。
この件は、前に「べき分布」という形で紹介した。
( 出典 : Wikipedia 「べき乗則」)
富の分布は、ごく少数の人の富の総計が、下位の莫大な人の富の総計に、等しくなる。これは、ちょっと理解しがたく観じられるが、「べき分布である」と理解すれば、うまく納得できる。(人は正規分布を基本に考えやすいので、べき分布の現象を見ると、納得しがたく感じる。)
ではなぜ、べき分布になるか? それは、そこに「相似の力」が働いているからだ。そして、その「相似の力」とは、経営者が労働者の富を奪う力なのだ。この力が働いているがゆえに、富の分布はべき分布となり、かつ、少数の人の富の総計が多数の人の富の総計に等しくなる、という現象が生じる。
( → 富の分布の法則: Open ブログ )
林修が先のような発言をするのは、彼自身が高所得だからだ。年間で何億円も稼いでいる。そして、多額の所得税を取られている。だから、「こんなに所得税を取られたくない」と思って、あのような発言をした。
そのとき、彼はこう信じている。
「自分が高所得なのは、自分の能力が高いからだ。自分は能力にふさわしい正当な高所得を得ている」と。
しかし、これは間違いだ。彼は高所得だが、そのわけは、能力が高いからではない。別に、ノーベル賞を取ったわけでもないし、社会に何か貢献したわけでもない。また、自分で著作を書いて、多額の印税を得たからでもない。
彼が高所得なのは、民放や、 TV-CM スポンサーが高い金を払ってくれるからだ。そして、その理由は、民放が電波を独占していることだ。ここでは、「電波の独占の利益」を得ている民放から、そのおこぼれを得ているのだ。換言すれば、林修が高所得なのは、電波利権を食い物にしている蛆虫の一人だからだ。(自民党の議員が国民の金を食い物にする蛆虫であるのに似ている。)
電波は国民のものである。だから、本来ならば、電波税の形で、莫大な金を民放から徴収するべきだ。なのに、そうしないから、民放は電波利権でボロ儲けをする。その利権のおかげで、林修もボロ儲けの分け前にあずかる。そして、その金を、自分の能力で得た金だ(自分の能力が高いからもらえたのだ)と錯覚しているのだ。
こういうふうに、彼は錯覚している。物事の真実を理解できない。だからこそ、「能力の高い自分が、多額の所得を得て、社会に貢献して、社会サービスを提供しているのだ」と自惚れる。
そのあげく、「だけどこんなことが永続するわけがないだろ。こんなことは不条理だ」と思い込んでいるわけだ。
欲の皮の張った蛆虫というのは、夜郎自大になって自惚れるものだ。経済システムというものを理解できない浅学者であれば、なおさらだ。
[ 付記 ]
ついでに言えば、山本一郎も、半分ぐらいは誤解している。目くそ鼻くそふうである。
なるほど、彼はこう書いている。
これは日本社会の素晴らしさでもあります。なぜなら所得が低く『担税力』のない人にも、市民サービスを平等に提供するという合意の表れだからです。
つまり、所得再配分の是認だ。この点では妥当だ。だが、そのあとで、こう書く。
ただし、そうした美しき日本社会は、近い将来、経済・財政的に破綻する恐れがあります。
いやいや。所得再配分のシステムは、破綻しない。むしろ、それをやらないと、社会がデフレになって、社会が破綻する。それがこの 30年の日本が示してきたことだ。
※ たとえば、法人税の税率がどんどん下がっていった。つまり、貧富の格差が拡大していった。
→ 異次元の少子化対策 .2: Open ブログ )

出典:財務省
別の誤解もある。山本一郎は、こう書いている。
真面目に暮らしてきた高齢者は、現役時代に築き上げた財産や貯蓄があります。このため高齢者のほとんどは『持ち家』です。しかし若い世代ほど住宅取得が困難になっています。
このせいで、高齢者は大丈夫でも、若者は困る(損する)……というふうに述べている。しかし、それは誤りだ。
なぜか? 高齢者の持ち家は、子供の世代が相続できるからだ。子供の世代は、今は持ち家がなくても、将来的には親の持ち家を相続できるのだ。
また、少子化で1人っ子が増えれば、夫と妻がそれぞれ親の実家を相続するので、1つの夫婦で二つの持ち家を相続できる。ここでは、少子化が逆に「相続で豊かになる」という結果をもたらすのだ。
もちろん、誰もが持ち家をも相続できるわけでもない。ろくに相続できない貧乏な若者も多いだろう。だが、「高齢者のほとんどは『持ち家』です。しかし若い世代ほど住宅取得が困難になっています」というふうな、世代分断をあおるような言葉は、不要なのだ。親が持ち家を持つなら、子供は損するどころか得するからだ。
結局、林修であれ、山本一郎であれ、過激な言葉で世間を煽動しているばかりで、正確な表現からは程遠いのだ。そういう馬鹿げた人間が、「社会のお荷物」というような言葉を使って、人々を侮る。
そういう彼らこそ、社会のお荷物ならぬ、社会の鬼っ子だろう。「そう言うおまえこそ」と言ってやりたいところだ。
【 関連サイト 】
山本一郎のデータの典拠は、下記だ。
(1) 所得の分布状況|厚生労働省
これを見ると、「所得分布では、年収 900万円以上は約 15% だ」とわかる。
つまり、山本一郎の言い方で言うと、「国民の 85% は社会のお荷物」となる。これでは、大衆にとって、自分が自分の荷物となる。矛盾表現だね。
※ 「高所得者にとってはお荷物だ」と表現したいのだろうが、それを間違って表現したわけだ。ひどい勘違いだ。鼻持ちならない感じだね。
(2) 税・社会保障等を通じた受益と負担について
この8ページを見ると、こうわかる。
現役世代では、600万円以上で、受益より負担が多い。
600万円以下だと、受益の方が少し多い。だが、それでも、たくさんの負担金を払っている。「もらうだけで全然払わない乞食」というわけではない。比率的には負担が小さめだ、というだけのことだ。
低所得者の所得には、生きるための費用(衣食住の費用)を含む。だから、余裕がない。なのに、懸命に払っている。その分、偉いと言える。こういう人からも、定率または定額で金を召し上げよう、という発想の方が、よほどイカレている。……それが、林修や山本一郎だ。
なお、下記グラフも参照。(前出・再掲)

出典:Twitter
年収約800万円以下が受益層というのはサラリーマンのことでしょうか。自営なら年収1000万くらいでも受益層のような感じです。林先生も必要経費と称して節税されておられるかもしれません。そういえばトランプさんもほとんど税金を払ってないと聞きましたね。
そうですね。世代分断をあおる人々は、遺産相続によって社会全体では世代間格差が縮小することを無視している気がします。
もちろん、親や祖父母から遺産を多くもらえた人と、もらえなかった人の格差は残存しますが。
昔、特に戦後の昭和では、主に右翼が敬老精神を唱え、左翼が戦争責任や家父長制による抑圧を理由に高齢者を糾弾していたとネットで見たことがあります。
しかし今、平成末期から令和にかけては、世代間の格差を強調して高齢者への敵意を煽る人々は右派が多く、一方で世代間分断を諌めて高齢者の保健医療福祉や人権を守ろうと訴えているのは左派が多い印象があります。
(世間的には右派扱いされる某地域政党の創設者も、あまり敬老精神があるようには見えませんよね?)
なぜ(少なくとも日本では)高齢者への姿勢に左右逆転現象が起きたのか、自分なりに考えてみました。
経済右派(新自由主義)の場合、高齢者は就労が難しかったり、どうしても医療や介護の費用がかかることから「生産性が低い」と見做し、貧困高齢者の年金などを切り捨てたい、それか二級市民扱いしたい願望があるのだと思います。
そのため、世代間格差論を主張し「生産性」を理由に現役世代を味方に付けたいのだと思います。
一方、文化右派(復古主義)の場合、本来ならば長幼の序などの儒教精神?から高齢者を敬うのでしょう。
ただ、復古主義者の場合「大日本帝国下で教育を受け、戦争を経験している明治・大正生まれの高齢者は敬われるべきだが、戦後教育を受け、戦争を経験していない団塊世代以降の高齢者は敬うに値しない」と内心では思っている気がします。
Twitterでも「団塊=GHQによる反日教育で左傾した老害」みたいなことを書いているネトウヨ・インフルエンサーは時々います。
また、令和の日本では(中道)左派政党=立憲民主党・共産党・社民党の支持率が相対的に高齢層で高く、(中道)右派政党=維新・国民民主党(・安倍・菅義偉政権での自民党)の支持率が相対的に若年・中年層で高いことも、左派より右派が高齢者に厳しい理由の1つだと思います。
大阪都構想反対や安倍晋三の国葬反対の割合も、若年・中年層よりも高齢層で高めの傾向でした。
以上、長文失礼しました。