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朝日新聞の天声人語が大川小の悲劇について、遺族の疑問を紹介している。「なぜ?」と。
支柱がねじれ、海側へ倒れた渡り廊下。大きく盛り上がった床。そして、津波到達時の「3時37分」で止まった時計。児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校を訪ねた。
ゆったりと流れる北上川を望む。この緩やかな勾配のせいで津波は河口から3.7キロも逆流し、大川地区をのみ込んだ。
「なんで、山さ、来られなかったかなあ」。今野さんが、ぽつりと言った。
なぜ、スクールバスで避難させなかったのか。なぜ、大川小だけ多くの児童が犠牲になったのか。遺族たちが知りたかった疑問への答えは、5年7カ月に及んだ裁判で「救えた命だった」との判決が確定しても、わからなかった。
( → (天声人語)大川小学校の12年:朝日新聞 )
「疑問への答えは……わからなかった」という。
それは、天声人語だけの話ではない。他でもやはり、わからないままだ。
残念ながら、いまだに真相がわからないままであるようだ。困った。
そこで、困ったときの Openブログ。うまい答えを出そう……と言いたいところだが、今になって出すまでもない。すでに本サイト内で、何度も解説済みだ。それらを再掲しよう。
裏山こそが避難先として最適だったということは、誰もが指摘している。なのに、校長と教師は、そこを選ばずに、危険な三角地帯をめざして、その途中で津波に襲われた。そして 74人が死んだ。
また、学校の手前にはスクールバスがあって、運転手が待っていた。なのに、スクールバスに乗らずに、三角地帯をめざした。
ではなぜ、そういうことが起こったのか? 人々は「謎だ、謎だ」と不思議がる。
しかし、横浜市の集団登校事故と対比すれば、その謎は解ける。こうだ。
「集団下校を最優先とした。裏山に登れば、各人がバラバラとなり、統率が取れなくなる。それでは集団としての管理ができなくなる」
要するに、どれほど危険であっても、「集団管理」が最優先となった。それに反する個人の意思などは、否定された。たとえ裏山に逃げたくても、それは禁止された。
( → 横浜の集団登校事故/大川小の津波被災: Open ブログ )
緊急時において、学校に何よりも求められるのは、安全管理だ。そのためには、絶対にケガをさせないことが大事であり、転ぶ可能性のある危険な経路を取ることは断じて避けねばならない。何よりも安全性を重視するからこそ、転ぶ危険のない安全な経路で、「三角地帯」をめざすべきなのだ。
……こういう発想を取った。
こうして、彼らは最も安全性の高い経路を取ったつもりで、三角地帯をめざすことにした。その間、津波に呑まれるということなどは、まったく考えなかった。津波というのは海岸からゆっくり進んでくるものなのだから、いきなり危険が襲ってくることなどありえないと思っていた。「大変だ」と騒ぐ親を「不安になって平常心を失っている阿呆」と見なして、「落ち着いてください」などと言って、「自分は利口だ」と自惚れていた。危険性などはまったく認識しなかったから、「大丈夫です」と親をたしなめた(つもりだった)。
こうして、物事の本質がわかった。
「大川小の失敗の理由は、学校が 管理責任 を何よりも重視したからである」
学校側は低脳な馬鹿だったのではない。何かを見失っていたのではない。むしろ、余計な知識に汚染されていたのである。「学校にとって何よりも大切なのは管理責任だ」と。
そこから、「ケガをするような危険を冒してはならない」という発想が生まれて、「小さな現実的な危険を避けよう」とした。そのとき、「大きな危険の可能性」を見失ってしまった。
目の前にある小さなものに目を奪われて、その背後から迫ってくる巨大な影に気づかなかった。
そういうことは、凡人には、よくあることなのである。
( → 大川小の津波被害の本質: Open ブログ )
大川小の被害が起こったのは、「命の大切さ」を理解しなかったからではない。「命の大切さ」ならば、十分に理解していた。しかし、命よりももっと大切なものがあったから、そちらを優先していただけなのだ。
では、命よりももっと大切なものとは、何か? それは、上記項目に記してある通り。つまり、学校側の「管理責任」である。
学校側は、何よりも「安全性」を重視したのである。だから、決してケガをしないように、(ケガをする)危険のある裏山には行かなかった。もし裏山に逃げて、生徒がケガをしたら、学校側は管理責任を咎められるだろう。それはまずい。校長としての経歴に傷が付く。教育委員会にも怒られる。……そう思ったからこそ、ケガをしそうな裏山を避けて、(ケガをしそうにない)安全な三角地帯をめざしたのである。
大川小で被害が多大になったのは、「命の大切さを知らなかった」というような知識不足が原因ではない。逆に、余計な知識が詰め込まれていたのである。「管理責任」というような余計な知識が。
だから、研修をするのならば、知識不足を補うために知識を与えればいいのではない。逆に、余計な知識を除去するべきなのだ。「学校の管理責任よりも、個人の自発性に委ねよ。それこそが、危機においては大切なのだ」と。
( → 大川小の津波被害の教訓: Open ブログ )
すぐ上には「個人の自発性に委ねよ」という結論がある。それに基づく発想が「津波てんでんこ」だ。この発想で、大川小のような悲劇は回避できる。
では、「個人の自発性に委ねよ」という方針を取るには、どうすればいいか? その件は、下記記事で詳しく記してある。大事な話なので、ぜひ読み直してほしい。
→ (続)何のために勉強するの?: Open ブログ
なお、「個人の自発性に委ねよ」という方針を取ると、実際にはどうなるか? それは、次の動画に例示されている。
地震による裏山の地割れ山崩れを警戒した。
雪も降っていて地盤が弱く子供が大量に山に登るとそのリスクが高まった。
裏山を所有している地区会長もそのリスクを伝えていたようです。