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これは政治的な主張というよりは、論理遊びのようなものらしい。特に政治的に何かを主張したいというよりは、論理の矛盾を突く。
「同性婚を認めるならば、同じ論理によって、近親婚も認めることになる。それでいいのか? 片方だけを認めるというのでは、論理的に破綻するのでは?」
という指摘だ。詳しくは下記。
→ 近親婚に対する反論が同性婚反対派のそれと区別つかないのマジウケるな。 ..
なかなか興味深いので、論理的に考察してみよう。
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「同性婚を認めるならば、近親婚も認めるべきだ」というのは、次のことによる。
「同性婚を異性婚と同等の権利として認めるならば、近親婚もまた普通の結婚と同等の権利として認めるべきだ。前者の権利制限が駄目だというのなら、後者の権利制限も駄目だ。どっちにしても、社会に迷惑をかけているのではないのだから、権利を制限するのはおかしい。少数者の権利を制限するのはおかしい」
なるほど。これはこれで、理屈が通っているように思える。そこで、主たる見解は、次の二通りになりがちだ。
(1) 近親婚もまた同性婚のように、認めていい。奇形の可能性が大きいということであれば、高齢者の出産も同様なのだから、そのことは理由にならない。
(2) 近親婚もまた同性婚のように、認めてはならない。どちらも社会規範に外れるので、伝統的社会に反する。(保守的見解)
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一方で、私は生物学的な観点から、次のことを指摘したい。
「近親婚(近親交配)のタブーというのは、(高度な)哺乳類のすべてに見られる。近親婚を許容する遺伝子集団は、滅びやすいからだ。そのことを理由として、適者生存により、近親婚のタブーをもつ遺伝子集団が増えて、種の属性として備わった。つまり、近親婚のタブーは、生物が遺伝子的に獲得した形質であって、法律によって禁じる以前に生得的なものだ」
具体的には、次のことがある。
オスは群れを次々と移っていきますが、このためにオスが血縁の近い自分の母親や姉妹と交尾をすることはほとんどありません。これは近親交配の回避とよばれている現象ですが、サルを含めていろいろな動物もまた、どちらかのコドモが親元を離れていくことによって近親交配が起こらないようになっています。
( → 繁殖-ニホンザルホームページ )
近親婚が認められないというのは、法律によって規定されているからではない。それが生得的に種の形質ととして備わっているからだ。仮に「近親婚は許されるべきだ」と思う人がいたら、自分の兄弟姉妹や、親や、子供(息子・娘)と交配してみるがいい。「げげっ。気持ち悪い」と思う人がほとんどだろう。それが種として備わった形質なのだ。
「同性婚を認めていいように、近親婚も認めていい」と主張するような人は、自分の論理に酔うあまり、生物としての本質から離れてしまっていると言える。
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では、「近親婚も同性婚もどちらも認めない」というのが正しいのか? それだと、同性愛者の権利が損なわれてしまって、まずいのではないか? LGBT (少数者)の権利尊重の上からも、まずいのではないか? ……そういう発想もあるだろう。たしかにそうだ。あちらが立てば、こちらが立たず。困った。どうする?
そこで、困ったときの Openブログ。うまい案を出そう。こうだ。
「そもそも同性婚というのは、独身者に対する特別な優遇なので、同性婚を独身者に対して優遇する論拠はない。それこそ、独身者に対する差別だ。差別をなくすという意味からして、同性婚を優遇するというのは、根本的に矛盾がある。差別解消のために差別するというのでは、自己矛盾であり、理屈にならない。ゆえに、(独身者に対する)優遇策としての同性婚は、一切不要である。独身者と同様に扱うだけでいい」
「一方で、優遇されることはなくとも、いっしょに暮らす家族としての権利は認められるべきだ。いっしょに暮らす家族であるのに手術の同意書も出せないというのでは不合理だ。ゆえに、家族として公認する同性家族制度は必要だ」
以上をまとめれば、こうだ。
「(独身者に対する優遇策としての)同性婚という制度は不要だが、(いっしょに暮らす家族としての人権をもたらす)同性家族制度は必要だ」
これは、先に述べた結論と同じである。
→ 同性婚を否定せよ (逆説的に): Open ブログ
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なお、上のことを本質的に見るために、核心を示せば、こうだ。
「結婚という法的制度は、結婚関係を社会的に促進するために優遇する制度である。(結婚関係にともなう)出産や育児を促進して優遇するための制度として、結婚という法的制度がある。一方、同性婚は出産がないので、社会的に促進して優遇する必要がない。だから、優遇する結婚という制度には馴染まない。一方で、それを罰する必要もないので、同性婚には刑事罰などはない」
このことは近親婚にも当てはまる。
「結婚という法的制度は、結婚関係を社会的に促進するために優遇する制度である。(結婚関係にともなう)出産や育児を促進して優遇するための制度として、結婚という法的制度がある。一方、近親婚は出産をするべきでないので、社会的に促進して優遇する必要がない。だから、優遇する結婚という制度には馴染まない。一方で、それを罰する必要もないので、近親婚には刑事罰はない」
近親相姦罪は、法律上における近親相姦の罪。ドイツなどに存在するが、日本などでは撤廃されている。近親相姦全般に関して適用するものであるが、成人同士の場合は合意の上の行為であれば罰則は必要ないとしてしばしば論争となる。
( → 近親相姦罪 - Wikipedia )
たとえば、兄と妹が愛しあって夫婦関係になる……というようなことは、考えられなくもない。特に、子供を産まないことを前提としているのなら、特に禁止する必要もなさそうだ。とはいえ、その場合は、二人でひっそりと暮らせばいいのであって、あえて法律的に公認する必要はないし、また、優遇する必要もない。二人は兄妹としての権利は与えられており、家族として過ごせるのだから、それ以上の法律的保護は不要だ。……そう考えていいだろう。
同性愛者の場合も同様だ。特に「夫婦」としての法律的優遇策は与える必要はないが、「家族」としての権利は与える必要がある。それが物事の道理というものだろう。
ちなみに、東京地裁は、その趣旨での権利を認めよ、と判決を下した。次の解説記事がある。(孫引き)
判決は、同性婚や同性パートナー制度への需要・関心は高まっており、日本人と結婚した人も外国人カップルと同程度の保護は必要との考え方を示した。その上で、このような場合に、「特定活動」の在留資格を一律に与えていない現在の運用は、「法の下の平等」を定める憲法の趣旨に反し、今回のケースでは「特定活動」が認められるべきだったとしている。
原告の2人は「日本で家族として安定して生活したいだけだ」と訴えてきた。ハイさんは自分の仕事で在留資格を得ていた時期もあるが、まず日本人の家族として生活できることが尊重されるべきだ。
家族が同じ場所で暮らす「家族結合権」は国際人権法で権利として位置づけられている。日本がその空白地帯であり続けるわけにはいかない。
( → 同性婚で違憲判決: Open ブログ )
ここで示されている権利は、あくまで「家族として暮らせる権利」だ。つまり、同性家族制度としての権利だ。
一方、「同性愛同士でセックスすることが優遇される権利」や「独身者に対する優遇策」としての同性婚制度までは要求されていない。同性婚と同性家族制度とは違うのだ。この違いを無視して議論するから、話は紛糾してしまうのだ。
( ※ 論理が混乱しているから、結論まで混乱してしまう、ということ。論理の混乱をなくせば、「同性婚は認めないが、同性家族制度は認める」ということで結論は容易になる。)
[ 付記1 ]
「同性婚を認めるように、近親婚を認めてもいいさ」
と安直に結論する人が多い。
→ はてなブックマーク
しかしこれは、近親婚というものが生得的な形質に反する、という点を無視した、理屈一辺倒の頭でっかちな主張であるにすぎない。現実の近親婚というのは、口で言うほど容易なものではない。生物的な「後ろめたさ」から、どうにも逃れがたい。
その人間性の苦悩を卓抜に描いた小説がある。下記だ。
https://amzn.to/3jpk161

著者:村上由佳
直木賞を受賞した名作だ。非常に重苦しい雰囲気だが、人間存在の根源をえぐる感じがする。図らずも愛して交わった相手が、あとで実の兄妹だと知ってしまった……と知ったときの兄妹の苦悩を描く。それまでの愛情が深ければ深いほど、禁断のタブーにぶつかった衝撃は大きい。
困った。どうすればいい? → これに関しては、Openブログも解決案はない。ただひたすら上記の小説を読むべし。「近親婚を認めれば OK 」なんていう安直な解決策をとる人は、おのれの無知を恥じるがいい。
[ 付記2 ]
LGBT では、肉体的には男である妻と、肉体的には女である夫が、結婚することがある。一種の逆転夫婦である。その後、妻の精子と夫の卵子を使って、夫が出産することもありそうだ。この場合、夫婦としての権利はどうなるか?
話が込み入っているようだが、この場合は、法的にも結婚しているし、法的にも優遇策を得られるし、生物的にも子供ができる。だから、何も問題はない。単に逆転しているだけだ。法律欄の妻と夫の欄が、現実の妻と夫との生活とは一致しないだけだ。そんなことは何の問題もない。これはただの女装癖・男装癖と同じことだ。人にとやかく言われる問題ではない。
事例:
→ 【連載】『男装女子と女装男子が結婚しました。』第10回「会ってもいないのに」(漫画)
※ この事例では、逆転した男女が結婚するのだが、結局は離婚してしまう。どうしてかというと、男装の女である著者が、女装の男である相手を愛して結婚したのに、やがてそれに我慢できなくなり、相手に完全な女であることを求めるようになったからだ。「女の格好をした男なんかイヤだ、本当の女を愛したい」と。しかし本当の女ならば、普通の男を愛するのであって、男装の女を愛することなんかない。(レズならば? 女装の女を愛するだけだ。男装の女を愛することなんかない。)……結局、著者のような男装の女は、愛しながら愛されることはない、という結果になる。不幸になるしか道はない。
生物学的にどうのこうのというと、なんか優生学を想起させます。
真の結婚は、どちらか(一般には女性)の依存性が必要のように思います。夫唱婦随という言葉が昔からあります。コーヒーとミルクを混ぜるとカフェオレになります。真の結婚とはこのカフェオレであって、ずっとコーヒーとミルクのままだと、仮面の夫婦とか、社会的な上部だけの、形だけの結婚となると思います。結婚制度は考え直す時が来ているのかも・・。