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邪馬台国の所在は、九州説と近畿説がある。そのいずれも、魏志倭人伝を「記述の一部に誤りがある」と見なした上で、その誤りを補正することで、邪馬台国の位置を推定する。
しかし私はいろいろと考えているうちに、ひらめいた。
「魏志倭人伝を素直に読めばいい。そこには誤りは何もないと見なす。むしろ誤っているのは現代人の頭の方だと見なす」
こういう立場を取れば、すべての謎は解けるのではないか? そう思って調べ直すうちに、まさしくそうだという確信を得た。そこで、以下で説明していこう。
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まず、魏志倭人伝を読むと、そこには「謎」が見つかる。数字のつじつまが合わないのだ。次のように。
内容だが、わずか2000文字ほどしかない。そこに、朝鮮半島から邪馬台国にいたるルートが克明に記されているのだ。
ところが・・・それを真に受けると、
1.九州は南北の長さが1000km以上あった(実際は320km)。
2.九州の南方に全長1000km以上の大きな島が存在した。
のどちらか。
何が問題なのか?後半の「陸行一月」という部分。「陸路を1ヶ月移動する」の意味だが、ここが大問題なのだ。
エヴェレストでも登らない限り、徒歩の移動は1日20kmぐらい。これは今も昔も変わらない。ここで、陸路1ヶ月なら、
20km×30日=600km
仮に旅程の1/3を温泉につかって、のんびりしたとしても、400kmは移動できるだろう。ところが、九州の北端から南端までは約320km。つまり、邪馬台国は海の中!?
そこで、この矛盾を回避するため、邪馬台国は九州ではなく畿内(奈良・大阪・京都)にあったという説もある。いわゆる「畿内説」だ。「陸行一月」の距離をかせぐため、向きを南から東に変えたわけだ。かなりのムチャ振りだ。
( → 邪馬台国の場所と魏志倭人伝 )
つまり、魏志倭人伝の記述(日数)を距離に換算すると、600km になって、長すぎる。記述は誤りだとしか思えない。そこで、記述を補正して、次の二通りの解釈が出た。
・ 距離を補正する → 九州説
・ 方角を補正する → 近畿説(畿内説)
以上が、現状の二通りの説だ。
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しかし、私は新たに考え直した。
二つの説はいずれも「魏志倭人伝の記述は誤りだ」と見なした上で、補正をしている。だが、記述には誤りはないのでは? 書かれている記述内容をそのまま素直に信じるべきでは?
そう考えたすえに、新たにアイデアが思い浮かんだ。こうだ。
「魏志倭人伝が誤っているのではないとしたら、現代人の方が誤っている。われわれがこれまで考えていたことが誤っている」
では、現代人が誤っているとしたら、どこが誤りなのか? 何を勘違いしていたのか? ……そう思って考えたすえに、私は画期的なアイデアに思い至った。こうだ。
「魏志倭人伝の当時は、古代であって、現代ではない」
これは画期的なアイデアだ! しかし、そう聞くと、読者は訝しむだろう。
「何が画期的なアイデアだ。当たり前だろ。魏志倭人伝の当時が古代であって、現代ではないということは、誰だって知っている。子供だって知っている。そのどこが画期的なアイデアなんだよ!」
しかし、である。これは「王様は裸だ」というのと同じだ。私は「当時は古代だ」と見なす。しかし他の人々は皆、「当時は現代だ」と思っているのだ。換言すれば、「当時の状況は現代の状況であり、当時の人物は現代の人物だ」と思っているのだ。
そう聞くと、「馬鹿な!」と思う人が多いだろうが、さにあらず。先の魏志倭人伝の解釈をするとき、誰もが現代人の解釈で日数を計算しており、古代人の解釈で日数を計算していないのだ。
その意味は、次の二つである。
(1) 道の有無
1日に進む距離はどれだけか? 先の記述では「徒歩の移動は1日20kmぐらい」として計算している。だが、これは現代人の計算法だ。一方、古代人には、これは通用しない。なぜなら、現代には道があるが、古代には道がないからだ。
道がないとすれば、
山登りをしたことのある人ならば、そういう行程があることはわかるだろう。ところが、現代人は、整備された道を歩くばかりだ。いや、歩くこともなく自動車に乗るだけの人も多い。(特に地方民はそうだ。)……こういう現代人は、「道なき荒地を進む」ということを理解できない。だから、「徒歩の移動は1日20kmぐらい」というメチャクチャな計算をしている。つまり、現代人の基準を古代に当てはめる、という仕方で計算をしている。九州説でも、畿内説でも、人々はみな「当時は現代のように道が整備されている」という前提で計算をしてる。だが、そんなことはありえないのだ。当時は道が整備されていたはずがない。
だからこそ私は新たに唱える。「当時は道はなかったのだ」と。「当時は現代のように道が整備されていたと見なして計算するのは誤りだ」と。
(2) 食料の有無
1日に進む距離はどれだけか? 先の記述では「徒歩の移動は1日20kmぐらい」として計算している。だが、これは現代人の計算法だ。一方、古代人には、これは通用しない。なぜなら、現代にはコンビニで食料を買えるが、古代にはコンビニがないからだ。
現代人ならば、一日ごとにコンビニで食料を買える。食料の心配は何もない。30日の徒歩旅行だとしても、毎日コンビニで食料を買えばいいので、食料の心配は何もない。
しかし古代では違う。古代にはコンビニがなかった。食料を買うわけにはいかなかった。では、缶詰のような携行食をもてば良かったか? いや、缶詰もなかった。あるとすれば、せいぜい、干し
では、どうしたか? 縄文人と同様に、狩猟採集で食料を得たはずだ。山で果物や、木の実や、獣を食料とすることも可能だが、最も確実なのは、海沿いに魚介類を獲ることだ。とはいえ、魚介類を獲るといっても、口で言うほど簡単ではなかっただろう。釣りをしたとしても、かなりの時間を食ったはずだ。
とすれば、一日のうち、かなり多くの時間を「食料の採集」のために費やしたはずだ。食料を得るためには、現代人ならば、コンビニにちょっと行けば済むのだが、古代人ならば、多大な時間を投入する必要があったのだ。そういう違いがあった。現代人の基準を、古代人に当てはめるべきではないのだ。当時はコンビニがなかったのだから。
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以上で、二つの点を示した。
( ※ さらに言えば、当時は折りたたみ傘や ビニール合羽がなかった。とすれば、「雨の日は行進を休む」という方針も取られたかもしれない。それだと、さらに歩みは遅くなる。)
上記によって、「一日に進める距離は、現代人よりもはるかに少ない」とわかる。だから、「陸行30日」というのは、距離に換算して 600km よりもずっと少ないのだ、とわかる。では、そうだとしたら、どうなるか?
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あらためて考え直そう。魏志倭人伝には、
「水行 10日、陸行 30日」
という記述がある。これは、次の二通りの解釈がある。
・ 水行 10日と、陸行 30日
・ 水行 10日 または 陸行 30日
前者は、何でそんなことをするのか意味がなさそうなので、排除したい。とすれば、後者が残る。
これを具体的に当てはめる解釈としては、次のような解釈がある。
→ 邪馬台国 | 弥生ミュージアム
→ 水行二十日、水行十日、陸行一月と倭人の短日制
私としてはいちいち紹介しないので、各自で上記文書を見た上で、「九州説における邪馬台国がどの辺か」を理解してほしい。
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さて。私はすでに「古代人が1日に進む距離はとても短い」と示した。その方針の上で、上記文書の話を当てはめてみる。すると、「水行 10日 または 陸行 30日」に当てはまる場所は、別府や大分のあたりだとわかる。(南東にある平地は、そこしかない。)

Google Map
- ※ 先に「海沿いの経路を取っただろう」と述べたが、それには論拠がある。水行と陸行が併記されていることだ。これは、どちらも同一の経路であったことを暗示する。同一の経路だから、水行と陸行が併記されたのだ。そして、同一の経路であるということは、海沿いの経路であることを意味する。(水上と陸上の違いがあるだけだ。)
→ 徒歩ルート(スマホでは表示エラー)

では、別府のあたりに邪馬台国があったという説は、すでにあるのでは? そう思ってググると、たしかにあった。
→ 驚愕!邪馬台国は「別府温泉」にあった…地下には卑弥呼の王宮が眠る?
この説は、「邪馬台国は別府にあった」という説だ。ただし、その結論に至る理由は、本項の話とはまったく異なる。他の科学的状況などから、別府がその場所だと推定している。
では、大分市はどうか? 衛星写真を見ると、この場所は大きな平野があるので、ここでも良かったように見える。だが、よく考えると、当時は海水面が高かった。大分市の平野部の多くは、大阪平野と同様で、当時は湿地帯や潟だっただろう。とても人間が住むには適していなかったはずだ。とすると、残るのは別府だということになる。(二者択一で。)
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というわけで、以上のような理由で、「邪馬台国は別府にあった」というのが、私の新しい説だ。
そして、その理由は、「当時は現代ではなかった」ということだ。つまり、「当時は道もなかったし、コンビニもなかったので、現代人の基準で一日の歩行距離を決めてはならない」ということだ。
これまでの九州説や畿内説が間違えていたのは、古代の人に現代の基準を当てはめていたからなのである。「昔の人は Google マップとコンビニを使えば、1日 20km を歩けるさ」と思っていたのだろう。当時の人はスマホもコンビニも使えない、ということを、すっかり忘れていたのである。
※ スマホやコンビニというのは、あくまでレトリックで言っているだけなので、そこは突っ込まないでください。
[ 付記 ]
なぜ九州の他の地ではなく、別府という場所が選ばれたのか? それは、別府という土地が温泉で有名であることと関係があるはずだ。そこからこう推定できる。
「別府は湧水が豊かだったのではないか?」
裏付けのためにググる。
→ https://x.gd/aqvNo
別府は豊かな湧水で有名だ、とわかる。たとえば、下記だ。
→ 大分県の代表的な湧水
→ 別府:男池湧水群 (下図)

このような湧水のある場所こそ、水道のなかった古代においては居住に最適な土地だった。九州が(阿蘇山噴火のせいで)火山灰大地であり、多くの場所が井戸水には恵まれていないことを考えると、なおさらだ。
豊かな湧水のある別府こそ、古代国家(村落)の発生する場所としては最適だったのだ。
※ 熊本は地下水盆があるので、例外的に井戸水は豊かだ。しかし井戸を掘るのは、当時は大変だ。井戸よりも湧水の方が有利なのは、言うまでもない。
【 関連サイト 】
→ 邪馬台国九州説 - Wikipedia
【 関連書籍 】
上で紹介した別府説は書籍になっている。
「邪馬台国は別府温泉だった!: 火山灰に封印された卑弥呼の王宮 (小学館新書) 」
という書籍だ。
https://amzn.to/3HIzNST
の部分は引用文でした。その処理を忘れていた(引用タグが抜けていた)ので、訂正しました。
私は山男で、山にはよく登るので、山とはどういうものか知っているから、道がないことも理解できる。
なお、地方民だと、車道しか知らなくて、歩道すらも知らない人が多いかも。(それは誇張)
そもそも温泉を利用していたかどうかは判明していない。温泉を利用するには、みんなが裸になる必要があり、かなり治安が良いことが条件となる。温泉は、資源としてはあっても、利用されていなかった可能性もある。利用されていないものには、記述もあるまい。
そもそも魏志倭人伝の記述は、そんなに多くない。字数は約2000字程度しかない。一方、本サイトでは、3000〜4000字の記事が多い。本サイトのたいていの記事に半分ぐらいの文字数しかないわけだ。あれこれと多くのことを詰め込むのは無理。
前方後円墳という風習が生じたのは、ずっと後の年代になってからのことだ。ただの流行みたいなものだから、その年代になってから奈良の流行が伝わった、と思えば理解できる。別に、邪馬台国がその流行の発祥地だったわけではない。