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奈良が繁栄した理由は平城京ができたことであり、奈良が衰退した理由は平安京へ遷都したことだ……というのが、標準的な解釈だ。つまり、人為的なことが要因だった、というわけだ。
しかし、平城京ができたことにも、平城京から長岡京・平安京へ移転したことにも、別の理由がある。それは自然環境だ。人間の意思ではどうにもならない絶対的なものとしての自然環境が、大きな要因となっていた。
このことは、私の独自見解ではなく、すでに知られたことなので、本項ではそれを紹介する形で記述しよう。
奈良盆地
奈良では(神武天皇の到達した)橿原に、最初の都である難波宮ができた。都ができたということは文明ができたということでもある。
では、奈良に都ができたのはなぜか? そこに多くの人が定住できたとすれば、その理由は農耕である。特に、稲作である。ではなぜ、奈良では稲作ができたのか? そのための自然環境があったからだ。
このことは、ネット上では、次の文書に詳しく記してある。
→ 地形から読み解く日本文明(竹村 公太郎)
ここから引用しよう。
日本では、奈良盆地(大和盆地)で文明が生まれました。なぜ奈良盆地であって、大阪や名古屋、京都、あるいは広島や岡山ではなかったのでしょうか。
他の海に面した場所はみんな湿地帯で、とても住めるような場所ではありませんでした。ところが、奈良盆地だけは360度を山に囲まれたきれいな土地だったのです。
奈良盆地というのは、非常に防御も堅い場所で、さらに、360度を山に囲まれているということは、エネルギーである森林の宝庫だったわけです。当時は、家も舟も道具も木でつくりましたし、煮炊きなどの燃料も全て木です。ましてや、湖があったということは、小舟でどこへでも行けたということです。
6世紀末の飛鳥京の後も、694年に藤原京、710年に平城京と、この湖面の周辺に次々と都がつくられました。奈良盆地の遺跡は全部端っこで、真ん中にはないのです。安全で、水資源があって、エネルギーがあって、交通インフラがあった奈良盆地は素晴らしい天国のようなところだったと、私は考えています。
このように奈良盆地は稲作に適した土地だった。だからこそ、ここに人々は定住して、稲作をして、文明を発達させた。一方、他の土地ではそれはできなかった。
ちなみに、大阪には淀川や大和川が流れていて、奈良に都ができた4世紀ころは、大阪平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていました。
「海と川が混じる湿地帯」では稲作ができないのは当然だ。(海水の塩分で稲が枯れるから。)
きれいな淡水のある平野が広がっているのは、当時は奈良盆地ぐらいだった。(西方から関西に達した場合には。)……だから、そこで最初の文明が誕生した。
そして、難波宮のあとには、次のように都ができた。( 前々項 の再掲)
難波宮 → 大津宮 → 飛鳥京 → 藤原京 → 平城京
(古墳時代) ( 飛 鳥 時 代 ) (奈良時代)
京都(長岡京・平安京)へ
こうした楽園のような奈良盆地だが、その都は永続しなかった。人々はやがて奈良盆地から離れることとなった。
なぜか? 天皇が遷都を決めたからか? いや、否応なしに、その地を離れざるを得なくなったのだ。というのは、そこはやがて楽園ではなくなったからだ。つまり、「自然環境に恵まれていた」という条件が満たされなくなったからだ。そのことも、同じ文書に記してある。
次に、この360度が青山(樹木が青々と茂っている山)、森林というエネルギー資源に囲まれた奈良盆地からなぜ出ていったのかという話に移ります。
インフラの面から見ると遷都の理由は簡単です。単純にエネルギーがなくなり、奈良ではもう生きていけなくなったのです。
当時、建築や燃料などに、一人当たり一年間で10本ほどの立ち木が必要だったと推定されます。ちなみに現代の私たちが使っているエネルギーの量は、立ち木で言うと何千本にもなります奈良盆地にはピーク時で20万人いたと言われていますが、平均10万人として、年間100万本の木を切らないと生きていけなかったのです。単純な計算で、奈良盆地で200年間いたら生活できなくなるということです。森林がなくなり、使える木がなくなってしまったのです。
木がなくなったらどうなるかと言うと、ちょっとした雨でも20センチ、40センチの大事な表土が流れ去ってしまいます。その流れた土砂は湖に溜まって堆積して、自分たちの排泄物もそこに滞留します。疫病の巣になって、きれいな水が取れなくなります。天智天皇家、天武天皇家どころではないのです。もうここには住めないとなって、桓武天皇は大和川流域の奈良から淀川流域へ移り、長岡京をつくったのだと思います。
こうして奈良盆地の平城京を出て、別の地である京都盆地に長岡京を作った。しかしそこは水害のある土地で、住むには不適だった。場所の選定ミスを悟った天皇は、再び遷都して、京都盆地に平安京を構えた。ここではすべてうまく行った。
平安京への遷都は大成功で、この後、京都は1000年の都になるわけです。では、なぜ大阪湾から奥まった内陸部に位置する京都が、1000年の都になったのか。
地形からいうと、京都は最高の土地でした。瀬戸内海をはじめ海路から来た人たちが淀川をさか上ると京都なのです。京都からスタートして淀川を下ると、瀬戸内海に出て、自由に海上を船で行き来することもでき、京都は海運の拠点にもなったのです。
京都というと、内陸の盆地のように見える。だが、琵琶湖から大きな水量をもらった淀川のおかげで、京都と瀬戸内海は水運で結ばれることとなった。通常ならば、琵琶湖のような巨大な水源からは、水はいくつもの川となって流れ出すところだが、琵琶湖の場合には、水は淀川だけに絞られることとなった。だから淀川には豊かな水量がもたらされ、そこでは水運が発達したのだ。
淀川については、Wikipedia にこうある。
淀川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川(せたがわ)、宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。
( → 淀川 - Wikipedia )

出典:Google Map
さらに、私の考えを言おう。淀川だけでなく、琵琶湖そのものが水運に役立ったはずだ。琵琶湖は非常に大きな水面を持つ。そこでは水運が発達していたはずだ。裏付けもある。
琵琶湖は古来より、京阪神への水源であると同時に重要な交通の要衝でした。日本海で取れた海産物を始め、北国諸藩からのたくさんの物資を敦賀で陸揚げし、深坂峠を越えて塩津港へ、再び船積みして湖上を大津・堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。
( → 湖上水運の歴史 )
陸上経由の分を除いても、琵琶湖の沿岸だけでも広大である。そこでは木材を大量に運搬することができたはずだ。それゆえ、木材不足になることはなかったはずだ。琵琶湖周辺の広大な山地がすべて木材供給地となったからだ。
ひるがえって、奈良盆地では、盆地の周辺の森林しか利用できなかった。だから200年ほどで木材不足になったしまったのだ。先の文書にはこうある。
奈良盆地周辺は完全にはげ山になっていたのです。
( → 地形から読み解く日本文明(竹村 公太郎) )
結局、奈良盆地も、京都盆地も、どちらも「淡水に恵まれた平地」という点では共通しており、どちらも稲作ができたので、文明が繁栄できるという点では同様だった。ただし木材供給の点が違った。奈良盆地は周辺の森林が少なかったので、200年しか繁栄できなかった。京都盆地は、琵琶湖と淀川がそばにあった。だから(周辺の森林だけに限られず)、非常に広範な土地から木材を供給してもらうことができた。自分たちが移動するかわりに、木材の方に移動してもらうことができた。だから京都はその場所から移ることなく、一定の場所に留まって、1000年も繁栄することができたのだ。
これが私の見解である。(竹村 公太郎の見解に上乗せした見解)
※ 簡単に言えば、京都の繁栄が長続きしたのは、琵琶湖と淀川のおかげである。自然環境のおかげである。(奈良にはそれがなかったから、奈良は短命だった。)
※ 以下は、特に読まなくてもいい。(些末な話なので。)
[ 付記1 ]
京都の北にある丹後半島の話をしよう。
竹村 公太郎の見解には、丹後半島についても説明がある。
地形からいうと、京都は最高の土地でした。……日本列島を古代人たちが歩いていたころの話です。大陸から海路で日本海側にたどり着いて、ずっと歩いてくると、この辺には険しい山もありますが、京都にたどり着きます。
( → 地形から読み解く日本文明(竹村 公太郎) )
これは「日本海から京都へ」というルートだ。そのルートは、具体的には、日本海側では丹後半島を意味したようだ。
この点では、朝日新聞(2022-04-27 夕刊)に、参考となる記述がある。
丹後の海に眠る遺物を見つけたい――。京都府北部、日本海に突き出た丹後半島に住む1人の高校生の抱いた夢が、水中考古学の専門家らを巻き込んだプロジェクトに発展している。
丹後の海は古代から大陸との交易が盛んだったと聞いたことを思い出した羽間さんは、沈没船が眠っているかもしれないと直感した。
丹後半島では、海岸の函石浜(はこいしはま)遺跡から2千年前の中国の貨幣が見つかるなど、古代から日本海交易の中心地だったとされる。
( → 丹後の高校生が出会った「水中考古学」 夢が大人を動かした:朝日新聞 )
こうしてクラウドファンディングが立ち上がり、目標 300万円に対して、400万円以上が集まった。プロジェクトの詳細は下記だ。
→ 丹後水中考古学プロジェクト
その後、秋になってプロジェクトは実行されて、水中探査が実現した。それを朝日新聞が報じている。
→ 図書室で出会った一冊の本 1年後、女子高生は海に潜った:朝日新聞
→ 水中考古学、夢も発掘した18歳 一冊の本きっかけ、クラウドファンディングで資金集め:朝日新聞
成果としては、次のような発見があった。
海岸の岩場では、船を係留するための綱を通す穴が開いた「鼻ぐり岩」や、綱をかけられるように加工された「もやい岩」が約30個確認された。陸上でも、台風で打ち上げられた土砂に混じって江戸時代のものとみられる陶磁器の破片が見つかった。
( → 水中考古学、夢も発掘した18歳 一冊の本きっかけ、クラウドファンディングで資金集め:朝日新聞 )
主として江戸時代のころの痕跡が見つかった、というぐらいで、大発見はなかったようだ。平安時代の利用の痕跡などはとうてい見つからなかったようだ。しかしまあ、それは仕方ない。1000年以上も利用された場所だし、1000年前の痕跡が見つからなくとも仕方ない。
それでも、この場所が古くから海運で利用された重要な場所だったということを、裏付けるための一助にはなっただろう。それで十分だ。
[ 付記2 ]
丹後半島で交易があったことについては、Wikipedia にも記述がある。
4世紀後半建造とされる巨大古墳も多く、古代より大陸との交流が盛んな所で近年の考古学的発掘によりこの地方に一大勢力があったことが確認されている。
( → 丹後半島 - Wikipedia )
また、次の記述もある。
丹後半島の地形的特性が、大和政権によって重要視され、大和政権が大陸や朝鮮半島との交易を行う拠点として丹後を位置づけた
( → 京丹後市の歴史 中学校社会科副読本 )
さらに、理論的に考察してみよう。若狭湾の各地(舞鶴市・小浜市)の方が、京都からの距離も近いし、陸路の距離が短いので、丹後半島よりも適しているように見える。ではなぜ、そちらでなく丹後半島が使われたのか?
それはたぶん、当時の船は規模の小さな船であったからだろう。朝鮮半島から日本海の荒波をくぐり抜けて、ようやく日本に到達して、陸地が見えてくる。となると、一刻も早く陸地に上陸したがるはずだ。体力も尽きているし、食料や水も尽きてくる。さっさと上陸して楽をしたい。だからこそ、朝鮮半島に近い丹後半島が選ばれたのだ。
とはいえ、時代を経て、船が大型化すると、京都に近い若狭湾の方が便利になってきそうだ。現代では、若狭湾の舞鶴には発達した港湾があるが、丹後半島はすっかりさびれてしまって、まともな港湾設備はない。水運という点では丹後半島はほとんど使われなくなったようだ。
【 関連項目 】
竹村 公太郎の文書に、巨椋池についての記述がある。
京都の長岡京は、巨椋(おぐら)池という大きな湖のそばにあります。この辺りは見渡す限り水平線で、湖は昭和の前半に埋め立てられるまでありました。桓武天皇には、この巨椋池がとても魅力的に見えたのです。いまのような交通インフラのない時代でも、奈良と同じように、小舟でどこへでも行けました。桓武天皇は、奈良盆地の原風景に誘われて、この地へ行ってしまったのではないかと思います。
ところが、それはとんでもない失敗でした。長岡京がつくられたのは、桂川と宇治川と木津川が合流して淀川になる辺りで、雨が降るとすぐに水浸しになってしまう場所だったのです。それで、桓武天皇はあわてて10年後に北の高台、現在の京都へ移動して、794年に平安京をつくりました。
これに関連して、巨椋池について記述した項目がある。
→ 京都の巨椋池を復活させよ: Open ブログ(2019年12月30日)
【 関連書籍 】
竹村 公太郎 の著作
・ https://amzn.to/3kT8LPp (2021年)
・ https://amzn.to/3HiFIN3 (2019年)
・ https://amzn.to/3Hflzr8 (2013年)
いずれの書籍も、「奈良や京都が繁栄した理由」を述べており、その点では、本項で示した話(要点)と共通する。より詳しい話が上記の書籍には記してあるようだ。
(ダブっている点もあるようだが、執筆時点が違うので、新しいものほど、情報は更新されていると思える。たぶんね。)