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前項で述べたことについて、コメント欄でいろいろと情報が寄せられた。それに従って調べ直したところ、前項で述べたことは不正確であったと判明したので、新たに修正した情報を示す。
(1) 大阪上陸と撤退
前項では、「神武天皇が熊野に上陸したのは、大阪には上陸しにくかったからだろう」と推測した。(理由は地形的条件。断崖や荒磯など。)
だが、歴史的には違う。日本書紀の記述によると、神武天皇は熊野に上陸する前に、大阪に上陸して、その後に地元の兵力と戦って撤退したそうだ。そこでやむなく、大阪湾への上陸を諦めて、東方に転進することにしたそうだ。
→ 【保存版】神武東征神話を丸ごと解説!東征ルート
(2) 海水面の上昇
前項では、「神武天皇が熊野に上陸したのは、大阪には上陸しにくかったからだろう」と推測した。(理由は地形的条件。断崖や荒磯など。)
このこと自体は、マトはずれだったわけではない。なるほど、現在の大阪湾周辺(明石付近や泉南付近)には、浅瀬や砂浜があるようだ。だが、当時もそうだったわけではない。なぜなら、当時は海水面が現在よりもかなり高かったようだ。そのせいで、大阪湾のあたりは湿地帯であったそうだ。
6000年前の縄文前期時代は大気温が現在よりも高く、海面は5メートルほど上昇していました。
海面を5メートル上げると、いまの広島も岡山も大阪も和歌山も徳島も、みんな海の下です。つまり、6000年前はこの辺の平野はみんな海だったわけです。もちろん、その後、海面は少しずつ下がりましたが、それでも海だったところは上流から川が流れ込む湿地帯でした。
( → 地形から読み解く日本文明 )
海面が5メートルも上昇していたのは6000年前であり、古墳時代のころには1メートルぐらいの上昇だったと思える。そのくらいだと、明石や泉南などは、砂浜というより、浅瀬だったかもしれない。
次の情報もある。(当時の地形の画像あり)
淀川と大和川から流れ込んだ土砂が積もり、湾の入り口が小さくなっていきました。こうしてできたのが河内潟です。
( → 河内湖、河内湾とは?古代大阪に存在した湖と内海 )
※ 湿地帯や潟などで、上陸しにくかったとしても、実際には上陸してしまった。(1) で述べた通り。とはいえ、結局は、そこから撤退したので、上陸しなかったのと同じ結果になった。
(3) 熊野は砂浜?
熊野の砂浜は、かなり高い位置まで続いている。海水面より2〜3メートルぐらいの高さまで、砂浜があるようだ。
→ 熊野の砂浜( Google Map :ストリートビュー)
この状況からすると、海水面が2メートルほど上昇しても、かなり接岸しやすそうだ。(この点では、前項の説明が間違っているわけではない。)
(4) 直行ルート
前項では、熊野に上陸したあとは、「熊野から橿原まで、直線で結ぶのではなく」と述べて、東に迂回するルートを示した。(特に神武天皇以後の後続者たち)
しかし日本書紀によると、(初回に関する限りは)神武天皇は、熊野から橿原まで直行するルートを通ったようだ。その途中で、有名な「八咫烏 」と遭遇したそうだ。

出典:【保存版】神武東征神話を丸ごと解説!東征ルート
(5) 和歌山ルート
神武天皇が橿原に到達して、そこで勢力を張ったあとでは、このあたりが繁栄した。そうなると、熊野から伊勢神宮のあたりを経由して橿原に向かうのは、いかにも遠回り過ぎる。
とはいえ、大阪湾経由だと、途中に険しい山地があって、到達しがたい。かといって、大阪湾から北回りで奈良盆地の北端に到達するというのも、かなりの遠回りだ。
そこで、近道ルートとしてあるのが、和歌山経由で橿原に到達するルートだ。

出典:Google map
このようなルート(和歌山・橿原)は、取られただろうか? 当初はそこに地元の敵対勢力がいたので無理だっただろうが、いったん橿原で大きな勢力を確立したあとでは、可能だっただろう。(大規模な勢力で圧倒できた。)
実際、和歌山ルートが存在したことは、典拠となる資料があるようだ。その一例が、日前宮だ。
古代の和歌山は、『日本書紀』や『古事記』に記された神話に登場します。天窟戸に隠れた天照大神を導き出すために鏡が作られました。その鏡を祀っているのが日前宮です。一説には伊勢神宮だともいわれていますが、古代の人々は日前宮と伊勢神宮を同じように見ていたことがわかります。日前宮をはじめとして、伊太祁曽神社・鳴神社などは古代の朝廷から特別な崇拝を受けていました。
( → 日前宮 )
Wikipedia の「日前宮」の項目には、こうある。
日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。
( → 日前神宮・國懸神宮 - Wikipedia )
和歌山というのは、現代でもかなり繁栄した地域である。Google マップの衛星写真を見た限りでは、「大阪平野からは分断されているし、小さな平野だし、こんな隔絶した場所が繁栄しているのが不思議だ」と思えたのだが、実は理由があった。和歌山は、(当時の首都である)奈良から海に達するための、最短ルートであったのだ。奈良が繁栄すれば、奈良と海を結ぶ途中の和歌山が繁栄するのは、当然だったのだ。
そういう経緯があったから、和歌山は歴史的にかなり繁栄したのだと言えよう。(ごく小さな地域であるわりには。)
参考記事:
→ 不便な紀州になぜ御三家? かつては有数の大都市
【 関連項目 】
奈良から京都に移った理由などは、次項で示します。(予定)