2023年01月26日

◆ なぜ京都と奈良は繁栄したか .1

 京都は冬がすごく寒くて、気候が悪いのに、(歴史的に)繁栄した。それはなぜか? 

 ──

 前項でも述べたように、京都は気候が悪い。盆地にあるので、寒暖の差が激しくて、夏は暑く、冬は寒い。なのにどうして、京都は繁栄したのか? 

 それを知るには、歴史を見るといい。京都が繁栄するに至ったのには、歴史的な順序がある。いきなり京都が繁栄した(平安時代の平安京)のではなく、その前に、奈良が繁栄していた。

 奈良というと、平城京のことが思い浮かぶが、平城京だけがあったわけではない。順序で言うと次の順序で、次々と移っていった。

   難波宮 → 大津宮 → 飛鳥京 → 藤原京 → 平城京
 (古墳時代)  ( 飛  鳥  時  代 )   (奈良時代)


 これらのいずれも、奈良盆地にあった。日本の古代の繁栄のルーツは、奈良盆地にあったのだ。

 ──

 ではなぜ、奈良盆地で繁栄が生じたのか? その理由は、次のように推察できる。

 日本書紀によると、神武天皇が 神武東征 で最終的に到達した場所は、橿原である。
  → 神武東征の地図

 この橿原という場所が、難波宮のある場所なのだ。
 つまり、神武天皇が神武東征で最終的に到達した場所として、橿原があるので、橿原で日本最初の都が作られたのだ。

 ──

 ただし、神武東征の時期(西暦 300年ごろ)と、難波宮のできた時期(西暦 650年ごろ)とは、350年ほどの差がある。この間の時期は、古墳時代だ。
 古墳時代に繁栄した場所は、奈良に限られていれば話は簡単となる。だが、実際には、そうではない。この時代の権力は、ヤマト王権が握っていたが、古墳時代の古墳は、奈良県に限られず、九州から仙台にまで及んでいた。特に関東には古墳が多く作られていた。


kohun-map.gif
出典:社会科資料読解ワークシート開発プロジェクト



 古墳時代の権力を握っていたのは大和朝廷だが、この時代には都はまだできていなかった。ただ、畿内に勢力があったことは判明している。それ以上のことは、資料が少なくて、あまり良くわかっていないようだ。実を言うと、藤原京のあった場所が判明したのも、戦後になってからだ。奈良時代よりも前のことは、文献が少ないせいで、ろくにわかっていないらしい。(後年に編纂された)日本書紀などが資料となるぐらいであるようだ。
  ※ 日本書紀が編纂されたのは奈良時代になってからのことだ。奈良時代からようやく文献がまともに作られるようになる。

 ──

 奈良時代よりも前については、神話的要素も多くて、どこまでが史実なのか、はっきりとしないこともある。
 だが、科学的根拠から、推測できることもある。特に、次の問題だ。
 「神武天皇は、瀬戸内海を東進して、北九州から大阪湾に達した。ところが、大阪湾には上陸せず、ぐるりと南方を迂回して、熊野で上陸した。そのあと熊野から橿原までは陸路をたどった。
 ではなぜ、大阪湾で上陸せず、わざわざ遠い熊野で上陸したのか? 大阪湾で上陸すれば、そこから大阪平野や奈良盆地は近い。なのにどうして、遠回りして、熊野経由で橿原に至ったのか?」
 
 この問題には、地図を見ることで回答できる。


kumano-map.jpg
出典:Google Map


 Google Map で、熊野の部分を拡大表示するとわかる。大阪湾から熊野まで、海岸線は険しい絶壁が続く。なだらかな砂浜があって、船が上陸しやすい場所は、熊野が初めてなのだ。だから神武天皇は熊野で上陸したのだ。
  → 熊野の砂浜( Google Map :ストリートビュー)

 なお、大阪の現状は、大量の埋め立てがなされたので、昔はどうだったかは、判明していない。絶壁だったかもしれないし、砂浜だったかもしれない。しかし、砂浜があったなら、そこに上陸していたはずなのだから、砂浜はなかったと推定するのが妥当だ。
  ※ 絶壁というより、荒磯だった可能性もあるが。

 このように地形から推定することで、「神武天皇が熊野で上陸した理由」が判明する。そしてまた、日本で最初の都が奈良盆地に作られた理由も判明する。それは、そこが「熊野から最も近い平地(盆地)だったから」である。
 こうして奈良盆地で人々が暮らし始めたから、奈良盆地で日本で最初の文明が繁栄したのだ、と言えそうだ。

 ※ もう一つ、農業的な理由もあるのだが、それについては次項で示す。奈良から京都に移った理由も示す。(予定)



 [ 付記 ]
 熊野から橿原までのルートはどうか? 高い険しい山地を横切ったのか? いや、それは困難すぎる。(女・子供を含む)大量の人々が続々と通るのは難しい。とすれば、ルートは、次の図から推定できる。


kasiharahe.jpg


 熊野から橿原まで、直線で結ぶのではなく、
   熊野 ── 紀北町 ── 多気町 ── 橿原

 というルートをたどったのだろう。これならば、山間の低い土地を通るだけなので、通行は困難ではあるまい。また、橿原という場所が選ばれた理由も、この地図からわかる。

 ※ 「紀北町 ── 多気町」のルートは、山間地を直行するルートもあるが、海沿いを歩いたと見なす方が、自然だろう。その途中に、伊勢志摩がある。とすれば、途中経路にあたる伊勢志摩が、古代日本において重要な位置づけをされたこと(下記)の理由も、この地図からわかる。
  → 考古学からみた古代王権の伊勢神宮奉祭試論



 【 関連項目 】

 → 邪馬台国の謎: Open ブログ
 邪馬台国とヤマト王権との関係を示している。北九州で邪馬台国ができたあと、畿内でヤマト王権が成立したが、その過程では、ヤマト王権は徐々に形成されたので、なだらかな変化があった。

 → 邪馬台国の謎 2: Open ブログ
 北九州から畿内への移行を結ぶものが、神武東征である。

posted by 管理人 at 23:58| Comment(8) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後に  [ 付記 ] と 【 関連項目 】  を追加しました。
Posted by 管理人 at 2023年01月27日 09:37
 邪馬台国 最近は畿内説が有力です
Posted by k at 2023年01月27日 09:53
 邪馬台国の所在については、別項で説明ずみ。以下、転載。

 ──

「九州説」「畿内説」という二分法的な区別は無意味だ、とわかるだろう。最初は九州にあって、最後は機内に移った。その過程で、どこからどこまでを「邪馬台国」と見なすかによって、「九州説」「畿内説」のどちらを取ることもできるのだ。「邪馬台国」という言葉の定義しだいだ、と言えるだろう。

 しいて答えるなら、次のような答え方ができる。
 「魏志倭人伝で記載された女王・卑弥呼がいる権力体制としての邪馬台国は、北九州にあった」
 「ヤマト王権の成立前にあった権力集団としての邪馬台国は、北九州から畿内にかけての広い範囲に分布していた」(統合されないまま)
 「ヤマト王権に直接的に取って代わられたものとしての邪馬台国(一部の権力集団・諸派)は、畿内にあった」

 こういうふうに整理できるだろう。

http://openblog.seesaa.net/article/467763746.html
Posted by 管理人 at 2023年01月27日 10:56
竹村公太郎氏は、地形の観点から上下水・水運・資源などについて考察し、奈良盆地での文明の誕生、遷都を繰り返さざるを得なかった理由などについて書かれていますね。土木工学の視点からの考察で面白かった記憶があります。
Posted by けろ at 2023年01月27日 12:51
 次項で書くはずだったのに、先に書かれてしまった! 
Posted by 管理人 at 2023年01月27日 13:15
「神武天皇は、瀬戸内海を東進して、北九州から大阪湾に達した。ところが、大阪湾には上陸せず、ぐるりと南方を迂回して、熊野で上陸した。そのあと熊野から橿原までは陸路をたどった。
 ではなぜ、大阪湾で上陸せず、わざわざ遠い熊野で上陸したのか? 大阪湾で上陸すれば、そこから大阪平野や奈良盆地は近い。なのにどうして、遠回りして、熊野経由で橿原に至ったのか?」

日本書紀の記述を素直に読むと、神武天皇は大阪湾から難波の津を通って河内潟(湾)に入って、白肩津に上陸して竜田に向かったが道の険しい難所で、引き返して生駒山越えを狙ったものの、待ち受けたナガスネヒコとの戦いに敗れて草香津に引き返して、乗船して大阪湾の外に出て南に向かったということだと思います。
こちらのサイトが詳しいです。
https://nihonshinwa.com/archives/826
Posted by 愛読者 at 2023年01月27日 13:56
その当時の大阪の姿はこちらの「西暦400年ごろ」の図が参考になります。
https://www.mapple.net/articles/bk/3292/?pg=2#ls_1
Posted by 愛読者 at 2023年01月27日 13:58
 情報ありがとうございました。次項で紹介・説明します。
Posted by 管理人 at 2023年01月27日 14:13
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