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昔というと、江戸時代よりも前の時代には、関西が繁栄していた。特に、京都が繁栄していた。
ところが京都は、盆地なので、寒暖の差が激しい。京都の冬は、とても寒いのだ。たとえば、26日の天気予報を見ても、最低気温は大阪が0度なのに、京都は、零下4度だ。

このように京都は、気候的には過ごしにくい場所だ。なのに昔は、京都で暮らす人が多かった。では、昔の人は京都で、厳しい冬をどうやって しのいできたのだろうか?
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これについて、ネットで調べると、次の記述を見出した。
Q 江戸時代以前の庶民の方々はどうやって寒さを凌いでいたのでしょうか?
武家や貴族は暖炉などで温々と生活してたでしょうけど庶民は一体どうやって寒さを凌いだんでしょうか?
A 江戸時代以前の暖房具といえば火桶(火鉢)ですし、あとは囲炉裏だけでしょう。
行火が普及するのは江戸時代中期頃であり、湯たんぽも室町時代に入ってきたのですが、普及するのは江戸時代に入ってからです。
平安時代のベッドといえば畳であり、掛け布団は「衾(ふすま)」という長方形の布地であり、平安時代後期から鎌倉時代にかけての掛け布団は掻巻(かいまき)という衿(えり)や袖が付いたものが寝具でした。
一般庶民といえば、平安時代以前の貧民は「カミブスマ」や「象潟」(さきかた、海藻を連ねて編んだもの)をかけて寝ており、平安時代では菰(こも、マコモを粗く編んだムシロ)を巻いた者や着ていた衣服を掛けて寝ている乞食が描かれていますし、江戸時代であっても農家では菰かムシロを敷くか藁蒲団が一般的だったといいます。暖房具といえば囲炉裏で暖をとっていた程度でしょう。江戸時代以前の裕福な庶民でも薄い寝具を利用する程度で、火桶で暖をとっていたと思われます。
薄い寝具で暖房もなく暮らしていたのですから驚きです。現代人ではこのような暮らしには寒くて寒くてとても耐えられないでしょう。
( → Yahoo!知恵袋 )
非常に寒い状況で、避けがたく寒さに耐えていたらしい。とはいえ、そんなに過ごしにくい状況で、人が我慢し続けていたというのも不思議だ。すぐそばには暖かな瀬戸内海もあるのに、そっちに逃げずに、京都に留まっていたというのも不思議である。
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一方で、次の記述もある。
Q 平安時代でも「冬の寒さは、火さえたけばいいので何とかなるが、夏の暑さだけは、どうにもならない」と、書かれた書物があると、新聞か何かで読んだ記憶があります。
A 縄文時代の半ば頃から弥生時代頃までは寒冷期。
その後、卑弥呼の邪馬台国の頃から大和朝廷の支配が進む西暦500年頃までは温暖期。
そこから、大宝律令が制定される西暦700年頃までは再び寒冷期で、次の奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続き、その後、室町時代の1400年前後から小氷期に入り、その寒い期間は昭和の初め頃まで続いたそうです。
( → Yahoo!知恵袋 )
奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続いていたそうだ。現代の京都よりは暖かな気候であったらしい。ならば案外、楽に過ごしていたのかもしれない。
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では、奈良時代以後は温暖期であったとして、奈良時代よりも前にはどうだったのだろうか? この点では、まだ都市の発達していない時代には、「竪穴式住居」というものが使われていて、これがけっこう過ごしやすかったらしい。
(竪穴式住居は)縄文時代に入ると盛んに造られるようになり、弥生時代以降にも引き継がれた。
竪穴建物自体は平安時代ごろまで造られ、さらに時代が下がった例として東北地方では室町時代まで造られていた。ただし、特に近畿地方では、平安時代にはほとんどが平地建物へ移行したとされる。
( → 竪穴式住居 - Wikipedia )
家のつくりは、地面を掘り下げ半地下をつくり、木の柱を4〜7本たて、そこへ木の枝などで骨組みを作り、草木で覆う‥場合によってはその上に土を載せるというもの。
さらに半地下にも秘密があります。地面を掘り下げた半地下にすると、一年を通じてほぼ15度から20度で一定の室温を保てるのです。
掘り下げれば掘り下げるほど、温度が一定に保てるので、北海道など寒い地域では、人の背丈ほども掘り込んだものもあります。
( → 寒さ対策-万全です 縄文の竪穴住居|のんてり|note )
住居の中の温度は、極寒期をのぞき、ほぼ15度から20度で一定しています。
( → 竪穴住居 )
竪穴式住居では、冬でさえ 15度以上の温度が保たれていたというのだから、現代の家屋よりもよほど過ごしやすかったことになる。さらに、暖房もあったらしい。
冬には炉の火は一晩中炊いていたようです。
もちろん暖かさを保つためや調理、保存食を確保しておくためにも必要でしたが、竪穴住居を構成する柱などの防虫、防腐対策にも大いに役立っていました。
炉で火を焚くと、……その煙は、木に虫がついたりカビの発生を食い止める「くんじょう」効果を持っています。
火を食べものの煮炊きに使うだけでなく、照明や暖房、さらに住宅を快適に保つといった役割も知っていたのですね。
( → 寒さ対策-万全です 縄文の竪穴住居|のんてり|note )
「冬には炉の火は一晩中炊いていた」ということなので、就寝中には暖房なしで過ごすことも多い現代人よりも、暖房面ではずっと恵まれていたことになる。
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以上ではいろいろと情報を紹介してきたが、こうして見ると、昔の人の暮らしもそう悪くはなかったようだ。ある面では、現代人よりもマシだったとも言える。
まあ、どんな時代であれ、そこで人がまともに暮らしていける限りは、そんなひどい状況ではなかったようだ。
[ 付記1 ]
参考で言うと、26日の朝の最低気温は、東京で零下4度ぐらいになったようだが、ソウルでは 25日の朝の最低気温が零下 17度だった。
→ ソウル(Seoul)(韓国)の天気 - 日本気象協会 tenki.jp
零下 17度! それに比べれば、日本の方がはるかに過ごしやすいとわかる。
ただし屋内では、韓国はけっこう過ごしやすい。というのは、韓国では床暖房(オンドル)が普及しているからだ。床下に煙と熱気を通すことで、家全体を温める。……ただしこれは、乾燥した韓国だからこそ可能であるそうだ。日本でこれをやろうとすると、日本では湿気が多いので、うまく行かないそうだ。(たぶん通気が悪いと、湿気のせいで家の木材が腐ってしまうのだろう。シロアリも出そうだ。)
まあ、韓国には韓国の暮らし方があるようだが、それにしても、冬の寒さという点では、日本の方がずっとマシであることは事実であるようだ。
[ 付記2 ]
韓国の寒さはひどいが、日本の寒さはそれほどでもない。ではなぜ、日本は韓国よりも暖かいのか? 理由は次の二つが考えられる。
・ 大陸から寄せる風が、日本海から熱をもらって、温まる。
・ 日本海で水蒸気をもらってから、フェーン現象が起こる。
特に後者は大切だ。太平洋側が暖かいのは、フェーン現象のおかげで、空気が暖まるからだ。換言すれば、水蒸気を雪の形にして固化することで、寒さを日本海側に落としてしまっているので、その分、寒さをなくした空気が暖かくなって、太平洋側に訪れる。
さらに、副次的効果として、太平洋側はからりと晴れた日が続くので、その分、日光がふんだんに浴びせかかる。これで「太陽光ヒーター」を受けているようなものだ。その分、暖かくなる。
26日の朝は冷え込んだが、その後、太陽光が降りそそぐと、日中の気温はかなり上昇した。特に屋内では、日光を浴びた南側の部屋は暖まった。「お日様、ありがとう」と感謝したいところだ。
[ 付記3 ]
江戸時代には、火事がよく起こったが、火事が起こる季節は、冬が多かった。夜に火を付けっぱなしにして、火で暖房を取っていたせいだろう。
現代でも火事は冬によく起きますがそれは江戸時代も同じでした。特に江戸は、夏は雨が多く冬は晴れが続き非常に乾燥する、という気候の特徴がありました。
( → 3年ごとに江戸が燃えた!?江戸時代の大火事はなぜ起こった?【画像あり】|江戸ガイド )
(江戸の火事は)月別に大火の発生をみると、現行のグレゴリオ暦に換算して3月が最も多い。2月・4月・1月の発生がこれに続き、1月から4月までの4ヶ月で全体の7割を占めている。
このことは江戸の町人たちにもよく知られており、冬には女性たちを江戸近郊の実家などに避難させ、火事の季節が過ぎてから呼び戻すといった対応策が取られていた。
( → 江戸の火事 - Wikipedia )
なお、北風や乾燥した空気も、火事の理由に挙げられることが多いようだ。しかし現代でも、北風や乾燥した空気があるが、暖房が「エアコンやガス暖房」になると、火事は激減した。一方で、もっと前の「石油ストーブ」の時代には、火事がかなりたくさんあった。
とすればやはり、火事の理由は、(北風や乾燥した空気よりも)夜間の火の有無が大きな理由なのだろう。
※ 北風や乾燥した空気は、出火の理由というよりは、ただの火事が大火事になる理由であったようだ。江戸時代の庶民の住む家の領域は狭くて、狭い地域に住居が密集していたせいで、延焼が起こりやすかった、ということも理由であるようだ。
→ 3年ごとに江戸が燃えた!?江戸時代の大火事はなぜ起こった?
※ 出火の理由は、寝煙草も理由であったようだ。ただし寝煙草は季節要因にはならない。冬だけ寝煙草をするわけでもない。冬に火事が多かった理由は、寝煙草とは別だろう。(寝煙草と風や空気との合わせ技なら、ありかも。)
→ 火の用心、夜回りの由来と語源から学ぶ
江戸時代の火事の話。