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謎と見えたものが、実は謎ではなかった……という話だ。
これは「裸の王様」にも似ている。世間の大人たちには真実が見えなかったが、正直な子供だけはちゃんと真実が見えていた(そして声を上げた)……という話だ。
この問題をよく理解するには、坂本弁護士事件 (1989年)との類似性を見るといい。
坂本弁護士事件では、弁護士一家が惨殺されたことで、「弁護士たるものが惨殺されるなんて、どういうことか、謎である。ただの強盗殺人とも違うし、インテリの弁護士をこんなふうにする犯人がわからない。犯人像が不明だ」と言われた。
しかし、何のことはない。実は、「最も怪しいやつ」が見逃されていただけだ。このころ、坂本弁護士と最も敵対していたのは、オウム真理教であった。そのオウム真理教が犯行に及んだのだ。一番怪しいやつに目をつければ、すぐに真犯人は見つかったのだ。なのに、妙に遠慮していたから、オウム真理教は見逃され続けた。そのあげく、松本サリン事件(1994年)が起こった。それでもまだオウム真理教は見逃され続けたので、地下鉄サリン事件(1995年)が起こった。
→ 33年前の坂本弁護士一家殺害 同僚弁護士らが追悼 | NHK
これとよく似ているのが、赤報隊事件 だ。これは朝日新聞社が襲われた一連の事件であり、そのうちの一つとして、朝日新聞阪神支局襲撃事件がある。これもまた、犯人は謎だとされた。ただのマスコミにすぎない朝日新聞の記者を殺害するなんて、まともな人間ならば考えることがないはずだ。そんなことを考える狂人がいるのだろうか? 犯人像がわからないまま、犯人は謎だとされて、事件は迷宮入りとなった。
しかし、何のことはない。実は、「最も怪しいやつ」が見逃されていただけだ。このころ、朝日新聞社と最も敵対していたのは、統一教会であった。その統一教会が犯行に及んだのだと思える。一番怪しいやつに目をつければ、すぐに真犯人は見つかったのだ。なのに、妙に遠慮していたから、統一教会は見逃され続けた。そのあげく、(統一教会でなくその反対者によって)安倍晋三銃撃事件が起こった。
この二つの事件は、最終的な事件の形は異なるが、構造的にはとてもよく似ている。いずれも犯人はカルト団体であり、被害者はカルト団体の敵対者だった。犯行動機も明白であり、カルト団体を攻撃する人々に対する、カルト団体からの逆襲だった。
このとき、世間にとっては、「弁護士や新聞社が攻撃されるというのは、とんでもないことだ」というふうに感じられたのだろうが、当のカルト団体としては、「自分たち自身を守るための自衛行動だ」というつもりだったのだろう。
こういう背景を理解すれば、誰が犯人であるかもすぐにわかるし、犯行の動機もすぐにわかる。
ただし、今現在、朝日の襲撃事件の犯人が統一教会であることは明示されていない。そこで、本項では「犯人は統一教会だ」とはっきり明示しておこう。推理の理由は、下記だ。(いずれも出典は Wikipedia だ。)
朝日新聞東京本社銃撃事件
1987年1月24日の午後8時過ぎに、東京本社1階の植え込みから建物の2階に向けて散弾銃を2発発射したものと見られる。実況見分により、植え込み付近で未燃焼の火薬がみつかった
犯行声明の中で、犯人は自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し……
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
朝日新聞阪神支局襲撃事件
1987年5月3日夜に発生した。
黒っぽいフレームの眼鏡をかけ、黒っぽい目出し帽をかぶった全身黒装束の男が散弾銃を構えて編集室に押し入り、ソファーに座って雑談していた犬飼記者の左胸めがけていきなり発砲した。
1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった。
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送された。中曾根には「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だった。
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
警察は無能だったわけではない。犯人をかなり絞り込んでいた。
山下征士元兵庫県警捜査一課長は、捜査で「疑惑の中心地」とされた人物について記している。捜査当局がマークしていたチャート図中央の人物がいた。刑事・公安両方が注目したが、警察庁が示した右翼関係者のリストの人物はほとんどがこの人物周辺、接点があった。兵庫県警は3回この人物に事情聴取した。……この人物は旧日本陸軍連隊機関誌に「中曽根総理にもの申す」を寄稿した。内容は靖国神社参拝、教科書問題、朝日新聞批判で、「赤報隊」の犯行声明と似ていた。朝日新聞は1984年8月4日付記事で南京事件について報道し、1985年11月24日付でこの人物を批判した。
山下元兵庫県警捜査一課長は、この人物の「キャリアや思想、朝日新聞への敵意」から、「ここまで公然と朝日新聞社と、中曽根政権に「もの言い」をつけていた著名人」はおらず、この人物が「真っ先にマークされるのはどう見ても自然」であり、実行犯ではないとしても「影響下にある人物を操縦して犯行を指示することは可能である」とした
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
犯行の動機も明らかだった。
朝日新聞社の発行する『朝日ジャーナル』などが統一教会の「霊感商法」批判を展開していたことに対し統一教会側から激しい反発があり、当時、統一教会は朝日新聞を批判するビラを駅前で大量に配布するなどしていて、朝日新聞社と統一教会は実質的に戦争状態だったのである。
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
他にも根拠はあった。
薬莢とともに送り付けられた脅迫状(事件直後に「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」という脅迫状に散弾銃の使用済みの薬莢2個が同封されて朝日新聞東京本社に届いた。この2個の薬莢は阪神支局で使われたものと同じ米国レミントン製で口径と散弾のサイズも同一である。消印から東京都渋谷区から投函されたことも判明している。しかも、統一教会本部は渋谷区松濤である)。
更に、阪神支局で使われた銃弾がレミントン製と報道されるよりも前に、薬莢を同封した脅迫状は投函されているのである。『朝日ジャーナル』の編集長をしていた筑紫哲也宛にも脅迫状が届いていたことなどから、統一教会関係者の関与を疑う者が少なくない。
霊感商法等の不法行為が警察の取り締まりの対象とならないのは、多額の政治献金を受けている政治家の介入によるものであるとされる。
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
このあと警察はいよいよ統一教会に切り込もうとした。ところが、そこに圧力がかかった。
「世界基督教統一神霊協会(略称・統一教会、統一協会)を捜査しようとしたところ、政治家からの圧力により捜査を中止させられた」と有田芳生は捜査幹部の話として紹介している。
兵庫県警の元捜査官は上司から「上からストップかかった」と言われて捜査中止を命令されたと証言している。このため事件への関与の疑いを残したまま統一教会は捜査対象から外された。
( → 赤報隊事件 - Wikipedia )
最も怪しい真犯人は明らかだった。ところが、それを捜査しようとすると、政治圧力がかかった。かくて事件は迷宮入りとなった。
ここでは、犯人がわからなかったから迷宮入りになったのではない。犯人がわかったからこそ、その犯人がつかまらないように、政治家が圧力をかけたせいで、迷宮入りとなったのだ。
( ※ 仮に統一教会が犯人でなければ、政治圧力をかける必要はない。統一教会が犯人であるからこそ、真相が判明したときに、政治家の側も「一蓮托生」となって巻き込まれてしまう。それではまずい。だからこそ、政治家の側が「統一教会を逮捕するな」と圧力をかけたわけだ。)
- ※ ただし、圧力をかけたのが安倍晋三だったとは言えない。公訴時効を迎えた 2002年の時点では、安倍晋三はまだ大きな権力を握っていなかったからだ。圧力をかけたのは、別の誰かだったと思える。(その誰かは、安倍晋三の将来をおもんぱかったのかもしれない。だが、むしろ、自分自身が統一教会から大きな援助を受けていたので、自らの身を守ろうとしたのだろう。その後、安倍晋三が大きな権力を握ると、統一教会は安倍晋三に乗り換えたのだろう。)
[ 付記 ]
この事件では、どうにも奇妙な謎がある。事件が時効になったことだ。具体的には こうだ。
「朝日記者殺害事件は 1987年であり、公訴時効は 2002年である。したがって事件発生後 15年で公訴時効を迎えたことになる。しかし、殺人罪の法定刑の上限は死刑であり、公訴時効は(当時の規定では) 25年であったから、公訴時効は 2013年のはずである。一方、2010年には、殺人罪の時効は廃止されたから、2013年には間に合っている。ゆえに、朝日記者殺害事件は時効廃止に引っかかるので、今なお時効になっていないはずだ」
私の計算( or 法解釈)では、上のようになる。ところが、ネットを見る限り、「2002年に時効になった」とある。たとえば、下記。
→ 朝日新聞阪神支局襲撃事件とは - コトバンク
これは不思議だ。どういうことなのだろう? 私の計算( or 法解釈)が間違っているのだろうか? それとも、本当は時効になっていないのに、「時効だ」というふうに、法を歪めた解釈がまかり通っているのだろうか?
【 追記 】
コメント欄で情報を教えてもらった。当時の時効は 25年でなく 15年であったそうだ。
【 関連サイト 】
坂本弁護士事件では、世間は「オウムは犯人ではない」という風潮が圧倒的だった。それを批判したのは、小林よしのりだけだったようだ。そのせいで小林よしのりは暗殺されかかった。
小林氏がオウムと接点を持ったのは、坂本弁護士一家失踪事件の風化を懸念する弁護士から協力の依頼があった’94年のことだ。
「坂本弁護士のアパートを独自に検証して、坂本弁護士が自ら蒸発する可能性などないと確信した。考えられるのは、拉致のみ。それで、ゴー宣で『決めつけはいかんよ』と断りつつ、『オウ……』まで描いたら、たちまちオウムから抗議がきた。当時、世間は『坂本事件は解決済み』『オウムの仕業ではない』という風潮で、学者や文化人がこぞってオウムを擁護していた。その代表的な宗教学者・中沢新一と麻原の対談でも、中沢は『オウムの犯行ではない』と言い切り、他の宗教学者たちは『ポストモダンの新しい宗教』『子供のように純粋』とオウムを礼賛し、一般人の警戒心を解いていた」
( → 小林よしのり、オウムに暗殺されかけたあの日々を語る | 日刊SPA! )
小林よしのりの指摘は、私は当時、連載されていた記事を見た。強い印象を受けたので、今でも覚えている。その記事は、今でも読める。
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ここからオウムとの死闘が始まった。
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事件当時の殺人罪の時効は15年でした。現行の殺人罪の時効撤廃の前に2004年にも一度時効は延長されていて、その際に25年になりました。ただし延長については遡及しないとその当時の法改正ではなっていました。したがって本事件は旧旧法どおりの年限で公訴時効となったわけです。
によれば、改正前は25年でなく、15年だったそうです。
>公訴時効期間は、2004年(平成16年)12月の刑事訴訟法改正により延長された(2005年(平成17年)1月1日施行)。