2022年09月02日

◆ 稲盛和夫とビル・ゲイツ

 稲盛和夫が逝去した。彼は日本史上最も優れた経営者であったと思う。その意味では、ビル・ゲイツに近い存在だ。
 
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 稲盛和夫が逝去して、追悼する記事が多く出た。いくつかを引用しよう。
 鹿児島市生まれ。鹿児島大学工学部を卒業後、京都の碍子(がいし)メーカーに就職した。1959年、独立して京都セラミック(現京セラ)を設立した。97年から名誉会長。
 70年ごろ、半導体の回路を保護する入れ物にあたるパッケージの開発量産に成功した。以来、主力のファインセラミックス部品から電子部品、太陽電池、携帯電話などの分野に事業を広げ、グローバル化も進めた。創業時、28人だった従業員は、グループで8万3千人、世界30以上の国や地域に広がる。
 また、80年代に電気通信事業の自由化の論議が高まったとき、当時の電電公社による「独占はよくない」との思いから、84年に第二電電企画(後のDDI)を設立した。通信事業は畑違いだったが、毎晩「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答して参入を決めたという。
 2000年にはDDI、KDD、日本移動通信(IDO)を合併に導き、今のKDDIを設立した。国内の長距離電話の料金引き下げを主導したほか、携帯電話の普及にも尽くした。
 その後、企業経営には距離を置いていたが、2010年に経営破綻したJALの再建役に請われた。当時、78歳だったこともあり、家族や友人に反対されたが、「世のため人のために役立つことが人間としての最高の行為である」という自らの人生哲学から会長職を引き受けた。JAL再建に、景気、雇用、競争という三つの大義を感じたという。
 就任後は東京でのホテル暮らしを続け、社員らに京セラ、KDDIを成長させた独自の経営哲学を説いた。「アメーバ経営」と言われる部門別採算制度を導入し、2年8カ月で再上場に導いた。この間、無給だったという。15年から名誉顧問だった。
( → 京セラ創業者の稲盛和夫さん死去、90歳 JALの経営再建にも貢献:朝日新聞

 「50歳を超えた私がこんなに叱られるのか、というくらい叱られた。相当厳しい人でした」。日本航空(JAL)の経営破綻(はたん)後、稲盛和夫さんのもとで、再建に奔走した米沢章さん(60)は、厳しく指導を受けた日々を振り返る。
 会議に出席し、全役員と関連会社社長の眼前で、稲盛さんに叱咤(しった)されたことを忘れられない。
 でも、JALに欠けていた「収支」という概念を社内に浸透させるうえでは不可欠だった、と思う。「稲盛さんが持ち込んだ(経営哲学にあたる)『フィロソフィ』と『部門別採算』が大きく貢献したのは間違いなかった」
 稲盛さんをいまも信奉するJAL幹部は多い。「教え」は近年傘下に入った会社にも広がる。
( → 「こんなに叱られるのか…」 稲盛和夫さんを振り返る元JAL幹部:朝日新聞

 (民主党政権下で JAL 再建を依頼した)前原誠司衆院議員は、「極めて短期間でV字回復を遂げられたが、あれをやり切るのは稲盛さんしかいなかった。本当に感謝してもしきれない。日本を救ってもらった」と語った。
 二大政党制による緊張感のある政治をつくることの重要性を唱えた稲盛さんは、民主党政権誕生の立役者でもあった。
( → 鳩山元首相「党内融和の助言もらった」 政財界から稲盛さん悼む声:朝日新聞

 一つの会社を起こして、成長させ、継承するだけでも、そう容易に成し遂げられることではない。亡くなった稲盛和夫さんは、京セラと今のKDDIという二つの会社を設立し、日本を代表する企業に成長させただけではない。経営破綻(はたん)の後、二次破綻の恐れもあった日本航空(JAL)を短期間で再生させた。
 これほどの経営者は、もう現れないように思う。
 自ら関わった3社の設立、再建は、決して成功が約束されたものではなかった。むしろ無謀ともいえる挑戦だった。9年前のインタビューで「私の人生は逆境の連続でした」と話していた。
 
 「全従業員の物心両面の幸福を追求する」という経営目標を掲げた。
 その会社の従業員が100人を超え、稲盛さんは「一体感を醸成するには。全社に目が行き届かない」と悩んだ。思いついたのが、部門ごとに採算性を明らかにし、それぞれが経営者のように自立する「アメーバ経営」だった。同時に、他人を思いやる「利他の心」を説くようになった。
 これらの経営理念も部門採算性も、KDDI、JALに引き継がれた。
 
 経営者である前に人として正しいことは何か。世のため、人のために役立つことが人間としての最高の行為である。こう説く稲盛さんには近寄りがたいようにも思う。一方、取材で会った人々からは親しみやすい逸話も聞いた。
( → 逆境から生まれた「アメーバ経営」 稲盛和夫さん、たどり着いた哲学:朝日新聞

 「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」
 京セラグループの経営理念。1961年の団体交渉で社員と三日三晩議論した末に、将来にわたって従業員やその家族の生活を守り、みんなの幸福を目指していくことが会社の長期的な発展に不可欠と考えて制定した。この理念は、稲盛さんが関わったKDDIやJALの経営理念にも盛り込まれた。
( → 稲盛和夫さんが残した言葉の数々「君の思いは必ず実現する」:朝日新聞

 「判断基準の根幹に、人間として何が正しいのか、という問いが常にあった。優れた経営者でありながら哲学者でもあった」と惜しんだ。
( → 「人間として何が正しいのか」 稲盛和夫さんの翻訳者が見た判断基準:朝日新聞

 私財200億円を投じてつくった稲盛財団を通じて、科学や芸術の支援にも力を入れた。「人のため、世のために役立つことをなすことが、人間として最高の行為である」という自身の理念に基づき、1984年、優れた科学者や芸術家をたたえる「京都賞」を創設した。
 受賞者には、山中伸弥・京都大教授(2010年受賞)や本庶佑(たすく)・同特別教授(16年受賞)のように、後にノーベル賞に選ばれる人も多く、京都賞は「ノーベル賞の登竜門」とも評される賞に育った。
( → 私財投じた財団、山中伸弥さんら支援 ふるさとにも深い愛情 稲盛氏:朝日新聞





 いくつもの会社を興して成功した、という点では、テスラのイーロン・マスクを思わせる。
 だが、崇高な理念を唱えたという点では、晩年のビル・ゲイツを思わせる。

 ビル・ゲイツは最近、日本に来て、昆虫の博物館のツイートをして話題を呼んだ。
  → 70年無料を貫く「目黒寄生虫館」に訪れた予想外の夏 ビル・ゲイツ氏来館、寄付金増加
  → 「目黒寄生虫館」にビル・ゲイツが降臨→世界中からアクセスが殺到し、5か月で寄付目標達成

 ゲイツが日本に来たのは、勲章を受章するため。
  → ビル・ゲイツ氏に旭日大綬章の勲章…途上国での感染症対策に取り組んだ功績で

  ※ 旭日大綬章は、最高位の勲章ではない。しかし他の勲章が、大統領・首相・駐日大使・社長といった、本業・役職への勲章であるのに対して、ゲイツには奉仕活動への勲章であるという点で、際立っている。
  ※ 稲盛和夫もまた、本業で傑出してただけでなく、経営理念や理想主義において傑出していた。ゲイツに似て、人格面で際立った人物だった。ただし勲章は、紺綬褒章飾版という格の低いものしか与えられていない。(死後受勲でいいから、もっとずっと格上の勲章を与えるべきだと思うが、民主党に肩入れしていた人だったので、たぶん自民党が反発しそうだ。)

posted by 管理人 at 22:52 | Comment(0) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
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