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マッカーサーはペテン師だった。「詐欺師」という言葉を使いたいところだが、通常の意味の「詐欺」をしたわけではなく、嘘をついただけだ。その嘘が、子供の嘘の規模を越えて、とんでもない大々的な嘘となった。その意味では「ペテン師」という言葉がふさわしい。
彼は歴史上、最高レベルの嘘つきだった。軍師として、史上最悪の失敗をしておきながら、史上最高の成功をしたように吹聴したのだ。(日本で言えば、史上最悪の首相が、史上最高の首相だ、と見せかけて、それを人々が信じた……というような状況だ。)
以上のことは、Wikipedia 「マッカーサー」を読めばわかる。以下ではそこから引用しよう。
まず、彼の初期の経歴は華々しいものだった。
ウェストサイド高等学校に入学、1年半もの期間受験勉強し、1899年6月に750点満点中700点の高得点でトップ入学した。(アメリカ陸軍士官学校に)
1903年にウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業した。
1918年に第一次世界大戦に参戦し、師団参謀長として13の勲章を受勲した。1919年には史上最年少で同士官学校の校長に就任、1925年には最年少でアメリカ軍の少将に就任、1930年には最年少でアメリカ軍参謀総長に就任した。
1935年にフィリピン軍の創設に携わり、翌1936年にはフィリピン軍の元帥となった。
ただし、このあとが問題だった。フィリピンでは、傲慢にふるまったあと、部下のアイゼンハワー(のちの大統領)と対立したあげく、嘘で誤魔化した。
アイゼンハワーら副官は……マッカーサーを諫めるも、聞き入れず、副官らにパレードの準備を命令した。……(そのあと)マッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーらに責任を転嫁した。
自分が失敗したあと、都合が悪くなると、部下に席に転嫁して、尻拭いをさせる。最悪のタイプの上司だと言えるだろう。
しかしまあ、ここまでは特に大きな実害もなかったようだ。ひどい実害は、このあとだ。
在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となった。
そこでの仕事が問題となる。
マーシャルはB-17を過信するあまり日本軍航空機を過少評価しており、「戦争が始まればB-17はただちに日本の海軍基地を攻撃し、日本の紙の諸都市を焼き払う」と言明している。B-17にはフィリピンと日本を往復する航続距離は無かったが、爆撃機隊は日本爆撃後、ソビエト連邦のウラジオストクまで飛んで、フィリピンとウラジオストクを連続往復して日本を爆撃すればいいと楽観的に考えていた。
その楽観論はマッカーサーも全く同じで「12月半ばには陸軍省はフィリピンは安泰であると考えるに至るであろう(中略)アメリカの高高度を飛行する爆撃隊は速やかに日本に大打撃を与えることができる。もし日本との戦争が始まれば、アメリカ海軍は大して必要がなくなる。アメリカの爆撃隊は殆ど単独で勝利の攻勢を展開できる」という予想を述べているが、この自軍への過信と敵への油断は後にマッカーサーへ災いとして降りかかることになった。
当時の米軍首脳は、日本軍を舐めきっていた。「もし日本が宣戦布告しても、圧倒的な米軍の前に、日本軍はあっという間に蹴散らされる」と信じていた。だからあえて日本を戦争(宣戦布告)に仕向けようとしていた。
→ 戦争の目的は「生存」だ: Open ブログ
米軍首脳は日本軍を舐めきっていたが、現実には、日本軍は予想外に強力だった。米軍を圧倒的に打破した。
1941年12月8日、日本軍がイギリス領マラヤで開戦、次いでハワイ州の真珠湾などに対して攻撃をおこない太平洋戦争が始まった。
12月8日フィリピン時間で3時30分に副官のサザーランドはラジオで真珠湾の攻撃を知りマッカーサーに報告、ワシントンからも3時40分にマッカーサー宛て電話があったが、マッカーサーは真珠湾で日本軍が撃退されると考え、その報告を待ち時間を無駄に浪費した。その間、アメリカ極東空軍の司令に就任していたブレアトン少将が、B-17をすぐに発進させ、台湾にある日本軍基地に先制攻撃をかけるべきと2回も提案したがマッカーサーはそのたびに却下した。
夜が明けた8時から、ブレアトンの命令によりB-17は日本軍の攻撃を避ける為に空中待機していたが、ブレアトンの3回目の提案でようやくマッカーサーが台湾攻撃を許可したため、B-17は11時からクラークフィールドに着陸し爆弾を搭載しはじめた。B-17全機となる35機と大半の戦闘機が飛行場に並んだ12時30分に日本軍の海軍航空隊の零戦84機と一式陸上攻撃機・九六式陸上攻撃機合計106機がクラークフィールドとイバフィールドを襲撃した。不意を突かれたかたちとなったアメリカ軍は数機の戦闘機を離陸させるのがやっとであったが、その離陸した戦闘機もほとんどが撃墜され、陸攻の爆撃と零戦による機銃掃射で次々と撃破されていった。この攻撃でB-17を18機、P-40とP-35の戦闘機58機、その他32機、合計108機を失い、初日で航空戦力が半減する事となった。その後も日本軍による航空攻撃は続けられ、12月13日には残存機は20機以下となり、アメリカ極東空軍は何ら成果を上げる事なく壊滅した。
人種差別的発想から日本人を見下していたマッカーサーは、「戦闘機を操縦しているのは(日本の同盟国の)ドイツ人だ」と信じ、その旨を報告した。また、「日本軍の陸軍、海軍機あわせて751機が飛来し、彼我の差は7対3という圧倒的不利な状況下にあった」と実際とは異なる報告をしている。
日本軍を舐めきっていたマッカーサーの軍は壊滅した。なのに、その責任を負うどころか、とんでもない嘘をついて、自分の罪を糊塗して、真実を隠蔽した。ここでは早くも嘘つきの能力が発揮され始めている。
マッカーサーは日本軍主力の上陸を12月28日頃と予想していたが、本間雅晴中将率いる第14軍主力は、マッカーサーの予想より6日も早い22日朝にリンガエン湾から上陸してきた。……上陸してきた日本軍を海岸で迎え撃ったアメリカ軍とフィリピン軍は、訓練不足でもろくも敗れ去り、我先に逃げ出した。怒濤の勢いで進軍してくる日本軍に対してマッカーサーは、勝敗は決したと悟る……
12月23日、アメリカ軍司令部はマッカーサーのマニラ退去を発表。
このとき、兵站面でも失敗があった。
当初のオレンジ計画では内陸での防衛戦を計画しており、物資や食糧は有事の際には強固に陣地化されているバターン半島に集結する予定であったが、マッカーサーの新計画では水際撃滅の積極的な防衛戦となるため、物資は海岸により近い平地に集結させられることとなった。
マッカーサーはフィリピン軍の実力に幻想を抱いては無かったが、陸軍が約束した大量の増援物資が到着し、部隊を訓練する時間が十分に取れればフィリピンの防衛は可能と思い始めていた。実際に1941年11月の時点で10万トンの増援物資がフィリピンに向かっており、100万トンがフィリピンへ輸送されるためアメリカ西海岸の埠頭に山積みされていた。
マッカーサーの作戦により平地に集結させていた食糧や物資の輸送が、マッカーサー司令部の命令不徹底やケソンの不手際などでうまくいかず、設置されていた兵站基地には食糧や物資やそれを輸送するトラックまでが溢れていたが、これをほとんど輸送することができず日本軍に接収されてしまった。その内のひとつ、中部ルソン平野にあったカバナチュアン物資集積所だけでも米が5,000万ブッシェルもあったが、これは米比全軍の4年分の食糧にあたる量であった。
その結果、平地から離れて引きこもった奥地では、物資の窮乏に瀕した。
バターン半島には、オレンジ計画により40,000名の兵士が半年間持ち堪えられるだけの物資が蓄積されていたが、全く想定外の10万人以上のアメリカ軍・フィリピン軍兵士と避難民が立て籠もることとなった。マッカーサーは少しでも長く食糧をもたせるため、食糧の配給を半分にすることを命じたが、これでも4ヶ月はもたないと思われた。
日本軍との戦いより飢餓との戦いに明け暮れるバターン半島の米比軍は、収穫期前の米と軍用馬を食べ尽くし、さらに野生の鹿と猿も食料とし絶滅させてしまった。
これほどの惨状に瀕していながら、マッカーサーは巧みに嘘をついて、最高の戦果を上げていると吹聴した。
マッカーサーらは「2ヶ月にわたって日本陸軍を相手に『善戦』している」と、アメリカ本国では「英雄」として派手に宣伝され、生まれた男の子に「ダグラス」と名付ける親が続出したが、実際にはアメリカ軍は各地で日本軍に完全に圧倒され、救援の来ない戦いに苦しみ、このままではマッカーサー自ら捕虜になりかねない状態であった。
ワシントンではフィリピンの対応に苦慮しており、洪水のように戦況報告や援軍要請の電文を打電してくるマッカーサーを冷ややかに見ていた。特にマッカーサーをよく知るアイゼンハワーは「色々な意味でマッカーサーはかつてないほど大きなベイビーになっている。しかし我々は彼をして戦わせるように仕向けている」と当時の日記に書き記している。
バターン半島とコレヒドール島は攻勢を強める枢軸国に対する唯一の抵抗拠点となっており、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「マッカーサー将軍指揮下の弱小なアメリカ軍が見せた驚くべき勇気と戦いぶりに称賛の言葉を送りたい」と議会で演説するなど注目されていた。ワシントンも様々な救援策を検討し、12月28日にはフィリピンに向けてルーズベルトが「私はフィリピン国民に厳粛に誓う、諸君らの自由は保持され、独立は達成され、回復されるであろう。アメリカは兵力と資材の全てを賭けて誓う」と打電し……
イギリス首相も、米国大統領も、マッカーサーの嘘に乗って、マッカーサーを称賛した。何のために? 不利な戦況を隠して、部下を鼓舞するためだ。その点では、あとで不利になった日本軍が嘘をついたのと同様だ。そういう嘘つきという点では、米軍の方が先にやっていたわけだ。それも、現場の司令官(マッカーサー)の主導で。
マッカーサーがコレヒドールに撤退した頃には、ハートのアジア艦隊は既にフィリピンを離れオランダ領東インドに撤退し、太平洋艦隊主力も真珠湾で受けた損害が大きすぎてフィリピン救出は不可能であり、ルーズベルトと軍首脳はフィリピンはもう失われたものと諦めていた。マーシャルはマッカーサーが死ぬよりも日本軍の捕虜となることを案じていたが、それはマッカーサーがアメリカ国内で英雄視され、連日マッカーサーを救出せよという声が新聞紙面上を賑わしており、捕虜になった場合、国民や兵士の士気に悪い影響が生じるとともに、アメリカ陸軍に永遠の恥辱をもたらすと懸念があったからである。
しかし現実の戦況は悪化するばかりだった。日本軍はあまりにも強力だったからだ。
ルーズベルトはマッカーサーに降伏の権限は与えていたが、陸軍省が画策していたオーストラリアへの脱出は考えていなかった。ある日の記者会見で「マッカーサー将軍にフィリピンから脱出を命じ全軍の指揮権を与える考えはないのか」との記者の質問に「いや私はそうは思わない、それは良く事情を知らない者が言うことだ」と否定的な回答をしている。これはルーズベルトの「そうすることは白人が極東では完全に面子を失うこととなる。白人兵士たるもの、戦うもので、逃げ出すことなどできない」という考えに基づくものであった。
現実が悪化するにつれて、嘘も巨大化していった。
戦局は悪化する一方で、飢餓と疫病に加えアメリカ・フィリピン軍の兵士を苦しめたのは、日本軍の絶え間ない砲撃による睡眠不足であった。もはやバターンの兵士すべてが病人となったと言っても過言ではなかったが、マッカーサーの司令部は嘘の勝利の情報をアメリカのマスコミに流し続けた。
12月10日のビガン上陸作戦時にアメリカ軍のB-17が軽巡洋艦名取を爆撃し至近弾を得たが、B-17が撃墜されたためその戦果が戦艦榛名撃沈、さらに架空の戦艦ヒラヌマを撃沈したと誤認して報告されると、マッカーサー司令部はこの情報に飛び付き大々的に宣伝した。その誤報を信じたルーズベルトによって戦死した攻撃機のパイロットコリン・ケリー大尉には殊勲十字章が授与されるなど、マッカーサー司令部は継続して「ジャップに大損害を与えた」と公表してきたが、3月8日には全世界に向けたラジオ放送で「ルソン島攻略の日本軍司令官本間雅晴は敗北のために面目を失い、ハラキリナイフでハラキリして死にかけている」と声明を出し、さらにその後「マッカーサー大将はフィリピンにおける日本軍の総司令官本間雅晴中将はハラキリしたとの報告を繰り返し受け取った。同報告によると同中将の葬儀は2月26日にマニラで執行された」と公式声明を発表した。さらに翌日には「フィリピンにおける日本軍の新しい司令官は山下奉文である」と嘘の後任まで発表する念の入れようであった。
こうして米軍発表は嘘まみれになっていたが、我が身かわいさのマッカーサーはこっそり逃げ出そうとしていた。それも、臆病根性丸出しで。
嘘の公式発表をするのと並行してマッカーサーは脱出の準備を進めていた。
潜水艦に同乗するのが一番安全な脱出法であったが、マッカーサーは生まれついての閉所恐怖症であり、脱出方法は自分で決めさせてほしいとマーシャルに申し出し許可された。
このときマッカーサーは「必ずや私は戻るだろう。(I shall return)」と言った。
この日本軍の攻撃を前にした敵前逃亡は、マッカーサーの軍歴の数少ない失態となり、後に「10万余りの将兵を捨てて逃げた卑怯者」と言われた。また、「I shall return.」は当時のアメリカ兵の間では「敵前逃亡」の意味で使われた。それまでも、安全なコレヒドールに籠って前線にも出てこないマッカーサーを揶揄し「Dugout Doug(壕に籠ったまま出てこないダグラス)」というあだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた。
マッカーサーの臆病さは、「あだ名を付けられ、歌まで作られて兵士の間で流行していた」というのだから、たいしたものだ。これほど大々的に有名化した将軍は、滅多にいないだろう。 ( famous というより、 notorious というべきだが。)
その後、マッカーサーは退避先で、どうしていたか?
オーストラリアで南西太平洋方面の連合国軍総司令官に就任したマッカーサーは、オーストラリアにはフィリピン救援どころか、オーストラリア本国すら防衛できるか疑わしい程度の戦力しかないと知り愕然とした。その時のマッカーサーの様子を、懇意にしていたジャーナリストのクラーク・リーは「死んだように顔が青ざめ、膝はガクガクし、唇はピクピク痙攣していた。長い間黙ってから、哀れな声でつぶやいた「神よあわれみたまえ」」と回想している。
その間に、バターン半島では、米軍が大敗北を喫していた。
フィリピン守備隊全軍が降伏した。
バターンで日本軍に降伏したアメリカ極東軍将兵は76,000名にもなり、『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』と言われ、多くのアメリカ人のなかに長く苦痛の記憶として残ることとなった。
敗戦はここだけではなかった。各地で圧倒的な敗北を喫していた。
連合国軍艦隊と米英蘭豪(ABDA)艦隊を編成していたハートのアジア艦隊も1942年2月27日から3月1日のスラバヤ沖海戦・バタビア沖海戦で壊滅し、マッカーサーがオーストラリアに到着するまでにオランダ領東インドも日本軍に占領されていた。マッカーサーは敗戦について様々な理由づけをしたが、アメリカと連合国がフィリピンと西太平洋で惨敗したという事実は覆るものではなかった。
これほどの敗北を喫した司令官は、大々的に批判されて当然だが、逆に、マッカーサーは「英雄だ」と賛美された。
しかし、アメリカ本国でのマッカーサーの評判は、アメリカ国民の愛国心の琴線に強く触れたこと、また、真珠湾以降のアメリカと連合国がこうむった多大の損害に向けられたアメリカ人の激怒とも結びつき、アメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将にも拘わらず、英雄として熱狂的に支持された。
その様子を見たルーズベルトは驚きながらも、マッカーサーの宣伝価値が戦争遂行に大きく役に立つと認識し利用することとし、1942年4月1日に名誉勲章を授与している。
最悪の敗北を喫しても「英雄」と賛美されるのだから、もう、何をかいわんや、である。(日本で最悪の政治をする自民党が、日本国民から熱狂的に支配されるようなものか。)

以上のように、軍師としては失敗続きのマッカーサーだったが、強力な日本軍の弱点に目を付けた。それは「兵站」である。日本軍は軍備としては強力だが、兵站が弱い。そこで、補給を断つことで、徐々に弱体化させようとした。まともに正面で戦って勝てなければ、けたぐりで倒してやれ、というような感じだ。
マッカーサーは……日本軍の守備が固いところを回避して包囲し、補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは……正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『リープフロッギング(蛙飛び)作戦』と呼んでいた。
日本軍は空・海でのたび重なる敗戦に戦力を消耗し、制空権・制海権を失っていたため、マッカーサーの戦術に対抗できず、マッカーサーの思惑通り、ニューギニアの戦いでは多くの餓死者・病死者を出すこととなった。この勝利は、フィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。
このあと、マッカーサーは並外れた活躍をした。それも、軍事ではなく政治の分野で。彼は大統領の方針に楯突いて、米国の戦略を根本的に変更させたのだ。
大統領は「対日戦争の早期終結」をめざしていた。そのために「日本の本土空襲」を実行しようとしていた。そのためには、フィリピンを迂回することになった。
これにマッカーサーは噛みついた。自分のいるフィリピンが迂回されてしまうのだ。これでは自分が目立てない。それは許しがたい。そこで、大統領の方針を撤回させるために、政治の分野で大々的に活躍した。
フィリピン迂回の流れに危機感を覚えたマッカーサーは、マスコミを利用してアメリカ国民の愛国心に訴える策を講じた。アメリカの多くの新聞が長期政権を維持し4選すら狙っている民主党のルーズベルトに批判的で、共和党びいきとなっており、共和党寄りのマッカーサーを褒め称える論調を掲げる一方で、民主党のルーズベルトに対しては、一日も早く戦争に勝利するためもっとよい手を打つべきなどと批判的な報道をし、ルーズベルト人気に水をさしていた。マッカーサーは新聞等を通じ「1942年に撃破された我々の孤立無援な部隊の仇をうつことができる」「我々には果たせねばならない崇高な国民的義務がある」などと主張し、自分がフィリピンを解放しない場合にはアメリカ本国でルーズベルトに対し「極度の反感」を引き起こすに違いないと警告した。
このようなマッカーサーの主張に対して陸軍参謀総長のマーシャルは「個人的感情とフィリピンに対する政治的考慮が、対日戦の早期終結という崇高な目的を押しつぶすことのないよう注意しなければならない」とマッカーサーに手紙を書き送っている。
マッカーサーに心酔する『バターン・ギャング』で固められた幕僚たちも不平不満を並べ立てて、国務省や統合参謀本部やときにはルーズベルト大統領までを非難した。
マッカーサーの思惑通り、アメリカ軍内でフィリピン攻略について賛同するものも増えて、太平洋方面の前線指揮官らはマッカーサーに賛同していた。
マッカーサーは何度も「道義的」や「徳義」や「恥辱」という言葉を使い、フィリピン奪還を軍事的問題としてより道義的な問題として捉えているということが鮮明となった。
マッカーサーには軍師よりもアジテーター(煽動者)としての資質があったようだ。それだけでなく、さらに、ルーズベルトの体調という問題があった。
ルーズベルトはマッカーサーが一方的に捲し立てた3時間もの弁舌に疲労困憊し、同行した医師にアスピリンを2錠処方してもらうと「私にあんなこと言う男は今までいなかった。マッカーサー以外にはな」と語っている。マッカーサーもルーズベルトの肉体的な衰えに驚いており、「彼の頭は上下に揺れ、口は幾分ひらいたままだった」と観察し、「次の任期まではもたない」と予想していたが、事実その通りとなった。
(マッカーサーは)ハワイを発とうとしたときに、ルーズベルトから呼び止められ「ダグラス、君の勝ちだ。私の方はキングとやりあわなければらないな」とフィリピン攻略を了承した。かつての卓越した雄弁家も、肉体の衰えもあって完全に舞台負けした形となった。
ルーズベルトの方針決定により統合参謀本部はマッカーサーにフィリピン攻略作戦を承認した。
こうして米軍は「対日戦争の早期終結」という方針を捨てた。そして、その結果、原爆の開発が間に合って、広島と長崎に原爆が投下されることになった。
広島と長崎に原爆が投下されたのは、マッカーサーのおかげだったのだ。(そのときは大統領がトルーマンになっていた。だからこそ原爆投下も承認された。)
一方、マッカーサーは、米軍の軍備補給を受けたあとで、フィリピンで圧勝した。日本本土を攻略する代わりに、フィリピンで圧勝することで、勝利の名声を和賀もものとすることができた。
マッカーサーは決定的な勝利を掴み、その名声や威光はさらに高まった。しかし、フィリピン奪還をルーズベルトに直訴した際に、大きな損害を懸念したルーズベルトに対しマッカーサーは「大統領閣下、私の出す損害はこれまで以上に大きなものとはなりません……よい指揮官は大きな損失を出しません」と豪語していたが、アメリカ軍の第二次世界大戦の戦いの中では最大級の人的損害となる、戦闘での死傷79,104名、戦病や戦闘外での負傷93,422名という大きな損失を被った。
味方は手ひどい被害を受けたが、マッカーサーは勝利の栄光を得た。将兵の莫大な死の上に、マッカーサー一人が栄光を勝ち得た。
しかも、犠牲は米兵だけではなかった。米軍に協力したフィリピン・ゲリラの被害もまた甚大な規模だった。しかしその犠牲はすべて無視された。
「フィリピン戦において我々はほとんどあらゆるフィリピンの市町村で強力な歴戦の兵力の支援を受けており……」などとアメリカ軍と共に戦い、その功績を大きく評価していたフィリピン・ゲリラや、ゲリラを支援していたフィリピン国民の損失は甚大であった。しかし、……回顧録で自賛するマッカーサーには、フィリピン人民の被った損失は頭になかった。
部下の被害はまったく念頭になく、ただ一人、自分だけが栄光を受けようとするのが、マッカーサーだった。
一方で、自分の損失は無視するくせに、ライバルの損失については大々的に取り上げて非難した。
もう一人の太平洋戦域における軍司令となった太平洋方面軍司令官ニミッツが硫黄島の戦いの激戦を制し……
マッカーサーとそのシンパはこの決定に納得しておらず、硫黄島の戦いでニミッツが大損害を被ったことをアメリカ陸軍のロビイストが必要以上に煽り、マッカーサーの権限拡大への世論誘導に利用しようとした。マッカーサーがフィリピンで失った兵員数は、硫黄島での損害を遥かに上回っていたのにも関わらず、あたかもマッカーサーが有能な様に喧伝されて、ニミッツの指揮能力に対しての批判が激化していた。
これに協力したのが、アメリカの右翼系の新聞社だった。『市民ケーン』のモデルとしても有名な新聞王であるハーストが、自社の新聞で大々的にマッカーサーを擁護した。
マッカーサーの熱狂的な信奉者でもあるウィリアム・ランドルフ・ハーストは、自分が経営するハースト・コーポレーション社系列のサンフランシスコ・エグザミナー紙で「マッカーサー将軍の作戦では、このような事はなかった」などと事実と反する記事を載せ、その記事で「マッカーサー将軍は、アメリカ最高の戦略家で最も成功した戦略家である」「太平洋戦争でマッカーサー将軍のような戦略家を持ったことは、アメリカにとって幸運であった」「しかしなぜ、マッカーサー将軍をもっと重用しないのか。そして、なぜアメリカ軍は尊い命を必要以上に失うことなく、多くの戦いに勝つことができる軍事的天才を、最高度に利用しないのか」と褒めちぎった。
このあともマッカーサーはさらに嘘をつき続けた。それは九州攻略作戦である。その作戦は、のちに莫大な被害が出ると判明するようなものだった。そのような危険な作戦であるにもかかわらず、マッカーサーは当初、被害を過小評価しようとした。ここでも嘘つきの能力が発揮された。
急逝したルーズベルトに代わって大統領に昇格したハリー・S・トルーマンは、沖縄戦におけるアメリカ軍のあまりの人的損失に危機感を抱いて、「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と考えるようになっており、マッカーサーらはトルーマンの懸念を緩和するべく、アメリカ軍の損失予測を過小に報告することとした。
だが、彼が嘘をついたにもかかわらず、米軍は嘘にだまされなかった。改めて作戦を精査したのである。
作戦の準備が進んでいくと、九州に配置されている日本軍の兵力が、アメリカ軍の当初の分析よりも強大であったことが判明し、損害推定の基となった情報の倍近くの50万名の兵力は配置され、さらに増強も進んでおり、11月までには連合軍に匹敵する68万名に達するものと分析された。
こうして真実が判明したことで、マッカーサーの嘘は水泡に帰した。かくて九州攻略作戦は実行されなかった。そして、その間に、原爆が完成して、広島と長崎に投下されたのである。
その後、マッカーサーは凱旋将軍として、日本に君臨した。軍師としての能力よりも、嘘つきとしての能力によって。
彼はひどい人種差別主義者で、日本人を馬鹿にして、日本に原爆を二つも落とす結果を導き出して、悪魔のごとき所業をしておきながら、なぜか、日本人からは神のごとく崇拝されたのだ。……とすれば、史上最大のペテン師と言ってもいいだろう。

【 関連項目 】
→ ゴルバチョフとバタフライ効果: Open ブログ
プーチンは「偉大なる大統領」というよりは、「偉大なる大統領と見せかけたペテン師」だとも言える。
