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朝日の記事を引用しよう。
ウィーンで開かれていた核兵器禁止条約の第1回締約国会議は最終日の23日、核廃絶への決意を示す政治宣言と、批准国の方針を記した「ウィーン行動計画」を採択し、閉幕した。宣言では核保有国の「核の傘」の下にある国も「真剣な対応を取っていない」と批判。
政治宣言は「核兵器の完全な廃絶を実現するという決意を再確認する」とうたい、核禁条約を「基礎となる一歩」と表現した。核兵器の人道的影響については「壊滅的で対処することができない」とした上で、核兵器を「生命に対する権利の尊重とは相いれない」と断じた。
核抑止論は「地球規模の破滅的な結果をもたらすリスクを前提としたもの」として、「誤りだ」と批判。核保有国や「核の傘」にある同盟国について「真剣な対応を取っていないどころか、核兵器をより重視している」と訴えた。
一方、ロシアを名指ししての「核の脅し」に関する文言は入らなかった。
( → 「核抑止論は誤り」政治宣言とウィーン行動計画を採択 締約国会議 [ウクライナ情勢] [核といのちを考える]:朝日新聞 )
「核兵器廃止」という理想を目指すのはいい。問題は、その理想が達成されない場合にはどうなるか、だ。
議長を務めたクメント氏は、記者会見でこう述べた。
現実的に、どのように核保有国を条約に関与させていくのか。その問いに対しては「時間をかけ、議論の強さを通じてだ。批准国が一つ増えるごとにそれは明確に示される」と答えた。
( → 議長を務めたクメント氏 )
「批准国が一つ増えるごと理想の実現に近づく」という発想だ。これは「連続的」な発想だと言える。素朴な発想をすれば、そうなるだろう。
だが、私はそうは思わない。この件は、連続的ではなく不連続的な現象だ。特に、最後の1カ国だけが残った状態が問題だ。
世界の各国が次々と核兵器を放棄して、最後に1カ国だけが核兵器を保有していたとする。このとき、最後の1カ国は「では、わが国も核兵器を放棄します」と言うか?
「もちろん、そうする」と人々は思うのだろう。しかし、私はそうは思わない。次のようになる可能性が高いからだ。
「その国は、独裁国家である。独裁国家の独裁者は、唯一の核兵器保有国家となって、世界を征服する能力を得た。ならば、その独裁者は、世界を征服するだろう。世界のすべてを自国(というより自分)の支配下に置いて、自分は世界征服をなし遂げた史上初の独裁者となることを宣言するだろう。そのとき、世界のすべては、それに従うしかない。なぜなら、独裁者に逆らえば、その国は核兵器を浴びて、滅亡するしかないからだ」
こうなる可能性が最も高いのだ。
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今回の会議の参加者は、たぶん次のように考えているのだろう。
「世界の各国は平和を愛好する。どの国も平和を望むのだから、すべての国が核兵器廃止に同意すれば、世界は核兵器廃止を実現できる」
しかしこれはあまりにも純朴な青二才の空論というしかない。なぜなら、現実はこうであるからだ。
「世界には平和よりも、戦争と侵略を愛好する国がある。特に、ロシアと中国がそうだ。だからこそ、この二国は、やたらと侵略する。ロシアは、ウクライナを侵略した。中国は、ウイグルや南沙諸島を侵略した。(香港や台湾も似た状況だ。)」
このような国は、平和よりも侵略を優先する。では、そういう国が核兵器を独占したら、どうなるか? もちろん、「気違いに刃物」となる。「金正恩に核ミサイル」と言ってもいい。つまり、その核兵器という凶暴なオモチャを使って、世界を征服したがるだろう。それが、きたるべき未来となる。
要するに、「核廃絶」という目標を目指すときには、「最後に1国だけ(または中国とロシアの2国だけ)になった状況」が、最も危険なのだ。この状況において、「最後の1国も核兵器を捨ててくれるだろう」と期待して、自ら武装解除をするのは、自殺行為となる。
ちなみに、大坂冬の陣で「外堀を埋める」という形で武装解除した豊臣軍は、大坂夏の陣では(身を守る外堀をなくしたので)あっさり敗北して、滅亡した。
ロシアと中国は決して核武装を解除することはない。なのに、両国が核武装を解除することを期待して、米国や英仏が核武装を解除すれば、米国や英仏は滅亡するしかない。豊臣軍が滅亡したように。
こんなことも理解できずに、「少しでも理想に近づくために核廃絶をしよう。まずは自分たちが核武装を解除しよう」などと言っている人々は、自分たちが滅亡に向かおうとしていることに気づいていないのだ。
これは、比喩的に言えば、「白旗を掲げて降伏する」というのに似ている。そうしたら、どうなるか? 捕虜として命だけは助けてもらえるか? 違う。全員が皆殺しにされるのだ。
たとえば、ロシアは「捕虜をみんな死刑にする」と言ったことがある。(マリウポリで抵抗した兵士たちについて。)また、米国人の傭兵を捕虜にしたあとで、「捕虜を死刑にする」と言ったこともある。
映画の「ポンペイ」の冒頭では、「降伏した捕虜(ケルト人)をつかまえて皆殺しにする」という残虐な場面が描写されていた。
「それはフィクションだろ」と思う人もいそうだが、ロシア兵はウクライナで市民を残虐に殺していた、という報道は何度も出ていた。(市民を地面にひざまずかせてから、後頭部を射撃する、というふうな。ロシア語をしゃべる市民は助けるが、ウクライナ語をしゃべる市民は即時射殺する、というふうな。)
この世には悪魔のような人々があふれている。そのような現実のなかで、「一方的な核武装の解除」を唱えるのは、狂気の沙汰であるというしかない。ただの自殺に至る道だ。
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「核抑止論」とは何か? 「相手が核兵器を持つなら、こちらも核兵器を持つ。そのことで平和を維持する」ということだ。
そして、それが誤りであるなら、「相手が核兵器を持つとしても、こちらは核兵器を持たない」というのが正しい、ということになる。しかしその道は、上記のように、自殺に至る道だ。
「核抑止論は誤りだ」と言えるのは、「全員がそろっていっせいに核廃棄をする」ということが可能である場合に限る。
ところが現実には、ロシアと中国は「絶対に核放棄をしない」と主張している。この状況で、「核抑止論は誤りだ」と言うなら、西側の「一方的な核武装の解除」を意味することになる。それはとんでもない話だ。
ロシアと中国は「絶対に核放棄をしない」。そういう前提の上に立つなら、「対抗して西側も核兵器を持つ」という方針(核抑止論)を取るしかない。それを批判することは、ロシアと中国を利するだけだ。
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ついでに、補足的に述べよう。
先に、次の言葉を引用した。
現実的に、どのように核保有国を条約に関与させていくのか。その問いに対しては「時間をかけ、議論の強さを通じてだ。批准国が一つ増えるごとにそれは明確に示される」と答えた。
これについては、次の報道もある。
ウクライナ侵攻に伴って「核の脅し」を続けるロシアを名指しで批判するかどうかは、政治宣言の事前の調整段階で意見が割れたという。3人の外交官によると、オーストリアやアイルランドはロシアを名指しして入れるべきだと訴えたが、キューバやベネズエラ、南アフリカなどが反発。間接的に触れるような言葉も検討されたが、最終的には削られた。
ある外交官は「この会議は分断のためではなく、団結のために開かれた。ロシアの核の脅しが主題ではなく、名指しする必要性はない」と語った。別の外交官は「ロシアに言及するなら、中東の国はイスラエル、中南米の国は米国はどうなんだ、となる。それでは声を一つにできない」と主張した。
( → 「核抑止論は誤り」政治宣言とウィーン行動計画を採択 締約国会議 [ウクライナ情勢] [核といのちを考える]:朝日新聞 )
いかにももっともらしいが、これは、「やるべきことをやらない自己弁護」であるにすぎない。ロシアの核の脅しについては、確かに名指しをする必要性はないが、「核の脅し」をすること自体については、(名指しなしで)明白に批判するべきだった。
これなしで、「核抑止論」ばかりを批判するのでは、単に西側の手を縛るだけのことだ。
だから、会議では、今回の結論とは逆のことをやればよかった。
・ 「核の脅し」をすることを批判する。
・ 「核抑止論」を現実的な方針として容認する。
この二点を私の結論としたい。
[ 付記 ]
上記の二点に対して、
「そんなことでは核廃絶も核禁止もできないぞ。世界は核の恐怖にさらされるぞ。現状から少しも改善できないではないか!」
という批判が生じるだろう。
だが、大丈夫。そこは、困ったときの Openブログ。問題を現実的に解決する、うまい案を出そう。その話は、次項で。
無化ですが 人間になんの価値もないならね
冷戦時の中共理論層は冷静に核戦略を分析していました がおそらく完璧に防汚し限定された遺伝子保持者の生存できるものが空間的、時間的に現在複数存在してるでしょう 放射線の恐怖が回避されれは物理的な破壊だけの兵器ですから 階段を上がったのか下がったのか ボトルネックが前提ですね