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原発事故で最高裁判決があった。「国の責任はない」という判決。記事はこちら。
→ 原発事故、国の責任認めず 最高裁、避難者訴訟で初判断 対策命じても「防げず」:朝日新聞
→ (時時刻刻)津波「想定外」、国は免責 「事故以前の常識」重視 原発訴訟、最高裁判決:朝日新聞
→ 原発国賠訴訟の判決(要旨):朝日新聞
判決の影響
判決の趣旨は、「これほどの被害は予測できなかったから、事故は仕方ない。だから国には責任がない」というもの。なるほど。常に国を擁護する最高裁としては、そういう判決になるのだろう。だが、その趣旨であれば、次の結論が出る。
「このあとの原発再稼働についても、同様のことが成立する。もし事故が起こったら、『予測できませんでした。間違えちゃった。ごめんね。てへ』で笑って済ませる」
つまり、今後、「原発の再稼働は安全です」と国がいくら言っても、その言葉には何の重みもない、ということだ。必然的に、「今後、原発は一切の再稼働を認めるべきではない」という結論になる。なぜなら、国がいくら「再稼働しても安全です」と言っても、その言葉には何の重みもないからだ。その言葉が間違いだったとしても、何ら責任を取らないことになる。そんないい加減な言葉など、信じられるはずがないし、認められるはずもない。
逆に言えば、国が「きちんと対策したので、今後の原発は安全です」という言葉を信じてもらいたければ、今回、「予測できなかったなら、予測できなかったこと自体に責任があります。ゆえに責任を負って、賠償金を払います」と告げるべきだった。
そして、そうしなかった以上は、今後、原発の再稼働は一切認められない、というふうになる。
私としては、「原発は再稼働するべきだ」と思う。しかしそれは、「今後の安全性が担保されていること」が前提だ。そのためには、「言葉には責任をもつ」ことが必要だ。したがって、「予測できなかった」という失敗をした過去については、賠償責任を負うべきだ。……なのに、責任を負おうとしない。それはつまり、「国が自分自身の言葉に責任をもたない」ということであるから、「今後の安全性が担保されていない」ことになる。私が原発再開をいくら支持しようとも、国自身がその前提を破壊してしまったことになる。亡国の決定だとも言える。
それが今回の最高裁判決の意義だ。そして、その馬鹿げた判決を導き出したのは、政府自身なのである。政府は、自己弁明・自己擁護をしたあげく、過去の自分を守ることには成功したのだが、未来の自分の道を閉ざしてしまった。目先の利益(賠償金の支払いの免除)をめざしたあげく、長期的な利益(原発再稼働)の道をふさいでしまった。愚かというしかない。
※ こういう馬鹿げた判断をしたのは、前項で述べた日本の愚かさ(環境問題)と共通する。前項を参照。
→ グリーン・ニューディール: Open ブログ
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《 加筆 》
もう少しわかりやすく説明しよう。
政府は現在、原発を再稼働しようとしている。そのとき、「原発の安全性はきちんと担保されているので、安全です」と説明する。だが、今回の最高裁の判決(および政府の主張)によれば、こうなる。
「その時点で予見できた危険性であっても、その予見が有力でなければ、無視して差し支えない。地震による細管破断の危険性は十分に予見されているが、そんな予見は無視していい。地震対策はろくにやらないでいい。無為無策でいい。そのせいで、予見の通りに、現実に原発の大災害が起こっても、政府は何ら責任を取らない。安全だという言葉が覆っても、その言葉には何ら責任を取らない」
つまり、政府が現在、「原発の再稼働は安全です」と言っても、その言葉はすべて嘘だらけでいい、ということだ。それが今回の最高裁の判決だ。
当然ながら、この最高裁の判決を受けたなら、原発の再稼働の予定地では、住民は反対するしかないだろう。今回の判決は、そういう意義を持つ。
最高裁の不見識
以上で述べたのは「判決の影響」だった。判決のせいで今後の日本はどうなるか、という話だった。
一方、判決内容自体はどうか? これが肝心の話だ。後回しになったが、これについて述べよう。
この件については、朝日の社説がよい要約を示しているので、抜粋しよう。(いつもの倍もある長文の社説だ。)
東京電力福島第一原発事故の避難者が起こした集団訴訟で、最高裁はきのう、国の賠償責任を否定する判決を言い渡した。
事故の9年前、国の機関である地震調査研究推進本部は、福島沖の日本海溝寄りで津波地震が起きる可能性を指摘した。だが実際に襲来した津波はそれを大きく上回るもので、国があらかじめ東電に対策を命じていたとしても事故は防げなかった。判決はそう結論づけた。
本当にそうだろうか。
防潮堤の建設とあわせ、タービン建屋などの重要施設の水密化措置をとるなどしていれば、事故原因となった全電源喪失の事態は防げた蓋然性が高いと、複数の高裁は判断していた。
最高裁は、防潮堤以外の対策について掘り下げた議論はされておらず実績もないと述べた。だが、国内外の施設で一定の水密化工事をしているところはあったし、議論がなかったとすればその当否を審査するのが裁判所の役目ではないか。
最新の知見に基づき、あらゆる事態を想定して安全第一で防護措置をとるのが、原子力事業者や規制当局の責務のはずだ。今回の判決の理屈に従えば、関係者がそろって旧来の発想と対策に安住していれば、コストを抑えられるうえ法的責任も免れることができるという、倒錯した考えを招きかねない。
これに対し検察官出身の三浦守裁判官は、水密化措置は十分可能だったと述べ、実効ある対策をとらない東電を容認した国の責任を厳しく指摘した。
津波予測をもとに国と東電が法令に従って真摯(しんし)な検討を行っていれば、事故は回避できた可能性が高いとし、「想定外」という言葉で免責することは許されないとの立場をとった。この反対意見にこそ理はある。
( → (社説)原発事故で国を免責 「想定外」に逃げ込む理不尽:朝日新聞 )
「重要施設の水密化措置をとるなどしていれば、全電源喪失の事態は防げた蓋然性が高いと、複数の高裁は判断していた」とある。
高裁の判断は正しい。このことが、この訴訟の核心だ。私もそう思っていたので、私が独自に指摘しようかとも思ったのだが、私が指摘するまでもなく、高裁がちゃんと指摘していた。つまり、高裁段階では、核心を正しく見抜いていたことになる。日本の司法システムは無能だったわけではない。高裁段階ではきちんと核心を見抜いていたのだ。
ところが最高裁は、それをひっくり返した。真実はきちんと明示されていたのに、その真実にあえて蓋をした。では、どうして? そのわけを探ろう。
判決要旨は、朝日の別記事にある。そこから該当箇所を抜粋しよう。(これは最高裁に著作権があるので、心置きなく長文を引用できる。)
国の機関である地震調査研究推進本部は02年7月、三陸沖から房総沖にかけての地震予測である「長期評価」を公表した。この長期評価を前提に、経済産業相が電気事業法に基づく規制権限を行使していた場合は、長期評価に基づいて想定される最大の津波が到来しても敷地への海水の浸入を防げるような防潮堤などが設置された蓋然(がいぜん)性が高いといえる。
東電は08年、この長期評価に基づいて起こる可能性がある津波を試算した。その結果、津波は敷地の南東では最大で海抜約15・7メートルになるが、敷地の東側では敷地の高さである海抜10メートルを超えないなどとした。この試算は、安全性に十分配慮して余裕を持たせ、当時考えられる最悪の事態に対応したものとして、合理性を有するものだった。
そうすると、国が規制権限を行使していた場合には、試算と同じ規模の津波による敷地への浸水を防げる程度の防潮堤などが設置された蓋然性が高いといえる。
他方で、この事故の以前は、津波による浸水対策として、防潮堤などを設置するだけでは不十分だとの考え方が有力だったとはうかがえない。国が規制権限を行使したとしても、防潮堤などの設置に加えて、他の対策が講じられなければならなかったということはできない。
ところが、長期評価が想定した地震の規模はマグニチュード(M)8.2前後だったのに対し、11年に起きた実際の地震はM9.1であり、想定よりはるかに規模が大きかった。また、原発敷地内の主要な建屋が浸水する深さは約2.6メートルかそれ以下だと予想されていたが、実際の地震では最大で約5.5メートルに及んだ。
そして、試算による予想では、敷地の南東側では津波が敷地の高さを超えるものの、東側では敷地の高さを超えることはないと想定されていた。しかし現実には、南東側だけでなく東側からも、大量の海水が敷地に浸入している。
これらの事情に照らすと、長期評価に基づく津波を防ぐために設計される防潮堤などは、敷地の南東側からの海水の浸入を防ぐことに主眼を置いたものになる可能性が高い。一定の余裕をもたせるだろうことを考慮しても、11年の津波で大量の海水が敷地に浸入することを防げなかった可能性が高いと言わざるを得ない。
以上によれば、仮に、長期評価を前提にして国が規制権限を行使していたとしても、津波によって大量の海水が敷地に浸入し、非常用電源が浸水で機能を失うなどの事態に陥っていた可能性が相当にあると言わざるを得ない。規制権限を行使していれば、同様の事故が発生していなかったであろうという関係を認めることはできない。
千葉地裁や松山地裁での訴訟の控訴審では、原子力安全・保安院やその他の規制機関が、防潮堤などによって敷地の浸水を防ぐことは容易ではないと判断する蓋然性があり、主要な建屋を水密化するなどの措置を想定できたと判断した。このことを前提に国が規制権限を行使すれば、同様の事故は起きなかったと結論づけた。
しかし当時の知見では、防潮堤などを設置する措置は、津波による原子炉施設の事故を防ぐための措置として合理的で確実なものだった。事故以前に、日本での原子炉施設の主要な津波対策として、津波での敷地の浸水を前提にした防護措置が採用された実績があったとはうかがわれない。
( → 原発国賠訴訟の判決(要旨):朝日新聞 )
これが最高裁の判決だ。まったくもって滅茶苦茶であり、ひどい話だ。
(1) 02年の「長期評価」
地震調査研究推進本部が 02年に「長期評価」を出した。これに基づいて、「この長期評価を知っても、予測はできなかった。だから予測できなかったのは仕方ない」というのが、最高裁の判断だ。
頭がおかしいのではないか? 02年と 11年では、9年間の期間がある。その期間の考察や議論をまるきり無視している。
仮に地震が 04年にあったのなら、「02年の判断に基づく」というのも仕方ない。しかし、地震が起こったのは 2011年だ。その間の9年間の知見を無視するという最高裁の判断は、滅茶苦茶というしかない。
(2) 安倍首相の判断
特にひどいのは、安倍首相(当時・第1次政権)の方針だ。2006年の国会答弁で「無為無策」を表明している。ここでは、共産党の吉井英勝議員(京都大学工学部原子核工学科卒)が、専門知識を駆使した質問をしている。「電源喪失に備えた対策はできているのか?」と。恐るべき予見力である。
すると安倍首相は何と答えたか? こうだ。(一部抜粋)
「海外とは原発の構造が違う。日本の原発で同様の事態が発生するとは考えられない」
「そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない」
「そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない」
「そうならないよう万全の態勢を整えているので復旧シナリオは考えていない」
( → 安倍首相が原発の事故対策を拒否: Open ブログ )
つまり、「そうならないようにしているから、何もしない」という回答だ。呆れるしかない。
※ 詳しくは引用元を参照。
2006年の段階で、批判者の側には、ここまで精密な予見があった。なのに安倍首相は政府として「危険性を無視する」という判断をした。あまりにもひどい大失敗だ。
なのに最高裁は、その大失敗を考慮しない。ずっと前の 2002年の「長期報告」を持ち出して、「 2002年の知見によれば仕方なかった」と判断する。頭が滅茶苦茶だというしかない。
( ※ わざわざ古いものばかりにこだわって、新しいものを見失う。それは故意である。つまり、政府を擁護するために、政府に不利な証拠をすべて棄却したわけだ。)
(3) 水密化措置
高裁では「重要施設の水密化措置」をとるべきだった、と指摘している。私も同感だ。
ところが最高裁は、その判断を否定している。なぜか?
該当箇所を再掲しよう。
他方で、この事故の以前は、津波による浸水対策として、防潮堤などを設置するだけでは不十分だとの考え方が有力だったとはうかがえない。国が規制権限を行使したとしても、防潮堤などの設置に加えて、他の対策が講じられなければならなかったということはできない。
千葉地裁や松山地裁での訴訟の控訴審では、原子力安全・保安院やその他の規制機関が、防潮堤などによって敷地の浸水を防ぐことは容易ではないと判断する蓋然性があり、主要な建屋を水密化するなどの措置を想定できたと判断した。このことを前提に国が規制権限を行使すれば、同様の事故は起きなかったと結論づけた。
しかし当時の知見では、防潮堤などを設置する措置は、津波による原子炉施設の事故を防ぐための措置として合理的で確実なものだった。事故以前に、日本での原子炉施設の主要な津波対策として、津波での敷地の浸水を前提にした防護措置が採用された実績があったとはうかがわれない。
こうした防護措置のあり方について定めた法令はもちろん、その指針となるような知見も存在せず、海外でこうした防護措置が一般的に採用されていたこともうかがわれない。
水密化処理をするという方法はあった。なのにそれを採用しなかった。その理由は、こうだ。
・ その考え方が有力だったとは言えない。
・ 津波での敷地の浸水を前提にした防護措置が採用された実績はなかった。
・ 海外でこうした防護措置が一般的に採用されていなかった。
これが最高裁の判断だ。呆れるしかない。
・ その考え方はあったが、有力でなかったのは、政府が否定したからだ。(上記)
・ 海外では防護措置の採用実績がないのは、海外の原発には津波が来ないからだ。
原発に津波の危険性があるのは、日本だけだ。海外では、そもそも津波が来ないし、仮に津波が来そうなら、そこには原発をつくらない。津波が来るとわかっていて、わざわざ危険な場所に原発を作るのは、日本だけだ。
なのに、「海外の原発では津波対策をしていないから、日本でも原発には津波対策をしないでいい」と結論する。頭がおかしいとしか言いようがない。滅茶苦茶の極みだ。これでは「政府の責任を回避するために、あえてデタラメな論理を採用する」という形で、論理を歪めているとしか言えない。
「その考え方が有力でなかったから」というのも同様だ。これでは「自分がサボったから、サボったことは正当だ」と言っているに等しい。比喩的に言えば、「政府が泥棒をしたが、政府は正しい。なぜなら政府が過去にも泥棒をしていたからだ」というのと同様の理屈だ。これでは法治主義が成立しない。司法(最高裁)が自ら、法治主義を否定していることになる。狂気の沙汰だ。
(4) 可能性
水密化措置をとっていれば、炉心溶融という問題は回避できたはずだ。なのに、最高裁判決はその判断を歪める。
仮に、長期評価を前提にして国が規制権限を行使していたとしても、津波によって大量の海水が敷地に浸入し、非常用電源が浸水で機能を失うなどの事態に陥っていた可能性が相当にあると言わざるを得ない。規制権限を行使していれば、同様の事故が発生していなかったであろうという関係を認めることはできない。
なるほど、「長期評価を前提にして国が規制権限を行使していたとしても、津波によって大量の海水が敷地に浸入」するという可能性はある。だが、水密化措置を取っていれば、その後に「炉心溶融」という事態には至らないで済んだはずなのだ。
もちろん、そうではない可能性もある。だが、「うまく行かなかった可能性があるから、やるべきことをやらないでいい」という理屈にはならない。
仮に、こんな理屈が成立するとしたら、政府のやるべき対策は、一切が不要だ、ということになる。
・ 地震対策はしなくてもいい
・ 台風対策もしなくていい
・ 洪水対策もしなくていい
・ コロナ対策もしないでいい
・ 経済対策もしないでいい
・ 戦争回避策もしなくていい
・ あらゆる危機回避策は何もしないでいい
というふうになる。すべてが「無為無策でいい」ということになる。なぜなら、「その対策はうまく行かない可能性があるから」だ。うまく行かない可能性がある対策は、何もしなくていいのだ。何もしないでいる無為無策こそが、政府の取るべき政策なのだ。
これが最高裁の判決である。つまり、「政府の責任を免除しよう」として、詭弁を弄した結果、その論理によって、「政府のなすべき責任はすべて免除される」という滅茶苦茶な結論に至ったのだ。
今回の最高裁判決は、それほどにもデタラメの極みとなっている。
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ただし、全員が駄目だったわけではない。少数派には、まともな意見もあった。社説にはこうある。
これに対し検察官出身の三浦守裁判官は、水密化措置は十分可能だったと述べ、実効ある対策をとらない東電を容認した国の責任を厳しく指摘した。
津波予測をもとに国と東電が法令に従って真摯な検討を行っていれば、事故は回避できた可能性が高いとし、「想定外」という言葉で免責することは許されないとの立場をとった。この反対意見にこそ理はある。
まったくその通りだ。少なくとも一人は、まともな意見を述べていた。一方で、他の裁判官は愚劣の極みだった。日本の最高裁は脳死状態にある、と言える。そのことを理解しておくべきだろう。
[ 付記 ]
衆院選では、最高裁の国民審査がある。このとき、駄目な裁判官を排除するよう、×印を付けるべきだろう。
なお、今回は参院選なので、最高裁の国民審査はない。
ちなみに前回 2021年の衆院選における国民審査については、前に論じたことがある。
→ 投票に行くメリット: Open ブログ
ここでは、「三浦裁判官と宇賀裁判官だけがまともで、他は駄目だ」というふうに述べている。ここでも三浦裁判官はまともだとわかる。
これですね。
→ ◆ 原発の再稼働の是非: 2017年09月14日
http://openblog.seesaa.net/article/453473769.html
自分で書いたのに、すっかり忘れていました。ご連絡ありがとうございます。
話がずれて申し訳ありませんが、私がいつも思うのは、たとえハード面の予防措置ができていなくても、あらゆる局面を想定した事故マニュアルがあってしかるべきだったと思います。予算ほとんどゼロでできたはずです。またそのマニュアルに基づいた訓練をしておくべきでした。この点はマスコミなどでもっと追及すべきです。現在再起動されている原発ではどうなっているのでしょうか。
「原発事故は起こらないので(あるいは起こったらお手上げなので)、予防措置を考える必要は無い」の考えが今回の最高裁の判断の底にあるように思います。なんとなく日本人の一番の弱点である無常観に通じています。