ダーウィン説では言及しなかったこと(不明だったこと)について、カイ進化論では独自の説明をする。
――
独自の結論
前項では、ダーウィン説とカイ進化論を対比させた。「進化とは何か?」をそれぞれに説明させることで、「ダーウィン説は現実の化石的事実に合致しないが、カイ進化論は現実の化石的事実に合致する」というふうに示した。すると、ダーウィン説では残っていた謎が解消された。
さて。本項では話を発展させる。ダーウィン説では言及されなかったことについて、カイ進化論では独自の説明をする。このことで、よくわからなかった進化の謎に、解明を与える。
具体的には、次のような謎だ。
・ カンブリア爆発が起こったのはなぜか?
・ 哺乳類に「進化の爆発」が起こったのはなぜか?
・ マンチェスターの蛾の工業暗化は、進化なのか?
・ 犬には品種差が生じても進化しないのはなぜか?
・ 進化に不可逆性があるのはなぜか?
・ 異種間交雑が起こりにくいのはなぜか?
これらの謎に、以下では解明を与える。
(1) 環境との関係
以下の各論を述べる前に、まずは原則論を述べよう。テーマは「環境は進化にどう影響するか?」だ。
ダーウィン説では、環境は進化に大きく影響する。「自然選択」は、「環境において最適なものが増える」(適者生存)ということだから、それぞれの環境において最も適した種が、選択されて残ったことになる。つまり、種を決定するものは環境である。異なる環境があるから、異なる種があることになる。
カイ進化論では、環境はあくまで副次的だ。たまたま何らかの突然変異が起こって、それまでの旧種とは異なる新種が誕生する。その新種は勝手にあちこちに出向くが、そのとき、環境に適するところに落ち着くかどうかは、必ずしもはっきりとしない。たとえば、同じように「アフリカのサバンナ」という環境があるのだが、そこには最適な1種だけが存在するのではなく、多種多様な動物が共存する。草食動物もあれば、肉食動物もある。同一の環境にさまざまな種が存在するのは、それぞれの種が環境に適する形に最適化したからではない。それぞれの種ではそれぞれの別個の突然変異が起こったからだ。それだけのことだ。
――
新たな種への進化にしても、同様だ。
ダーウィン説は、「新たな環境への進出が、新たな種を誕生させる」と考える。たとえば、こうだ。
・ 猿が森から草原に進出すると、直立二足歩行して、猿が人類になる。
・ 魚が水中から陸上に出ると、鰭が足に転じて、魚が両生類になる。
・ 恐竜が空中に向かってジャンプすると、前肢が翼に転じて、恐竜が鳥になる。
これらの例にカイ進化論を与えはめると、どうなるか? 新たな環境に進出しても、進化は起こらず、むしろひどい目に遭うだけだ。つまり、こうなる。
・ 猿が森から草原に進出すると、猿は四つ足で駆け回る。
・ 魚が水中から陸上に出ると、魚は(動けずに)ひからびる。
・ 恐竜が空中に向かってジャンプすると、恐竜は地面にたたきつけられる。
ついでだが、あなたがいくら空中に向かってジャンプしても、あなたの腕は翼にならない。あなたがいくら水中で泳いでも、あなたの腕は鰭にならない。それがカイ進化論の結論だ。(だから新しい環境には出ずに、従来の環境にとどまっているのが賢明だ。)
(2) カンブリア爆発
カンブリア爆発については、前々項で軽く言及した。
地球上の生物は、初期の生物誕生のあとで、長らく、無性生殖の生物があるだけだった。 35億年ほどの間、無性生殖が続いたのだが、進化の量は小さかった。
しかし約5.5億年前に、有性生殖の生物が出現した。とたんに、進化は急激に広範に起こった。生物の種類は多種多様になり、生物の進化の度合いは急激に高まった。ほとんど爆発的に。……これがカンブリア爆発である。
ではなぜ、カンブリア爆発は起こったのか? それは、有性生殖の生物が誕生したことによって、「交配」が起こったからだ。そして、「交配」の効果で、カイ進化論の原理が成立するようになったからだ。
( → カイ進化論 .1: Open ブログ )
カンブリア爆発が起こった理由については、ダーウィン説は何も言えなかった。しかしカイ進化論では、はっきりと理由を言える。「この時期に性が出現したからだ(有性生物が誕生したからだ)」と。
いったん性が出現すれば、あとは突然変異と交配によって、進化は急激に起こるのだ。それがカイ進化論による説明である。こうしてカンブリア爆発については、カイ進化論で解明が与えられた。
※ 同趣旨のことは、前に別項でも述べた。
→ 有性生殖と多細胞生物: Open ブログ
→ 有性生物と無性生物: Open ブログ
※ カンブリア爆発では、環境は特に影響しなかった。というのは、それは全地球的な現象だったからである。特定の環境が影響するような話ではなかった。
(3) 哺乳類の適応放散
恐竜が絶滅したあとのことを考えよう。恐竜が絶滅したあとでは、哺乳類は一挙に広範な大進化をなし遂げた。それまでは、ネズミのような大きさの小さな哺乳類が、恐竜の陰でこそこそと行動していただけだったのだが、恐竜が絶滅すると、哺乳類は一挙に大幅な進化をなし遂げた。体のサイズは、ネズミのサイズからどんどん大きくなっていった。まずはウサギぐらいのサイズになり、やがてはキツネぐらいのサイズになり、さらには犬ぐらいのサイズになり、その後は、ライオンやトラのように大きなサイズの種が生じた。さらには、カバ・水牛・キリン・ゾウのような巨体をもつ種も生じた。のみならず、シロナガスクジラのように超巨大な体をもつ種も生じた。……これらの広範で大幅な進化は、ほんの 6000万年ほどのことだった。特に、初期の 2000万年だけでも、すでに広範で大幅な大進化をなし遂げた。このような巨大な進化は、「哺乳類の適応放散」と呼ばれる。
では、どうしてこのようなことが起こったのか?
ダーウィン説では、哺乳類の適応放散が起こったのは、(恐竜のいなくなった空白領域へ)哺乳類が進出したからだ。新しい環境への進出が、新しい種をもたらしたのである。
カイ進化論では、「新しい環境」なんてものはない。恐竜がいるかどうかという違いはあるが、その点を除けば、その場所は昔と変わらない同じ環境である。たとえば、アフリカのサバンナとか、アジアや南北アメリカの森林地帯とか。……いずれにせよ、環境は同じだ。
大事なのは、環境の違いではなく、「恐竜がいるかどうか」という点だ。恐竜がいれば、強い淘汰圧が働く。だからその状況で、種の形質は固定される。特定の形質のものだけが「最適のもの」として存続して、他の形質は存続しえない。つまり、多様性がない。ところが、恐竜がいなくなると、淘汰圧が一挙に弱まる。だから多様な形質の個体が存続できる。不利な形質をもつものも存続できる。こうして多様性が生じる。そして、形質に多様性が生じれば、遺伝子にも多様性が生じる。そこから、カイ進化論の原理が成立する。かくて、多様な遺伝子から、「新種の核」が出現して、さらに「遺伝子の集中」を通じて、「急激な進化」が実現する。……これがつまり、「哺乳類の適応放散」だ。
つまり、「哺乳類の適応放散」が起こったのは、恐竜の絶滅により、非常に大きな空白領域ができたからだ。そこでは、「自然淘汰が働いたから」ではなく、「自然淘汰が働きにくかったから」こそ、広範で大規模な進化が生じたのだ。換言すれば、「ダーウィン説の原理が働かなかったから」こそ、広範で大規模な進化が生じたのだ。
こうして、「哺乳類の適応放散」を見ることで、ダーウィン説が誤りであることが判明する。
※ この件は、前に別項でも説明した。
→ 分岐と進化: Open ブログ
※ 実は、もう一つ、別の理由がある。この件は、後述する。(9) の「ゲノム・インプリンティング」の記述を参照。ゲノム・インプリンティングという遺伝子的な機構のせいで、哺乳類は急激に進化するようになったのだ。
(4) 突然変異の範囲
ダーウィン説では、進化の原動力となるのは、「突然変異」である。確率的に発生する遺伝子の突然変異が蓄積することで進化が起こる、と考える。だが、この考え方には、理論的な難点がある。それは、次のことだ。
「進化が起こる前の旧種と、進化が起こったあとの新種を比べると、突然変異の起こる範囲は同じである。それだと、短期的な進化は説明できるが、長期的な進化は説明できない」
たとえば、旧種の遺伝子を中心として、そこから起こる突然変異の範囲は、一定の円で図示できる。
では、新種の場合には、どうなるか? 1塩基変異の起こる範囲は、どちらも同じである。だから、旧種と新種では、突然変異の起こる範囲はどちらも同じである。円内における現在値(中心)が変わるだけであって、円そのものは同じである。……しかし、この考え方だと、「旧種 → 新種」という進化は説明できても、そのあとの長期的な進化を説明できない。1段階だけの進化は説明できても、そのあとの多段階の進化を説明できない。たとえば、原始的な猿から次の猿への進化は説明できても、原始的な猿から人類までの進化は説明できない。……ダーウィン説には、そういう難点がある。
カイ進化論では、この難点は生じない。なぜなら、旧種の遺伝子集団のなかで、「新種の核」ができたなら、その時点で、円の中心点は移動するからである。
参考だが、前々項で次の図を示した。
これを先の円に取り込むと、こうなる。(クリックして拡大)
円の中心よりも、いくらか上の場所で、「遺伝子の集中」が起こっている。ここが「新種の核」となる。とすれば、ここを中心として、新種の遺伝子の変異の範囲を示す円が、新たに描かれることになる。次のように。
下の × は旧種の中心であり、そこを中心とした円ができる。
上の × は新種の中心であり、そこを中心とした円ができる。
それぞれの円の範囲は異なる。したがって、進化が積み重なると、円の中心は次々と移動していき、円の位置も次々と移動していく。1回の進化を見れば、新種の中心は、旧種の中心を範囲とした円の内部に収まっている。しかし、進化が2回、3回、と積み重なっていくと、数回の進化があったあとの円は、もはや最初の円から完全に脱してしまっている。
このようにして進化のたびに円が移動していくさまは、次の図のように表示できる。
この件については、あとでまた言及するので、覚えておいてほしい。
(5) 犬の品種差
犬の品種(つまり犬種)は、多種多様にある。小さなチワワもあるし、獰猛なドーベルマンもあるし、大きなセントバーナードもある。これらが同一の種だとは思えないぐらいだ。
ここでは、「突然変異と自然淘汰」のかわりに、「突然変異と人為淘汰」が起こっている。ならば、これらの犬種の差は、進化なのだろうか?
ダーウィン説によれば、これらの犬種の差は、まさしく進化だと言えるはずだ。「突然変異と人為淘汰」というのは、「突然変異と自然淘汰」と同様なので、まさしくダーウィン説の「進化」の条件を満たすからだ。
カイ進化論によれば、これらの犬種の差は、とうてい進化だと言えない。なぜなら、そこにあるのは小進化の蓄積だけであるからだ。当然、大進化の条件は満たされていない。つまり、「新種の核」となるようなものは生じていない。
現実にはどうか? 多くの犬種はどれもが「犬」という同一の種だと見なされている。当然ながら、交雑も可能であるはずだ。このことは、次の図で示せる。
原種のオオカミを中心として、さまざまな犬の品種が誕生しているが、それの遺伝子はいずれもこの円内に収まる。そして、セントバーナードやコリーやチワワから出現する遺伝子もまた、ちょうどこの同じ円内に収まる。少しズレた円内にはならないのだ。
その意味で、犬の品種差という例を見ると、「ダーウィン説は誤りであり、カイ進化論が正しい」ということがわかる。
※ この件は、別項でも論じたことがある。
→ 犬の小進化(品種改良): Open ブログ
(6) マンチェスターの蛾
マンチェスターの蛾は、石炭による大気汚染があるせいで、体色が黒いものが増えた。体色が白いものは目立つので鳥に捕食されるが、体色が黒いものは目立たないので鳥居に捕食されない。こうして環境のなかで自然淘汰がなされるという形で、白から黒へと形質が変化した。……これは「進化の実例だ」「進化の証拠だ」と主張されることがあった。
では、本当にそうか?
ダーウィン説によれば、これはまさしく進化の例だ。突然変異による遺伝子の差が生じたあとで、自然淘汰によって有利なものが生き延びた。かくて形質は「白から黒へ」というふうに変化した。「これこそ進化の証拠だ」というわけだ。
カイ進化論によれば、これは小進化の例ではあるが、大進化の例ではない。同じ種のなかで、亜種の増減があっただけだ。当然ながら、環境が変われば、今度は黒が減って白が増える。つまり形質は「黒から白へ」というふうに変化する。……しかし、そういうふうに「進化の逆行」があるとしたら、それは進化ではない。ただの亜種同士の増減にすぎない。
現実には、白と黒の増減は可逆的であるし、遺伝子的にも、突然変異で白と黒の間の変異は相互的であるようだ。したがって、ダーウィン説は正しくなくて、カイ進化論が正しい。マンチェスターの蛾の例は、ただの少進化の例にすぎないのである。
当然ながら、進化の円は同じ円となっている。大食が白と黒の間で変化しても、この蛾の変異の円は同一の円なのである。
なお、黒から白へ逆転した(元に戻った)ことについては、次の説明がある。
時が経つにつれ、機械が工業化され、汚染防止方法が普及し、テーブルは再び変わりました。黒い蛾は、何年も前に白い蛾が持っていたものを体験し始めました。 地衣類やその他の緑が豊かな産業革命前の状態に戻ったとき、簡単な獲物になるために目立ったのは今や黒い蛾でした。 これにより、白い蛾が繁殖して子孫を産むようになり、1世紀前に起こった自然淘汰の進化が逆転しました。
( → オオシモフリエダカの話は何ですか? Chemwatch )
20世紀半ばには、大気汚染を減らすための管理が導入され、空気の質が向上するにつれて、木の幹がきれいになり、地衣類の成長が増加しました。 もう一度、通常の淡いオオシモフリエダカがカモフラージュされ、黒い形がより目立ちました。 現在、都市部の状況は再び田舎の状況と同じになり、通常の淡いオオシモフリエダカが黒い形よりもはるかに一般的です。
( → オオシモフリエダカと自然淘汰| 蝶の保護 )
(7) 進化の不可逆性
犬の品種差や、マンチェスタの蛾の例を見ると、それらの遺伝子の変異の範囲は変わっていないことがわかる。つまり、そこには進化はない。(亜種の差はあっても、種の差は生じていない。)
一方、進化がある場合(旧種と新種に種の差がある場合)には、事情は異なる。遺伝子の変異の範囲は異なっている。ここから、進化の不可逆性が説明できる。
ダーウィン説では、「進化の不可逆性」はない。旧種と新種の突然変異の範囲は同じである(円が同じである)ので、進化は常に可逆的であるはずだ。魚が陸に上がれば魚が両生類になるように、両生類が水中に入れば両生類が魚になるはずだ。いずれも「環境に適したものが生き残るように、進化が起こる」という形で、進化は可逆的であるはずだ。
カイ進化論では事情は異なる。旧種と新種の突然変異の範囲は異なる(円の中心が異なる)ので、進化は不可逆的となる。これは、次の二通りに分けて考えられる。
[i] 円が離れた場合
1回の進化では、二つの円には重なりがある。しかし数回の進化を経ると、二つの円は引き離されてしまって、二つの円には重なりがなくなる。
こうなると、新種のなかで祖先種との共通部分がなくなるので、進化の逆行はありえなくなる。たとえば、哺乳類の遺伝子の突然変異がどれほど起こっても、哺乳類が祖先種の魚類や細菌に戻ることはありえない。いくら水中では有利になるからといって、人間の手足が鰭になることはないし、人間の体が単細胞生物(細菌)になることもない。
[ii] 円が重なる場合
1回の進化では、二つの円には重なりがある。ならば、1回の進化に限っては、進化の逆行があるだろうか?
理論的には、不可能ではない。旧種のなかで、新種と同じ遺伝子をもつものが「新種の核」を形成すれば、そのなかで旧種に相当するものが進化していって、旧種に戻ることは可能だ。
たとえば、キリンの新種のなかで、「首が短い」というものが出現すれば、それを「新種の核」として、「首も短いし、足も短い」というふうに、旧種と同じ形質をもつものが新たに出現可能だ。
とはいえ、現実には、それは存続しにくい。なぜなら、その優劣は、すでに進化の歴史のなかでテスト済みだからだ。「首も短いし、足も短い」という旧種は、「首も長いし、足も長い」という新種に、環境のなかで負けて滅びた、という進化の歴史がある。とすれば、進化の逆行は、遺伝子的には可能ではあっても、自然淘汰のある環境のなかでは不可能である、と言える。
例外的に、まったく別の環境であれば、進化の逆行は可能だろう。たとえば、「首も短いし、足も短い」という個体が有利であるような環境だ。具体的には、「丈の高い樹木の葉は食い尽くされて、丈の低い樹木のはばかりが残っている」というような状況だ。つまり、「世の中の草食動物はキリンばかりであって、他の草食動物は存在しない」というような状況だ。そういう状況は、どこかの太陽系外惑星では、ありえたかもしれない。しかし、この地球では、そんな環境は存在しない。というわけで、現実的には、「進化の逆行」を許すような環境が存在しないので、「進化の逆行」はありえないことになる。
※ 仮に「進化の逆行」があるとしたら、地球環境が激変した場合だろう。たとえば、地球が核戦争で滅亡状態になった……というふうな。すると、「人間が猿になる」というような進化の逆行も、あるかもしれない。(映画「猿の惑星」みたいだが、あれは人間が猿になったわけではない。)
※ ちなみに、フローレス原人は森林に適応して、体も小さくなり、脳も小さくなっていた。こういう形で、人間が小型化して樹上で暮らすようになり、人間が猿になるということは、ありえなくもなさそうだ。スマホばかりをいじっているせいで、脳が退化した方が有利になり、未来の人間は脳がどんどん縮小していく……ということも、考えられなくもない。(……冗談です。)
(8) 地理的隔離による分岐
ダーウィン説では、環境の違いによって分岐が起こる。特に、地理的に隔離されたことによって、分岐が起こって、一つの種が別々の種になる。
カイ進化論では、地理的な隔離が別種を生み出すとは限らない。「新種の核」が出現しなければ、新しい種は誕生しないからだ。
では、どちらが正しいか? 次の [i][ii][iii] の例を見よう。
[i] オーストラリアやマダガスカル島
オーストラリアやマダガスカル島では、6000万年ほど前に大陸からの地理的隔離が起こったあとで、そこにいる種はほとんど進化を遂げなかったようだ。有袋類は有袋類のまま存続しており、有袋類から有胎盤類に進化するということはなかった。以上のことから、「地理的な隔離が別種を生み出すとは限らない」とわかる。つまり、カイ進化論の方が正しい。
[ii] ガラパゴス諸島
地理的隔離と言えば、ダーウィン自身の言及した、ガラパゴス諸島の例が有名だ。ガラパゴス諸島では島々の間に、地理的隔離があった。すると、「それぞれの生物種には固有種が存在する」という形で、進化があると認められた。
具体的には、それぞれの島には、独自のダーウィン・フィンチという小鳥がいた。これが種の分岐をしていることで、「地理的な隔離が進化をもたらした」と結論された。(これがダーウィン説の始まりだ。)
カイ進化論では、その解釈を否定する。地理的隔離は、原則としては、種の分岐を意味しない。亜種としての分岐を意味するだけだ。なぜなら、そこには「小進化の蓄積」があるだけだからだ。その一方で、「種の分岐」はない。つまり、「新種の核」を中心とした「遺伝子の集中」で「急激な進化」が起こった、という事実はない。相も変わらず、微小な形質の差があるだけだ。クチバシが大きくなったとか、クチバシの色が変わったとか、その程度の微小な形質の差があるだけだ。そういうことは、人間の人種差と同じで、ただの亜種の差であるにすぎない。
では、そのどちらが正しいか? はっきりとした調査はなされていないようなので、はっきりとした実証はできていないようだ。だが、現実のダーウィン・フィンチを調査すれば、「カイ進化論が正しい」とわかるだろう。つまり、「それぞれの島の個体は、たがいに交雑が可能である」とわかるので、「それぞれの島の個体は、いずれも亜種の関係にある」とわかるだろう。
また、「島A の個体を、別の島B に移せば、島A の個体は島B の個体に似てくる」とわかるだろう。
同様に、「島B の個体を、別の島A に移せば、島B の個体は島A の個体に似てくる」とわかるだろう。
この二点のことの対称性から、「双方の進化は可逆的である」とわかるだろう。つまり、「その進化は小進化であって、大進化ではない」とわかるだろう。
※ 以上のような実証は、今はまだなされていないので、はっきりと断言することはできない。しかし、実証は可能だろうから、やがては実証されるだろう。そのことで、「ダーウィン説は間違いであり、カイ進化論が正しい」と判明するだろう。
[iii] ホッキョクグマ
ホッキョクグマの例を見よう。ホッキョクグマとハイイログマは遺伝子的にとてもよく似ている。そのことから、ハイイログマが北極に進出したことでハイイログマがホッキョクグマに進化したと考えられている。
しかしながら、ホッキョクグマとハイイログマは交雑が可能であり、その中間種もちゃんと存続できる。
→ ホッキョクグマとハイイログマの交雑種「ピズリー」が確認されるように
→ ハイイログマとホッキョクグマの雑種 - Wikipedia
以上のことを、どうとらえるべきか?
ダーウィン説に従えば、「地理的隔離によって種が分岐したあとで、交雑種が誕生した。異種間交雑は可能だという実例だ」ということになる。
カイ進化論に従えば、「ハイイログマとホッキョクグマは、亜種の関係にある。いくらか違っていても、両者はどちらも同じ種である。したがって、たとえ交雑で出産が可能でも、異種間交雑があったことにはならない。ただの同種の交雑であるにすぎない」ということになる。
この考え方に従えば、ハイイログマとホッキョクグマでは、外観がいくらか違うのは、黒人と白人が違うようなものであって、たいして意味はないことになる。
ただし、ハイイログマとホッキョクグマが分岐したのは、遺伝子研究によると、約 60万年前だ。
→ ホッキョクグマ、種としての歴史ははるかに長い=独チーム | Reuters
一方、人類が分岐したのはいつか? コーカソイドとネグロイドが分岐したのは、ホモ・サピエンスの誕生のあとのことなので、いくら古くても 20万年前ぐらいだということになる。私としては、「十数万年前」と推定している。
これらに比べると、ハイイログマとホッキョクグマが分岐した、約 60万年前というのは、ととも大きな数字だ。ほとんど一つの種が誕生してもいいぐらいの長い時間が経過したことになる。とすれば、両者の差は、たとえ同一の種に属する亜種同士だとしても、かなり大きな差になっていると言えるだろう。
結論としては、「ほとんど種の違いになるほどの大きな形質の差があるし、遺伝子の差もあるが、しょせんは交配可能であり、亜種の関係にある」と言えるだろう。その意味では、「犬の品種差」に近い。いや、むしろ、「犬の品種差」に比べれば、ハイイログマとホッキョクグマの差は小さめだと言えるだろう。(少なくとも形質的にはそうだ。)
(9) 異種間交雑の有無
では、異種間交雑は起こらないのか?
ダーウィン説では、異種間交雑については何もわからない。あるかもしれないし、ないかもしれない。
一方、生物学者は、これまでの事例から経験的に、「異種間交雑は起こりにくい」と知っている。かろうじて交雑種が誕生することができても、その交雑種は、繁殖能力をもたないので、交雑種だけで一つの種を形成することはできない。そうなるのが普通だ。
それでも、ハイイログマとホッキョクグマのような例がある。これを見て、、「分岐してから年数の少ないものでは異種間交雑がある」と見なす人もいるようだ。だが、「それらは亜種同士であるにすぎない」と言われれば、反論できなくなるだろう。
カイ進化論ではどうか? 原理的に言えば、こうなる。
・ 数回の進化のあとで、遺伝子の変異の縁が大きく隔たると、異種間交雑は起こりにくい。
・ 1回の進化では、旧種と新種とで遺伝子の差が小さいので、異種間交雑は可能である。
上記のように言えるはずだ。ところが、話はそれだけでは済まなくなる。それは、「ゲノム・インプリンティング」(ゲノム刷り込み)という概念があるからだ。
→ 異種間交雑が起こりにくい理由(ゲノム・インプリンティング): Open ブログ
ここには、次の説明がある。
遺伝子が両親のどちらからもらったか覚えていることをゲノム刷り込みという。
なぜゲノム刷り込みが必要であるか(なぜ哺乳類に備わっているか)については、いくつかの仮説が唱えられている。
仮説の一つとして、「全ての遺伝子を発現させるためだ」というものがある。この仮説に従えば、哺乳類のように高度に発達した生物に進化するには、ゲノム刷り込みが必要だったことになる。逆に言えば、ゲノム刷り込みがあったからこそ、哺乳類は(部分的に発現しない遺伝子をもって個体発生が成功するような危険を冒さずに)高度な個体組織をもつように進化できたことになる。
ゲノム刷り込みは、個体発生や胎盤形成と密接な関係があることもわかってきた。なお、ゲノム刷り込みが起こるのは、有袋類と有胎盤類である。単孔類は違う。
さらに、こう結論する。
ゲノム・インプリンティングという機構があるのは、異種間の交雑を発生させないためだ。
もし異種間の交雑があれば、その種としては、父母の片側だけからしか遺伝子を得られない。したがって、ゲノム・インプリンティングという機構のせいで、個体発生は正常に行なわれない。つまり、個体発生が失敗したせいで、胎児は流産する。つまり、ゲノム・インプリンティングは、異種間の交雑を失敗させるためにある。(交雑種である個体の発生を防ぐためにある、とも言える。ごく近縁である場合以外は、これが成立する。)
ではなぜ、異種間の交雑を防ぐ必要があるのか? それは、退化を起こさないためである。
要するに、こうだ。「種が異なると、交雑できない」のではない。その逆に、「たがいに交雑することができなくなると、新たな種が確立する」のである。それがゲノム・インプリンティングという機構の役割だ。
つまり、ゲノム・インプリンティングという機構の役割は、「新たな種を確立させるため」(新たな種を成立させるため)なのである。
ではなぜ、「新たな種を確立させること」が必要なのか? 実は、ここでも話が逆である。「新たな種を確立させるため」に、ゲノム・インプリンティングという機構が成立したわけではない。ゲノム・インプリンティングという機構が成立した場合に、「新たな種を確立させること」が可能になったのだ。
ここで注意。ゲノム・インプリンティングという機構は、「新たな種を確立させるため」に、必要不可欠であるわけではない。この機構がなくても、新たな種が発生することはある。特に、哺乳類以前では、しばしば起こっている。
ただし、ゲノム・インプリンティングという機構があると、「新たな種を確立させること」が容易になるのだ。そして、その意味は、「進化を容易にすること」である。(ここでは、「新たな種を確立させること」と「進化」とは、ほぼ同義である。)
ここまで理解すれば、本質は明らかだろう。有袋類と有胎盤類(単孔類は除く)には、ゲノム・インプリンティングという機構が備わっている。それだからこそ、「新たな種を確立させること」が容易になり、「進化」が容易になったのだ。
最後の結論だけに着目すれば、こうなる。
有袋類と有胎盤類には、ゲノム・インプリンティングという機構が備わっている。そのせいで、異種間交雑ができない。だからこそ、進化の逆行が阻害され、多様で大幅な進化が可能となった。
逆に言えば、少なくとも有袋類と有胎盤類では、異種間交雑は起こりにくい。というか、起こるはずがない。
哺乳類は、いったん大進化の過程を経て、別の種となってしまえば、そのあとでは異種間交雑が起こるはずがないのである。異種間交雑が起こらないという性質をもっているからこそ、哺乳類は今日のように多様で高度な生物種となれたのだ。……こうして異種間交雑については「あるはずがない」と否定される。
あるように見えても、それは異種間交雑ではなく、ただの亜種同士の交雑にすぎないのだ。(ハイイログマとホッキョクグマの場合)
――
ところが、ここで例外が生じる。それは「ネアンデルタール人との交雑」だ。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、骨格からしても、明らかに別の種である。亜種同士であるということはありえない。しかしながら、先日の報告では、「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑があった」という研究成果が出た、と報じられた。
この研究成果は、明らかに上記のこと(カイ進化論の結論)とは矛盾する。とすれば、「ネアンデルタール人との交雑があった」という事実によって、カイ進化論は崩壊してしまうのか? あるいは、カイ進化論には少なくとも部分的には、誤りがあることになるのか? それとも逆に、「ネアンデルタール人との交雑があった」という研究成果の方が間違っているのか?
それについて答えよう。結論を言えば、こうだ。
「ネアンデルタール人との交雑があった、という研究成果が間違っている」
つまり、現代の生物学者が信じていること(「交雑があった」ということ)は、学術的には間違っているのである。では、どこが間違っているのか? 学術知識がなかったのか? 実験で失敗したのか? 実験に捏造があったのか? あるいは、統計的に数え方を間違えたのか?
そのいずれでもない。彼らが間違えた理由は、こうだ。
「生物学の知識は一切、関係ない。単に、初歩的な論理の使い方を間違えた。論理の使い方を知らない生物学者が、下手に論理を使ったせいで、論理を間違えた」
まったく恥ずかしい失敗である。中学生でも気づくような初歩的な論理ミスをしたことで、自分が間違った論理を使っていることに気づかなかったのだ。そして、その理由は、「思い込み」があったからだ。「きっと交雑が起こっているはずだ」と思い込んだせいで、「交雑が起こらなかった可能性」を考慮しなかったのだ。そのせいで、「交雑が起こらなかった可能性」を、考察の対象外としてしまったのである。つまり、前提から排除してしまったのである。そのせいで、あるべきものが、視野に入ってこなかったのだ。(いわば、前だけを見ているせいで、後ろを見なかったのだ。後ろを向けば、それはすぐに見えるのに。)
これは、「コロンブスの卵」にも似ている。人々は思い込みゆえに、思考が盲目になっている。だから、「本当はこうですよ」と正解を教えれば、人々は「あっ」と驚く。「どうしてそれに気づかなかったのか。思考の盲点だった。いったい今まで何を考えていたんだろう。自分たちはそれほどにも馬鹿だったのだろうか」と呆れてしまう。「おれたちには中学生並みの頭もないんだな」と自虐する気分にもなるだろう。
では、彼らはどこをどう間違えたのか? それを記したいが、ここに記すには余白が足りない。
そこで、項目を改めて、次々項で説明することにしよう。
※ 次項に続きます。
※ ただし、本論部分はこれでおしまいです。
次項は、小さな補足だけです。