前項の理論に基づいて、次々と謎を解決していく。
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結論の違い
ここまでは、原理の話をした。このあとは、原理から導き出される結論の話をしよう。
原理から導き出される結論は、ダーウィン説とカイ進化論とで、ほとんど正反対と言えるほどにも、大きな違いが生じる。とすれば、正しいのはどちらか一方だけだ。では、どちらが正しいのか?
以下では、さまざまな諸点について、個別に考えよう。すると、そのいずれの事例でも、「ダーウィン説は現実の進化に合致しないが、カイ進化論は現実の進化に合致する」とわかる。つまり、真相を正しく説明しているのはカイ進化論だ、とわかる。
これまで、ダーウィン説を聞いている限りでは、どうにも謎と思えたことが、カイ進化論の説明を聞くことで、次々と一挙に氷解していく。
(1) 変化/分岐(種の追加)
ダーウィン説では、進化とは「変化」である。古いものから新しいものへ、というふうに、一つの種が徐々に変化していく。それは遺伝子の置換が少しずつ起こることによって生じるものだ。ゆえにそれはなだらかに連続的に起こるものである。それは「連続的変化」と言える。ダーウィン説による進化とはそういうものだ。
カイ進化論では、進化とは「新種の誕生」である。旧種のなかに、新たに新種が出現する。一つの種であったものが、二つの種になる。そこでは「種の追加」がある。あるいは「分岐」とも言える。カイ進化論における進化とは、そういうものだ。
では、そのどちらが正しいか? それは、今この段階では、何とも言えない。今はただ、両者のイメージを理解してほしい。
ダーウィン説では、進化とは一つの線のようなものだ。ただし、その線は黒から白へとしだいに変化していく。
カイ進化論では、進化とは「一つの線が二つの線に分かれる」という感じだ。
(2) 連続/断続
上の話では、分岐があった。では、分岐がない場合には、どうか?
ダーウィン説では、分岐がなくても、進化は絶えず起こっている。小進化の変異は確率的に常に同程度であるから、進化は絶えず少しずつ起こっていることになる。それは連続的な進化だ。次の図の上側のように。
カイ進化論では、分岐のあった時点でのみ、大進化がある。それ以外の時点では、大進化はない。大進化があったときには、新種が出現するが、他の時点では特に何もない。(実は、他の時点では、小進化はあるのだが、小進化については、ほぼ無視される。上の図の下半分がそうだ。)
では、そのどちらが正しいか? それは、今この段階では、何とも言えない。今はただ、両者のイメージを理解してほしい。
(3) 直系・側系
ダーウィン説では、分岐が起こったとき、二つの種は対等の関係にある。どちらか一方だけが高度に進化しているということはない。
カイ進化論では、まったく異なる。分岐が起こったときに、二つの種は対等の関係にあるということはない。一方は旧種としてそのまま存続するが、他方は新種として新たに出現する。このとき、前者の子孫は「直系」と呼ばれ、後者の子孫は「側系」と呼ばれる。以上のことは、次の図で理解できる。
では、そのどちらが正しいか? それは、今この段階では、何とも言えない。今はただ、両者のイメージを理解してほしい。
(4) 旧種の存続
上の図を見ると、わかることがある。
ダーウィン説では、図において、二つに分岐したあと、それぞれの種はいずれも新種であって、新種の種類が違うだけだ。(新種1、新種2)
しかも、その二つの種では、それぞれの進化の程度は、どちらも同程度である。なぜなら、分岐と進化は関係ないからだ。分岐があろうとなかろうと、進化はそれ自体でどんどん進んでいく。分岐は、それぞれの環境でそれぞれの形質の差をもたらすだけであり、進化の量(遺伝子の変異の量)には影響しない。どちらの種も、それぞれの領域で、同じ程度に進化している。
カイ進化論では、大進化の本質は分岐である。分岐によって、新種が誕生する。そして、分岐が起こったとき、旧種はそのまま存続する。旧種は、新種が誕生したことの影響を受けることはない。新種が誕生しようとしまいと、旧種はそのまま一つの種を保ち続けるのだ。この場合、新種の方は大幅に進化しているのに対して、旧種の方は進化が起こっていない状態が続く。(小進化だけは起こっているが、小進化は種を変更するような進化ではない。)
以上のように考え方はまったく異なる。
・ ダーウィン説では、二つの新種があるだけで、旧種は残らない。
・ カイ進化論では、旧種はそのまま残り、新種が追加される。
では、どちらが正しいか? それを検証するために、具体的な事例で考えよう。次の [i][ii][iii]だ。
[i]シーラカンス
シーラカンスは「生きた化石」と呼ばれることもある。これはどう扱われるか?
ダーウィン説によれば、シーラカンスは爬虫類や哺乳類などと同じぐらい、十分に進化している。今のシーラカンスは大幅に進化したものであるから、今のシーラカンスは昔のシーラカンスとはまったく別のものである。
カイ進化論によれば、今のシーラカンスは昔の古い種と同じである。昔の種がそのまま同一の種として保たれているのだ。なるほど、遺伝子の変異により、微小な変異は溜まっているので、小進化は蓄積しているが、その小進化は種を変えるほどの進化ではない。シーラカンスはまさしく大昔のまま、同じ種を保っているのである。その意味で、これはまさしく「生きた化石」と言える。
では、そのどちらが正しいか? そのことは、今のシーラカンスの骨格を調べれば、すぐにわかる。今のシーラカンスは、昔の魚類の化石と同様の骨格をもっている。ゆえに、昔のシーラカンスからほとんど変わっていないと言える。したがって、ダーウィン説は間違いであり、カイ進化論が正しい。
[ii]細菌
古細菌や細菌はどうか? これらは、「生きた化石」とは呼ばれないが、昔のままの生物種のように見える。
ダーウィン説によれば、古細菌や細菌は爬虫類や哺乳類などと同じぐらい、十分に進化している。今の古細菌や細菌は大幅に進化したものであって、今の古細菌や細菌は昔の古細菌や細菌とはまったく別のものだ。今の古細菌や細菌は、人類と比べて、単に住んでいる環境が異なっているから、別の形で最適化しているだけであり、進化の程度は同じくらいなのだ。
カイ進化論によれば、古細菌や細菌は、昔の生物種がそのまま残っている。なるほど、遺伝子の変異により、微小な変異は溜まっているので、小進化は蓄積しているが、その小進化は種を変えるほどの進化ではない。古細菌や細菌はまさしく大昔のまま、同じ種を保っているのである。その意味で、これはまさしく「生きた化石」と同様のものだと言える。
では、そのどちらが正しいか? 今の古細菌や細菌の構造を調べればすぐにわかる。今の古細菌や細菌は、昔の古細菌や細菌と同様の構造をもっている。ただの単細胞生物だ。ゆえに、昔の古細菌や細菌からほとんど替わっていない。したがって、ダーウィン説は間違いであり、カイ進化論が正しい。
[iii]オーストラリアの動物
オーストラリアの動物はどうか? これらは、「生きた化石」とは呼ばれることもあり、昔のままの生物種のように見える。
ダーウィン説によれば、オーストラリアの動物は、他の大陸の動物と同じぐらい、十分に進化している。今のカモノハシやコアラは、昔の祖先に比べて大幅に進化したものであって、昔の祖先とはまったく別のものだ。
カイ進化論によれば、オーストラリアの動物は、昔の生物種がそのまま残っている。今のカモノハシやコアラは、昔にいたカモノハシやコアラが、そのまま残っているのだ。その意味で、これはまさしく「生きた化石」と同様のものだと言える。
では、そのどちらが正しいか? 今のカモノハシやコアラの構造を調べればすぐにわかる。今のカモノハシは、昔の単孔類と同様の構造をもっている。今のコアラは、昔の有袋類と同様の構造をもっている。ゆえに、そのいずれも昔の祖先種からほとんど替わっていない。したがって、ダーウィン説は間違いであり、カイ進化論が正しい。
(5) 共通祖先の有無
ダーウィン説では、「共通祖先」という概念がある。先の図を再掲しよう。
この図で、「新種1」と「新種2」には、元となる旧種がある。それは「共通祖先」と呼ばれる。
カイ進化論では、「共通祖先」という概念はない。「共通祖先」に相当するものは、二つのうちの一方の種である。図で言えば、「旧種」だ。その種が、最初から最後まで同じ種として保たれている。だから、「共通祖先」という概念はない。強いて言えば、「初期の旧種」というふうには言える。
では、そのどちらが正しいか? それについては、人類の進化をたどるといいだろう。つまり、人類の化石を調べてみる。
ダーウィン説では、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人には、共通祖先がいる。ホモ・サピエンスは常に連続的に進化しており、ネアンデルタール人も常に連続的に進化している。それらの共通祖先となる種も存在しており、その化石もたくさん見つかるはずだ。
ところが現実には、その反対の化石的事実がある。ホモ・サピエンスはほとんど進化せずに同一の種を保ち続けたし、ネアンデルタール人もほとんど進化せずに同一の種を保ち続けた。その一方で、共通祖先となる種の化石はまったく見つかっていない。これらの化石的事実は、ダーウィン説を完全に否定する。
カイ進化論では、どうか? この話は、やや複雑になるので、後述の (7)[および次項]で述べることにする。(結論だけ言えば、カイ進化論の結論は、化石的事実に合致する。)
(6) 進化の高低
ダーウィン説では、進化の程度は、どの種でも同じである。たとえば、上の図では、ダーウィン説における「新種1」と「新種2」は、ともに同じように進化している。
同様にして、太古の生物(古細菌)以来、あらゆる生物はすべて、進化の程度が同レベルである。古細菌も、細菌も、ミジンコも、クラゲも、魚も、両生類も、爬虫類も、哺乳類も、人類も、いずれも進化のレベルが同等である。これらの生物は、それぞれの住む環境が違うから形質が違うだけだ。そのいずれも、環境に適するという形で最適に進化しているのであって、それぞれの進化のレベルに高低はない。
以上のことは、次の図で示されることがある。
- ※ どれもが中心からの距離は等しい、ということ。同じ時間が経過していれば、同じだけの進化をなしている、ということ。進化の量は、突然変異の蓄積の量なので、どの種においても、時間が同じであれば、突然変異の量(=進化の量)は同じだ、ということ。
出典:テキサス大学のDavidら
カイ進化論では、どうか? 分岐が起こるたびに進化が起こるのだから、分岐をたくさん重ねたものは、たくさん進化していることになる。逆に、分岐が少なければ、進化も少ないことになる。
このことから、次のように結論できる。
「生物は、古細菌や細菌から、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類、というふうに、次々と進化を重ねてきた。そうして進化を重ねるたびに、進化の量を増してきた。たくさんの進化を重ねたものは、進化の程度が高いと言える」
つまり、生物には、進化のレベルが低いものと、進化のレベルが高いものとがあるのだ」
ダーウィン説とカイ進化論は、これほどにも正反対の結論を出す。では、そのどちらが正しいか?
もちろん、カイ進化論の方が正しい。「古細菌も魚類も哺乳類も、どれもが同じように進化しているのだ」というような学説は、もはや「進化」という概念を否定しているのも同然だからだ。
生物は 40億年という長い時間をかけて、ようやく哺乳類や人類のような高度な生物にまで発達した。ところが、ダーウィン説に従えば、高度な生物も、(現時点の)ただの細菌も、同程度に発達しているにすぎないのだ。
つまり、高度な科学文明を生み出した人類は、同じ時代にある細菌と同レベルの生物にすぎないのである。それは、ここまで 40億年もの時間をかけて達成した科学文明の成果が、何の意味もないということにもなる。……こういう認識は、普通の生物学者の認識とは、あまりにも懸け隔たっている。
(7) 進化の速度
ダーウィン説では、進化の速度は一定であるはずだ。なぜなら突然変異の発生する頻度は一定だからだ。場合によっては(ガンマ線などの)放射線の影響で、突然変異の頻度が変わることがあるかもしれないが、そういう例外を除けば、基本的には突然変異の頻度は一定である。だから、進化の速度も一定であるはずだ。
ただし、別途、自然淘汰の強さが影響する。自然淘汰が強いと、優勝劣敗による選別の効果が強まるので、進化の速度は速くなるはずだ。逆に、自然淘汰が弱まれば、優勝劣敗による選別の効果が弱まるので、進化の速度は遅くなるはずだ。……それが論理的な帰結となる。
カイ進化論では、事情はまったく異なる。
まず、分岐の直後には、前出の「遺伝子の集中」が起こるので、進化は急激に進む。非常に急速に進むので、その途中過程の化石は残らないはずだ。
いったん「遺伝子の集中」が急速に起こって、それが十分に蓄積されると、その後では、進化の速度はだんだん緩慢になる。全体的には、
速い → 中程度 → 遅い → 頭打ち
という感じだ。自動車が急発進したあとで、やがて一定速度で巡航する、というのに似ている。
ただし、別途、自然淘汰の強さも影響する。自然淘汰が強いと、優勝劣敗による選別の効果が強まり、遺伝子に多様性がなくなるので、(遺伝子の組み合わせが限定されたせいで)、進化の速度は遅くなるはずだ。逆に、自然淘汰が弱まれば、優勝劣敗による選別の効果が弱まり、遺伝子に多様性が生じるので、(遺伝子の組み合わせが多種多様になるせいで)、進化の速度は速くなるはずだ。……それが論理的な帰結となる。
では、そのどちらが正しいか? それは、化石を見ればわかる。
ダーウィン説が正しいなら、化石における進化は常に連続的であり、常に中間の形質が生じることになる。「中間種が存在する」というよりは、そもそも「種」という概念が成立しないことになる。どのような「種」にも「種と種の中間」が存在するはずだし、また、一つの「種」の歴史では、常に連続的な変化があるはずだ。たとえば、ホモ・サピエンスというのは、一つの種を保つことなく、20万年の間にどんどん変化しているはずだ。また、ホモ・サピエンスとその祖先との間には、連続的な変化があるので、その連続的な変化が多様な形態の化石として残っているはずだ。
カイ進化論が正しいなら、分岐の直後には進化の速度が急激なので、その急激な進化の過程は化石として残っていないはずだ。一方、分岐から時間がたったあとでは、ほとんど変化が起こらないので、長い時間がたっても化石はほぼ一定状態の化石ばかりであるはずだ。
では、どちらが正しいか? 現実の化石の事実は、ダーウィン説には合致せず、カイ進化論に合致する。つまり、
・ 祖先種とホモ・サピエンスとの中間的な化石が残っていない。
・ ホモ・サピエンスという種は 20万年の間、ほとんど変わっていない。
この二つの事実は、ダーウィン説とは矛盾し、カイ進化論とは合致する。ゆえに、化石的事実と照合することで、「ダーウィン説は正しくなく、カイ進化論は正しい」と判明する。
ついでだが、話はホモ・サピエンスに限らない。恐竜の化石でも、馬の化石でも、同様だ。いずれの種でも、その種は突然に出現して、以後はずっと一定状態を保っている。つまり、種としての同一性を長年保っている。「一つの種の誕生は突発的であり、一つの種の進化は頭打ちだ」……これが化石的実である。それは、ダーウィン説には合致せず、カイ進化論に合致する。
※ 化石を見る限りは、進化は「連続的」ではなく「断続的」だと言える。
このことを図形的に表現すると、「階段状の進化だ」と言える。次の図のように。
――――
《 評価 》
ここまで、ダーウィン説とカイ進化論の結論を比較してきた。そして、前者では矛盾が生じることで、前者では謎が残ることがわかった。しかるに、後者ではその謎が消失する。つまり、前者における謎は、後者によってすべて解明したことになる。
※ 次項に続きます。
次項が楽しみです!
ここまでで「ほぼ中立説」と似ているのかなと思いました。
https://www.nig.ac.jp/nig/ja/research/interviews/close-up-interviews/close-up-interviews26
『現在では、弱有害変異は複雑なゲノム進化を理解する上での中核となる考えとされ、
ほぼ中立説はシステム生物学や比較ゲノム解析の研究に大きな影響を与えています。』
カイ進化論は、小進化と大進化はまったく別のものであり、しかも、進化の進む方向は逆方向である、と示したことで、全然異質なものです。