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私が評価するのでなく、識者が評価している。
→ (Sunday Wide)キエフとキーウの間に:朝日新聞
次の見解がある。
(変更は)妥当だと言える。外国地名は現地語での呼び方を尊重するのが原則で、各国の代表らが集まる「国連地名標準化会議」でも確認されている。
私は政府の対応を支持しています。ただ、日本語の歴史からすると、あまりに早く、異例で驚いた。日本の言語政策は従来、急な変更で問題が生じないかなど、調査や議論を尽くす。しかし、今まさにひどい戦争が起きていて、議論を許さないほど圧倒的な世論があったのでしょう。
どちらもごもっともではあるが、ピンボケ ないし 隔靴掻痒の感がある。そこで私なりに考え直した。その結論は、こうだ。(核心を考える。)
「現地語での呼び方を尊重するのはいいが、普及するかどうかが問題だ。今回は、極めて急速に普及している。それはなぜか? 変更後の言葉がひんぱんに使われているからだ。毎日の言葉でキーウという言葉が使われる。新しい語が使われるならば、新しい言葉を使うことに何ら問題がない。ここが本質だ」
換言すれば、こうだ。
「変更しても使われないのならば、変更後の言葉はあまり普及しない。たとえば、チョルノービリという語は変更後もあまり使われないので、あまり普及してない。一方で、事故を起こしたときのチェルノブイリという言葉は普及している。新しい語への変更は容易ではない。使うときには、カッコ付きの併記が妥当だろう」
「変更後もほとんど使われないのならば、変更はあまり意味がないと言える。たとえば、グルジアはジョージアと呼ばれるようになったが、ジョージアという言葉で思い浮かぶのは、(1) 缶コーヒー (2) 米国の州名 (3) 旧グルジア ……という順序だ。まして、現地読みの サカルトヴェロ という語はほとんど普及していない」
サカルトヴェロという語を聞いても、たいていの人は理解できないだろう。
。ジョージアという語を聞いても、大半の人はコーヒーやジョージア州のことを思い浮かべるだろう。
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言葉を変更するのはいいが、変更するなら、使わなくては意味がない。使われない言葉は、ほとんど存在しないも同然だ。
言葉の制定者が変更するかどうかが問題だというよりは、社会の人々がそれを使うかどうかが決定的に重要となる。