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現在のウクライナ危機と、過去のユーゴスラビア紛争には、共通点がある。本質はどちらも同じだ、とも言える。だから人類は何度も無駄な戦争を引き起こす。
このことを示すために、ユーゴスラビア紛争を振り返ろう。
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ユーゴスラビア紛争については、概説的な説明がある。
→ ユーゴスラビア紛争 - Wikipedia
→ ユーゴ紛争とは - コトバンク(日本大百科全書)
→ クロアチア人とセルビア人の対立はなぜ起こったのか?
だが、これらの説明を読んでも、あまりはっきりとしない感じが残るだろう。だから私が核心を説明しよう。以下の通り。
・ ソ連崩壊があった。
・ 東欧諸国は、ソ連の支配が緩んで、次々と独立した。
・ ユーゴスラビアもまた、同様に独立の傾向が強まった。
・ ユーゴスラビアは、他の国と違って、多民族が混淆していた。
・ この状況で、民族独立をすれば、少数民族は迫害されがちだ。
・ コソボとクロアチアにおける少数派のセルビア人が不満を持った。
・ 内戦が生じて、セルビア人がクロアチアの一部を奪取した。
・ クロアチアが独立して、奪われた領土を回復した。
・ 同時にクロアチアは、国内のセルビア人を追放した。
・ クロアチアとセルビアの対立が激化した。戦闘激化。
・ ボスニアは両国の草刈り場となって、多大な犠牲が生じた。
以上があらましだが、これはただの内戦ではなかった。欧州および米国が介入して、クロアチアに肩入れした。そのせいで、紛争は解決するどころか、激化した。……ここに問題の核心がある。
クロアチアはカトリック国家であって、欧州や米国のような西側社会とは兄弟のような関係にある。セルビアはギリシャ正教の国家であって、東欧やロシアとは兄弟のような関係にある。紛争が起これば、当然、兄弟同士でまとまる。欧州と米国はクロアチアに肩入れして、ロシアはセルビアに肩入れした。こうして、紛争は終息するどころか、いっそう火をかきたてられることになった。かくて紛争は拡大して、多大な犠牲者が出ていった。
これは当然、「大いなる失敗」と見なされるべきだった。ところが、欧州や米国はそう思わなかった。「自分たちは正しいことをしている正義の味方だ」と信じて、クロアチアに肩入れした。同時に、「ロシアの援助を受けているセルビアは悪の国家だ」と非難して、制裁を加えた。
ここでは、「自分たちは善であり、相手側は悪である」という善悪二元論を採った。そうして白黒をはっきりさせる形で、「自分たちは正しい」と言い張った。かくて、戦闘は拡大して、莫大な犠牲者が出た。
つまり、最悪の被害が出る道を自分たちであえて選択しながら、それを「失敗」とは見なさず「成功」と見なした。そして莫大な被害が出たことを、すべて「相手側の悪のせいだ」というふうにして、相手側の責任にした。
結局、欧州と米国の「唯我独尊と自己陶酔」が、無益な戦争を拡大して、犠牲を最大化したのである。
こうした愚かな過程は、現在のウクライナ危機とも共通する。
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この問題では、根源的には、何が核心だったか?
とにかく、現実を直視するべきだった。そうすれば、ユーゴスラビアは多民族の混淆した国家(多民族国家)だ、という事実を認識できたはずだ。そこでは、単に複数の民族が存在するというだけでなく、結婚などの生活面でも、いくつもの民族が入り組んでいた。
とすれば、そこにおいて「民族独立」というような純化政策は成立しえない、とわかったはずだ。強引に独立を推進すれば、もともと混淆していた状態が、生木を裂かれるような状態で、混乱に陥る。実際、異民族同士の夫婦が引き裂かれたり、別々の国に居住する親子が分断される、というふうなことが起こった。まさしく生木を裂かれるようになった。
ここでは、国家レベルで「独立」を認めることはあってもいいが、民族レベルで「純化政策」を取ってはいけなかったのだ。
にもかかわらず、セルビアやクロアチアは、独立だけでなく純化政策を取った。そして、欧州や米国は、セルビアの純化政策については大々的に批判したくせに、クロアチアの純化政策についてはあっさりと容認した。そのせいで、クロアチアの国内にいるセルビア人は、クロアチアという国家から迫害された。追い立てられて国外追放になることもあった。
つまり、ヒトラーがユダヤ人の迫害をなしたようなことを、クロアチア人はセルビア人になした。なのに、欧州や米国は、それを批判するかわりに、目をつぶった。その一方で、セルビア人がクロアチア人を迫害することには、大々的に批判した。「ヒトラーがユダヤ人の迫害をなしたようなことをやる、悪のセルビア」というふうにも非難した。
その二重基準は、呆れるほどだ。
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では、正しくはどうするべきだったか?
独立と純化政策とを区別するべきだった。クロアチアの独立を認めてもいいが、クロアチアが自国内で純化政策を取ることは認めてはならなかった。
なのに、そこを混同したのが、欧州と米国だ。クロアチアの独立を認めると同時に、クロアチアが純化施策を取ること(少数派のセルビア人を迫害すること)を認めてしまった。そこが失敗だった。
欧州と米国は、クロアチアで独立運動が盛んになったとき、それを容認した。「民族自決を唱えて、民族がそれぞれ独立するのは当然だ。それが人道的だ」というふうに信じて。
だが、それは、一種の「国境線の変更」だ。そんなことをすれば、戦争になりがちなのは当然だ。
また、独立というのは、ただの民族自決のことではない。それは国境を高くすることを意味する。そのとき、多数派にとっては「国内の均一化」というメリットを得るが、少数派にとっては「国外の仲間との分断」というデメリットが生じる。
その問題を解決する方法は、ないか? ある。それは、ほかでもない、EU 自らの取った道だ。すなわち、「大欧州」という連合体を構築して、その内部では国境を低くすることだ。
EU では、ドイツやフランスが対立していたのだが、「大欧州」という連合体を構築して、その内部では国境を低くした。こうして民族間の対立を解消した。実際、これは大々的な成功をもたらした。かつては敵対していた独仏は、今では兄弟や家族のように親しい関係になっている。
そして、ユーゴスラビアのように、もともと混淆していた多民族国家であれば、同じようなことをやれば、いっそう仲良くすることができたはずなのだ。(独仏のように分断されてはいなかったからだ。)
EU は正しい方針を知っていた。その正しい方針を自らは採用して、平和と幸福を享受した。にもかかわらず、それとは正反対の方針を、クロアチアとセルビアに強いたのである。
EU の各国は、たがいの国境を低くして、民族間の対立を解消した。ところが EU の諸国は、クロアチアとセルビアに対しては、たがいの国境を高くして、民族間の分断を強いた。結果的に、それぞれの国内における少数民族は迫害された。こうして両国は不可避的に戦闘に追いやられた。
つまり、ユーゴスラビア紛争というのは、クロアチアとセルビアが国境を高くするように けしかけられたあげく、結果的にはその両国がともに破滅に至るようになった、という失敗例なのである。
そして、そういう失敗をもたらしたのは、欧州と米国の独りよがりな善悪感だった。「西側社会とクロアチアというカトリック国家は正しくて、東側社会とセルビアという異教徒国家は悪である」という宗教的信念に基づいた、偏った善悪感。……そういう偏見と偏向と自惚れと自己賛美が、彼らの独りよがりな理想主義と結びついたせいで、クロアチアの自分勝手な暴走(国境を高くすること)を、「民主主義の尊重」というふうに賛美した。
こうして、欧州と米国の独りよがりな理想主義にけしかけられたせいで、ユーゴスラビアの全体は、戦争の泥沼に巻き込まれたのである。そのあとには、多大な死体と建物の廃墟が残った。
※ 旧日本軍が、各地を侵略しながら、「正義の大東亜共栄圏」という言葉に酔っていたのと、同様である。戦争を拡大したがる連中は、常に理想主義に自己陶酔しているものだ。
※ そういえば日本にも、日本を賛美する形で、自己陶酔していた元首相がいたね。
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[ 付記 ]
宗教面では、イギリスと米国は、カトリックではなくてプロテスタントである。ただし双方はどちらも普通のキリスト教なので、大差はない。
一方、ロシアとセルビアは、ギリシャ正教なので、キリスト教であるとはいえ、カトリックやプロテスタントからは隔たっている。

出典:Wikipedia
キリスト教には、さまざまな分派があって、「エホバの証人」(ものみの塔)や「アーミッシュ」など、特殊な派もある。同じくキリストを信じるとはいえ、まったく別の宗教と思えるほどだ。
ついでだが、キリスト教はユダヤ教の一部としてあり、ともに旧約聖書の上に成り立つ。
イスラム教は、コーランを信じるので、ユダヤ教とは別の宗教のようようにも見えるが、同一の神を信じているという点で、起源が同じであり、親類関係にあると言える。

ロシア人がキリスト教を受け入れ、今日まで続く文化的礎を築いたのは、今はウクライナの首都となっているキエフにおいてです。その後、ロシア王国は小王国に分裂し、さらにモンゴル人に征服されて弱体かしますが、この傾向に終止符を打ったのは、小王国のひとつであったモスクワ王国です。モスクワ王国によるロシアの天下統一が推し進められて行きますが、その時、外様大名的立場に立たされたのがウクライナです。ウクライナ人もロシア人と同じギリシア正教徒であったにもかかわらず、カトリックのポーランド王国と連合を組んでモスクワに対抗しました。ロシア人にとってこの行為は宗教的裏切り行為と映じたと思います。
そういうわけで、ウクライナとロシアとの間には過去のいきさつからわだかまりがあるので、一筋縄ではいかない事情があるのです。