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生物はなぜ死ぬか?
話の発端は、次のページだ。
→ 「生物ってなぜ死ぬの?」東京大学・小林武彦教授に聞く 生物学からみる「死」と進化 - NHK
ここでは、「生物はなぜ死ぬか?」という問いを立てている。だが、それについての答えは与えられない。
「死があるから生物は進化した。われわれが今の段階にまで進化しえたのは、死があったからだ。死のおかげで今のわれわれがあるのだ」
というふうに、死の意味を答えている。それはそれで、十分に意義のある見解だが、それは最初の問いに対する答えではない。答えは与えられていないままだ。
そこで、これに答えるために、以下ではじっくり考えてみよう。その際、「生物はなぜ死ぬか?」という問いだけでなく、「死とは何か?」という問いも立ててみよう。
生物学的な死
まずは、生物学的な意味での死を考えよう。
生物学的に言えば、死とは、何らかの性質で規定されるものではなく、「生物が生きることをなくした状態」として規定される。「死」という特定の状態があるのではなく、「生」という性質がなくなった状態として規定される。ここでは「生」という性質が先に来る。
では「生」とは何か? それは、簡単には言えない。そこで、非常に長い話をして述べたことがある。ひとつのカテゴリをなしている。
→ 生命とは何か(カテゴリ): Open ブログ (降順)
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ここの結論部では、次のように述べた。
「遺伝子の本質は、遺伝ではなく、(その逆に)遺伝以外のことである。つまり、生命の生存である」
「遺伝子は、『遺伝子』と呼ばれるべきではなく、『生命子』と呼ばれるべきだ」
「遺伝子とは、個体発生の段階で遺伝形質を決めるためだけに作用するのではなく、誕生から死ぬまでのあらゆる生命活動において、たえず作用している」
( → 遺伝子の意味(生命子): Open ブログ )
「遺伝子は、誕生から死ぬまでのあらゆる生命活動において、たえず作用している」
このことが大切だ。生物が生きている限り、代謝や呼吸や成長などのあらゆる場面で遺伝子が作用している。遺伝子が作用しなくなった細胞はすぐに死んでしまう。
ここで、遺伝子が作用するには作用するが、不十分にしか作用しなくなることがある。それが老化だ。それは「部分な死」と言ってもいい。
そういう「部分的な死」は、少しぐらいはあっても大丈夫だ。髪の毛が白髪になったり、皮膚がシワだらけになったり、骨が骨粗鬆症になったりするが、生存そのものを止めるほどではない。
とはいえ、そういう「部分的な死」が一定限度を超えると、臓器そのものが作用しなくなることもある。それを機械や臓器移植で乗り越えることができても、やがてはいつか、生存そのものを支えきれないほどにも「部分的な死」が拡大することがある。そのとき、生物(個体)は生存を止める。……それが「死」だ。
つまり、「死」は、あるとき突発的に訪れるものではなくて、少しずつ蓄積していったあとで、ついに限度を超えたときに訪れるものだ。
比喩的に言えば、ししおどしに似ている。水が少しずつ溜まっても、本体は少し傾くだけだが、ある程度まで傾くと、水が一挙に流れ出てしまう。限度を超えたからである。
※ 「生物には死がプログラムされている」という説もある。だが、それは、「細胞の死」と「生物の死」を混同した発想だろう。なるほど、テロメアには、細胞分裂の回数の上限が設定されている。だが、細胞分裂の限界が、生物の限界を意味するとは限らない。たとえば、毛髪の細胞が死んで、頭がハゲになったとしても、そのこと自体は死をもたらさない。「細胞の死」は遺伝子に組み込まれているとしても、「生物の死」は遺伝子に組み込まれているとは言えない。
※ 遺伝子に組み込まれているのは、あくまで「生」であって、それが限度を超えて不足したときに、「死」が訪れるのだ。その「限度の超え方」は、ケースバイケースであって、遺伝子に組み込まれているとは言いがたい。むしろ後天的な要素が大きい。
死の本質
より本質的に(なかば哲学的に)「死とは何か?」を考えよう。
この件は、上記の「生命とは何か(カテゴリ)」のなかで、最後のあたりで述べたことがある。引用しよう。
生物の一つ一つは、誕生から死までの過程として、生存の期間がある。その期間においてのみ、生きることができる。その意味で、生とは、限界があり、一回限りのものである。
では、それは、残念なことか? いや、すばらしいことだ。なぜなら、不変であり不滅であるということは、永遠に生きるということを意味するのではなく、永遠に死んでいるということを意味するからだ。
生きるということは、本質的に一回限りの限定されたものである。一方、永遠だということは、ずっと死んでいるということだ。生きる機会をずっと味わえないということだ。
( → 自分の遺伝子 10 (生と死): Open ブログ )
人は自分が生きているので、生きている状態を標準状態だと考える。その標準状態がいつまでも続くことを願う。
だが、実はそうではないのだ。物質にとっては「生きていない状態」が標準なのであって、それが永続する。つまり、死が永続する。
一方、生物には、わずかながらも「生きている状態」がある。それは限定された期間に限られるが、「生の喜び」を味わえる貴重な機会だ。たとえわずかだっても、死ではない時間があるのだ。
それでも人は望むかもしれない。「永遠の生があったならなあ」と。実は、それは可能である。それが可能なのは、無性生殖をする単細胞生物だ。無性生殖をする単細胞生物は、体細胞分裂の形で自己複製をするので、寿命をもたない。つまり、死ぬことなく、永遠に生きることができる。
しかし単細胞生物は、「生の喜び」を味わえない。それは最低レベルの生物であり、無性生殖の生物である。一方、有性生殖の生物は、進化する生物であり、その進化のはてに、人間のような高度な知性をもつ生物が誕生した。
われわれが「生の喜び」を味わえるのは、われわれが進化する生物であり、有性生殖の生物であるからだ。そしてそれは、「死ぬことなく、永遠に生きることができる」という無性生殖の生物であることを捨てたからこそ、実現できたことだ。
生物には二通りがある。
・ 無性生殖の生物 …… 進化しないが、永遠の生をもつ
・ 有性生殖の生物 …… 進化できるが、永遠の生をもてない(死がある)
この二通りのうち、人間は後者に属する。だからこそ人は、短い期間ながらも「生の喜び」を味わえるのだ。
そして、それに不満があるような人は、有性生殖の生物であることをやめて、無性生殖の単細胞にでもなってしまえばいいのだ。それなら、満足できるだろう。……いや、間違った。無性生殖の単細胞ならば、満足するという能力さえもないので、「永遠の生」を得ても、満足できないだろう。
結局、「永遠の生をもちたい」と望むことは、時間の長さだけに囚われて、生のすばらしさを見失っているのも同然だ。
人は真に生きたとき、こう叫ぶだろう。
「この一瞬のために自分は生きているのだ」
そうだ。その一瞬だけが大事なのだ。その一瞬さえあれば、他のすべてはどうでもいいのだ。……そう感じることこそ、真に生きるということだ。そして、それは、永遠の生を望むこととは正反対のことなのである。
[ 補足 ]
「有性生殖の生物は、進化する生物であり」
と本文中で述べた。このことは、別項で説明した。
→ 有性生物と無性生物: Open ブログ
ここに記した話は長いが、結論部から一部抜粋しよう。
交配は何を意味するか?
まず、論理的に、すぐに明らかになることがある。こうだ。
「交配では、半分ずつの組み合わせがなされることにより、多様な組み合わせが生じる」
つまり、遺伝子の組み合わせの「多様性」が生じる、ということだ。このことを理解するには、自己複製と比べるといい。
こうして、次の結論が得られる。
「有性生物は進化する」
「有性生物にとって進化は必然である」
つまり、「有性生物であること」と「進化する生物であること」とは、同義なのだ。「生物が進化する」ということは、生物が性を備えた時点で、自動的に導入されているのだ。
対比的に書けば、こうなる。
・ 無性生物 …… 進化しない生物 (自己複製で現状維持)
・ 有性生物 …… 進化する生物 (交配による多様性から)
単純な図で書けば、こうなる。
・ 無性生物 …… 生命 ≠ 進化
・ 有性生物 …… 生命 = 進化 (一体化している)
さらに、次の項目の説明もある。
→ 有性生物の本質: Open ブログ
ここから一部抜粋しよう。
原始的な愛。それは「性」だ。オス・メスの違いという意味の性ではなく、性欲という意味の(本能としての)性だ。── これが、あらゆる有性生物の基本としてある。
だから、有性生物の本質は「愛と性」なのだ。その二つ(愛と性)は、どちらもほぼ同じことを意味する。「親が子の命を守るために、おのれの命を犠牲にする」という精神的な愛もあるし、「親が性欲に駆られて、異性と交尾をする」という原始的な愛もある。いずれにせよ、そこには「愛と性」がある。
愛と性。これが有性生物の本質なのだ。そしてそれは、生物に備わった「利子主義」の発現なのである。生物には利子主義の本能がある。その本能は愛と性だ。そして、この本能は遺伝子によって、個体に仕組まれている。その遺伝子の作用で、個体には本能が発現し、結果的に、個体は利子主義の行動を取るのだ。
有性生物には、愛と性という本能があり、利子主義の行動を取る。だからこそ有性生物は、内部構造的に、進化という性質を備えるようになったのだ。
( ※ 一方、愛と性をもたない無性生物は、利己主義の行動を取るので、進化という性質を内部構造的に備えることができない。内部構造からはずれた例外的な場合に、エラーとして進化が起こるだけだ。)
このように、有性生物と進化の関係が示された。より詳しくは、上記項目を詳しく読むといいだろう。
《 注記 》
「利子主義」というのは、「自分の子供を最優先にする」という立場。利己主義」が「自分を最優先にする」というのとは逆である。「生物の基本的方針は、利己主義ではなく、利子主義である」というのが、本サイトの立場である。詳しくは下記。
→ 有性生物の本質: Open ブログ
さらに「利子主義」は「利全主義」という概念に転じる。
→ 利全主義と系統 (生命の本質): Open ブログ
熱的な擾乱によって遺伝子の複製にエラーが起こり、それらが蓄積するとがんなどの病気になって死に至ると理解しています。女性の卵子は幼い時にできたものを少しずつ小出しにして子供を作るので遺伝子の損傷はほとんどないはずです。でも男性の遺伝子はいつも作り直されているので加齢とともに損傷は増えているはずですね。もしそうなら最近のように晩婚化が進むのは良くないことでしょう。あるいは遺伝子のばらつきが増えることでヒトの進化を早めているのでしょうか。
→ https://ivf-asada.jp/ranshi/ranshinorouka.html
精子は精子で、製造時のエラーが起こりやすくなります。
いずれにせよ、晩婚化で、妊娠しにくくなる。そのせいで少子化が進む……と前に記しました。
http://openblog.seesaa.net/article/472094559.html