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10話は観ると辛くなるから避けてたけど、ここの涼香ちゃんの笑顔が忘れられない??音羽先生と最後の挨拶。
— おなつ (@onatu_0426) November 23, 2021
喜多見チーフのお兄ちゃん感が凄く好き??MERメンバーの背中もカッコイイ?やっぱりMER好きだ。#TOKYOMER #鈴木亮平 #賀来賢人 #佐藤栞里 pic.twitter.com/BjKfAa3BIx
ドラマ論
前に論じたのは、これ。(3カ月ほど前だ。)
→ 悲劇とカタルシス: Open ブログ (9月07日)
ここでは、次のように論じた。
ヒロインが死んだので、視聴者の阿鼻叫喚の声がツイッターで渦巻いている。
副主人公格の男女が恋愛をして、いい感じになって、もうすぐ結ばれるという予感が見えたところで、女の方が一挙に爆死する。
視聴者の方は、自分が恋愛をしている気分になって、浮き浮きしていたら、一挙に爆死という結果になって、ショックで呆然としてしまったようだ。自分自身が死んだような衝撃を受けた女性が多いようだ。
なぜ、これほどの衝撃を与えることに成功したか? それは、次のことによる。
「その直前に、幸福感いっぱいの情景が示されたことで、天国から地獄へという急激な墜落感をもたらした。幸福と不幸のコントラストが、より大きな衝撃をもたらした」
このあとで視聴者は疑問に思うだろう。
「なぜそのような衝撃を与えるんだ。視聴者に大きな衝撃を与えて、悲しませて、苦しませて、何がいいんだ。どうせなら、ハッピーエンドにしてほしかった。二人が幸福な結婚で結びついてほしかった。……なのに、ヒロインを殺すなんて。脚本家は、鬼か? サディストか? ひどすぎる」
このあとで、私はいろいろと説明を続けた。
「悲劇とはそういうものなのだ。悲しいクライマックスのあとで、カタルシスが来るものだ」
と。
そして、そこで次回を予測したように、実際、次回にはカタルシスとなる最終回が来た。それを見ると、前回に悲しいクライマックスがあったことに納得した視聴者が多いようだ。
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しかし、それでもまだ「納得できない」という視聴者もいくらかは残ったようだ。
「そういうカタルシスのために、悲しいクライマックスが用意されるというのはわかるが、しかしそれにしても、やりすぎだろ。ヒロインが死んでしまったことの悲しみは、ずっと胸に痛みとして残る。どうにもやりきれない!」
その上で、こう疑問を突きつける。
「別に、ヒロインが死ななくてもいいはずだ。なのに、どうしてヒロインを死なせたんだ。こんなふうに死んでしまったことが、どうしても納得できない! ヒロインが死ぬことの必要性があるのか?」
その疑問に、以下で答えよう。
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実は、この疑問には、私が答えるまでもなく、脚本家自身が答えている。次の趣旨だ。
世間では「ヒロインが死ぬ必要性がない」という人が多い。だが、「わけもなく不条理に突然死んでしまう」ということが、現実に起こっているのだ。それはコロナによる大量死だ。現実そのものが不条理な死にあふれているのだ。それを、この作品でも反映したのだ。
具体的に引用しよう。
「ちょっとだけ真面目な話をしますと、コロナ禍が続いて、毎日発表される感染者数や死者数がまるで記号のようになっているように感じます。でも、一人の死者には家族や友人や大切に思ってくれていた人たちが大勢いて、それは数字や記号なんかじゃなくて、とてつもなく重いもののはずです。そして、そういう現実を医療従事者の方々は背負って今日も頑張ってくれているのだと思います。だからこそ『MER』では『死者0』の有難さと『死者1』の重みをしっかりと表現したいなと思いました。
( → 「TOKYO MER」脚本・黒岩勉氏“死者1”に込めた思い「記号なんかじゃない とてつもなく重い」― スポニチ )
また、作品中でヒロインを殺したテロリスト自身が、同様のことを言っている。
「喜多見先生、嬉しそうに写真を見せてくれましたよね? 俺の自慢の妹だって。あのときお伝えしましたよね? 私を助けたこと必ず後悔させます、と。
約束は守りました、喜多見先生。わかってほしかったんです。いつも満面の笑みで理想を語っていた喜多見先生に。世の中は不条理だってこと」
( → 『TOKYO MER』死者1名はだれだった?佐藤栞里ちゃん(喜多見の妹・涼香)はなぜ死んだ?爆発事故?テロ?死因は?【第10話ネタバレ】 | ゴータンクラブ )
世の中は不条理だと知らせたかった、と言う。これはつまり、「死は不条理なものなんだ」ということだ。
つまり、「ヒロインが死ぬことの必要性を示せ!」と文句を言う視聴者に対して、「死というのはそもそも必然性がないものなんだ。わけもなく不条理に襲いかかってくるものなんだ」と切って返すわけだ。「大震災を見ろ。コロナを見ろ。死はいつも必然性もなしに勝手に襲いかかってくるものなんだ。それが現実なんだ」と。
たしかに現実はそういうものだ。ドラマには必然性が必要なことが多いが、現実というのはそういうふうに都合よく起こるものではない。現実には合理的に説明の付くこともあるが、合理的な説明の付かないこと、突発的な不可抗力のようなこともある。
実を言うと……
死に「必要性がない」というのは、殺す側にとって「実利がない」ということだ。つまり、テロリストにとって「テロをすることのメリットがない」ということだ。
とすれば、それは単に「殺したいから殺す」というだけのことだ。そこにあるのは、純粋な悪意だけである。いわば絶対悪とも言える。
そして、そういう絶対悪さえもを救おうとするのが、純粋な善意である。いわば絶対善とも言える。
そして、そういう絶対善を示すことによって、カタルシスが得られたのだ。
だから、ストーリーの上では、死には「必要性がない」としても、そのことゆえに、かえって作劇術としては「必要性があった」ことになる。死に「必然性がない」としても、「死に必然性がない」こと自体が、作劇術として必然的であったことになる。
そこまで理解すれば、ドラマの全体を深く理解できるようになるだろう。
人間論
それでもまだ、文句を言う人がいそうだ。
「たとえドラマとして必要性があるとしても、だからといってどうして、視聴者に、こんなつらい思いを味わわせるんだ。たまたま ちょっとテレビを見たからといって、何だってこんなにつらい思いを味わわなくちゃならないんだ。人をこれほどにも苦しめるなんて、あんたたち制作者はサディストか!」
そういうふうに文句たらたらになる人もいそうだ。
そこで、答えよう。
前回項目でも述べたが、これは現実のことではないのだ。
視聴者の皆さんは、ドラマにのめりこんで、「かわいい妹が死んでしまった!」と衝撃を受けているようだが、これはドラマなんですよ。架空の人間の話。実際に誰かが死んだわけじゃない。
ドラマは現実ではない。ドラマと現実とは違う。……当たり前のことではあるが、この区別をきちんとしよう。
ドラマを見て、いくら悲しい感情を味わったとしても、それは架空の世界のことである。決して現実のことではない。ドラマから現実に戻れば、そこには平穏な世界が待っている。
ヒロインにしてもそうだ。ドラマのなかでは、ヒロインは死んでしまった。
TOKYO MER第10話見終わったけど泣けた(´°????????ω°????????`)
— hide (@hide03410539) September 6, 2021
まさか涼香さんが亡くなったとは…(´・ω・`)
涼香さんが亡くなっちゃったから喜多見さん1人ぼっちになったから可哀想…#TOKYOMER pic.twitter.com/u3pnRc3K3B
しかし、ひとたび現実世界に帰れば、そこには涼香を演じた女優がニッコリと笑っている。
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— 【公式】TOKYO MER 走る緊急救命室-TBS日曜劇場- (@tokyo_mer_tbs) July 27, 2021
07.27 佐藤栞里さん
??HAPPY BIRTHDAY??
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今日は喜多見涼香役 #佐藤栞里 さんのお誕生日です!
おめでとうございます??
第5話は涼香さんも活躍します?
まだ火曜日だけど待ちきれない??!!#tokyomer pic.twitter.com/XXLGBuw4jt
ドラマと現実とは違うのだ。ドラマにおいてどれほどつらい体験を味わおうとも、それは決して現実の苦しみをもたらさない。少し時間がたてば、つらい思いはどこかへ霧のように消えていく。
しかし、この世界には現実の死というものがある。それは「テレビを見終えてスイッチを切ったら、消えてしまうもの」ではない。決していつまでも消えないものだ。そういうものと、人はいつか必ず直面する。
若い人にとって、死は身近なものではない。誰かが死んだとしても、それはただの他人事である。それらの死は自分には無関係なものだ。身近な死と言えば、せいぜい祖父母や親戚の死だが、それも「年寄りが死んだ」と思うぐらいで、若い自分には無縁のことに感じられる。
とはいえ、人は年齢を重ねるにつれて、身近な人が死ぬようになる。先輩や、同級生や、親しい友人など。そういう体験が少しずつ積まれていく。そしてそれは、自分の死が間近になったということでもある。死は他人事ではなく、死はまさしく自分に親しいものとなる。
知人や友人が死ぬだけではない。自分の親が死ぬ。自分の兄弟が死ぬ。かけがえのない人を失ったことで、号泣する。そういう時期が、いつか来る。
そしてまた、社会の不条理が周囲にあふれている。正しいことが通らない。悪や間違いがのさばる。悪党が汚い金をせしめて大笑いしているが、その横では心のきれいな人々が死んでいく。現実はかくも不条理だ。
TOKYO MER における死は、そういう現実への先取りでもある。人々はドラマを見て、架空の世界で死を体験することで、やがて来る現実の死への予行演習となる。すると、いくらか耐性がつく。あらかじめ大量の涙を流して不幸を疑似体験することで、将来に来る現実の不幸に耐性がつく。
あなたもやがては親を亡くすだろう。ひょっとしたら、もっと大きな不幸が訪れるかもしれない。運が悪ければ、妻や夫を亡くすかもしれない。自分の子供をなくすかもしれない。愛のさなかで、愛する恋人を死によって奪われるかもしれない。……そのとき、いきなり死が訪れると、自分が崩壊するかもしれない。
そこで、あらかじめ架空のドラマで不幸を体験することで、耐性を付けることができる。いわば免疫を付けるように。
つまり、ドラマにおける死の体験は、一種のワクチンなのだ。そこで味わった悲しみがあなたに免疫力を付ける。あなたがドラマを見て、悲しんで苦しんで不幸のどん底に突き落とされたなら、そのことが、やがて来る現実の死への免疫力をもたらす。
そしてまたそれは、人に優しさをもたらす。ドラマの世界で死の悲しみを味わった人は、現実に愛する人をなくしたという誰かの姿を見たとき、その人に対して優しい気持ちをもつことができる。
そうだ。子供のころには、死は無関係な他人事にすぎなかったのに、ひとたび死の悲しみを味わったあとでは、死は無関係な他人事ではない。だから、身近な人の死に苦しんでいる人の姿を見ても、共感の気持ちで、優しい気持ちになれる。
あなたが苦しめば苦しむほど、あなたは優しい人になれる。……あなたがドラマを見て苦しんだことは、決して無駄なことではないのだ。それはあなたという人をいっそう豊かにしてくれるのだ。
※ YouTube に 視聴者コメントあり
