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朝日の記事にある。
日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生した。
弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。
( → 日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説:朝日新聞 )
はてなブックマーク のコメントによると、元論文では、DNAの比率が、東アジア6、弥生2.5、縄文1.5くらいであるそうだ。
この人骨は「1500年前の金沢」ということから、古墳人が日本に流入したのは、1500年前よりももう少し前だと推定される。
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さて。以上は新たな情報をメモふうに紹介しただけだが、本サイトでは独自見解を加えよう。それは、古代文献との照合だ。特に、日本書紀との照合だ。(書誌的事実との照合。)
前に、次のように述べた。
・ 古墳や遺跡から、出雲には強大な文化圏があったことは確実。
・ 古事記や日本書紀などの神話から、出雲の影響は絶大だったはず。
・ 古代出雲とヤマト王権とには、何らかの関係がある。
( → 出雲文化とヤマト王権: Open ブログ )
ここでは、出雲の重要性が述べられている。出雲というと、たいていの人は、山陰旅行で出雲大社に行ったときのことぐらいしか覚えていないだろう。しかしここは日本人のルーツといってもいいほどの重要性を帯びているのだ。(日本の最初期。)
ただし、どうしてそれが出雲であるのかが、不明だった。縄文人はすでに日本の各地に広く分布していたし、弥生人だってかなり広範に分布していた。ただしそれらはいずれも文化圏を構成しなかった。
ところが古墳時代の前には、出雲に文化圏が誕生したのだ。九州でもなく、近畿でもなく、出雲である。そこは、気象的には雪が多くて住みにくいし、交通的には日本海の荒波があって交通が不便である。瀬戸内海沿岸ならばはるかに済みやすくて文化が誕生しやすいのに、どうして辺境である出雲に最初の文化圏が誕生したのか?
その謎には、今回の新説が説明を与える。
出雲に文化圏が誕生させたのは、もともと日本にいた人々(縄文人や弥生人)ではなかったのだ。日本の外部から来た人々(古墳人)だったのだ。彼らが日本に来たとき、その最初の到着点が、北九州から出雲までの海辺だった。だからこそ出雲のあたりに文化圏が出現したのだ。
そして、そのあとは? 「出雲の王朝が隆盛して、その後の日本の大和朝廷に結びついた」と言いたいところだが、現実には、そうはならなかった。大和朝廷のルーツは、出雲の文化圏と何らかの関係があったようだが、どうも中央よりは周辺部にいたらしい。
そこから特別な豪傑が出現した。その名を神武天皇という。
神武天皇が九州を出て畿内に達して大きな権力を確立する過程は、「神武東征」という言葉で説明されてきた。
大分県に近い宮崎県の高千穂のあたりを出発点として、豊予海峡を抜けて、関門海峡を渡ってから、瀬戸内海沿いに大阪まで達する。そこで上陸するかわりに、紀伊半島を南に回って、熊野灘で上陸したあと、奈良のあたりまで達する。
→ 神武東征 の画像(地図)
これが「神武東征」だ。日本書紀に記されているが、経路についてはおおむね史実であったとされる。
( → 邪馬台国の謎 2: Open ブログ )
これは大和朝廷が形成されるよりも、かなり前の時代のことである。(詳細は上記記事)
ともあれ、そのころには、北九州や出雲から、近畿に向かって進んでいく流れがあった。それは書誌的に判明していることだ。
こういう書誌的な事実と、銅鐸などの考古学的な事実と、今回の遺伝子的な事実とを、すべて照合することで、統一的な古代史観を形成することができる。いろいろな観点から、広く見ることが大切なのだ。
【 関連項目 】
→ 邪馬台国の謎: Open ブログ
→ 邪馬台国の謎 2: Open ブログ
→ 出雲文化とヤマト王権: Open ブログ
以下は、韓国人の考察です。ハプログループの説明が分かりやすい・・・
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/32433857.html
https://ontomo-mag.com/article/column/ontori-tabi-hakone-hachiri201807/
即位は西暦241年かな?
古墳造営に大きく関わったのは弥生時代から記録される 海人 海神系の北部九州 海洋民らですから海路なんでしょうか 彼らはどんな山奥にも到達しましたがね(奥飛騨にも)
琉球 アイヌ系縄文人との関わりも難しいな
日本語の起源に関しては、ウラル・アルタイ語とチベット・ベトナム語が融合した?
古代日本正史、原田常治氏の受け売りですf(^^;)
それは出雲だけでなく日本海側各地から
博多の例の宗像神社あたりも含め
吉野ケ里への貢物が多数あったことが展示有り
で、出雲はそんなに古いという感じがしなく、
大和朝廷云々への直接的継承があるのか疑問
タタラ技術が朝鮮から本格導入された頃に、
大和朝廷以降は女性含めての貢ぎものなどで、
畿内との混血を産む母体とはなっている感
それよりも紀元前後にユダヤ人が百万人程度、
アルタイ、中国を追われ、日本に流れ着いて、
伊勢・京都太秦文化を形成したことは
最近見えてきた史実。
百万人の人数は当時の数割に達し、
神輿文化は今の日本各地に京文化として伝承
最近、ユダの民を探し日本に研究者が来る所以
想えば、文化調査の権威の人達が、
1980年頃とかずいぶん昔に
何故か日本海側各地の祭の掛け声は
ヘブライ語にそっくりだ。
という原因を不明としていた記憶が浮かびます
そもそもアジア各地の海辺には
ユダヤ人の入植が多数あることも今では有名
今の華僑のように舟で世界に出ていたようで
日本はトランスユーラシア語族らしい・・・
https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/13869
https://news.yahoo.co.jp/articles/a0b55fa1e4c553c7c8e2dbd41a86ff667dcd7039
その はてブ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/a0b55fa1e4c553c7c8e2dbd41a86ff667dcd7039
批判
https://anond.hatelabo.jp/20211121124146
注釈
https://anond.hatelabo.jp/20211121192228
結局、上記の説は、古墳人の説と整合性がとれないので、はっきりとしたことは言えない。
人種、民族が言語をつくるというよりは、その地方の方言が強く、お国言葉は今でも進化中です(笑)