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これは、夫婦同姓を合憲とした最高裁判決について当てはまる。下記を参照。
→ 夫婦同姓の合憲判決: Open ブログ
最高裁判決は、夫婦同姓を合憲とした根拠に、次のことを掲げた。
なお、夫婦の姓についてどのような制度を採るのが立法政策として相当かという問題は、夫婦同姓を定める現行法の規定が憲法24条に違反して無効かどうかという憲法適合性の審査の問題とは次元が異なる。この種の制度のあり方は、国会で議論し、判断すべき事柄だ。
ここで、「国会で議論し、判断すべき」と結論した理由は何か? 裁判所の司法の判断よりも、国会を優位に置く結論の理由は何か? 当然、次のことだ。
「国会は、国権の最高機関である」(憲法 第41条)
そのまた理由は、次のことだ。
「国会は、選挙制度を通じて、民意を反映しているので、最も重要である」
なるほど。ここまではいい。
だが、このことが成立するためには、次のことが前提となる。
「国会は、選挙制度を通じて、民意を反映している」
では、これは成立するか? 成立しない。なぜなら、1票の格差が2倍以上の歪みがあるからだ。特に、次の衆院選では、2倍を超えることが確定している。
2020年国勢調査を基に衆参両院の選挙区別人口を集計した。衆院小選挙区で人口が最少の鳥取2区と最多の東京22区の「1票の格差」は2.094倍だった。
( → 衆院小選挙区「10増10減」適用へ 20年国勢調査で算出: 日本経済新聞 )
このことは、今になって急に判明したことではない。2018年において、とっくに判明していたことだ。なのに国会は、無為無策で、違憲状態を放置してきたのである。その結果が、今の状態だ。
2017年6月9日、小選挙区数を6つ削減し、13都道府県でも1票の格差が2倍未満になるように「0増6減」の選挙区見直しを定めた法案が国会で成立した。
しかし、2018年12月27日総務省が発表した「平成30年9月登録日現在選挙人名簿及び在外選挙人名簿登録者数」によれば、衆議院小選挙区別登録者数は、最多が東京都第13区476,662人、最少が鳥取県第1区237,823人となり、登録者数の最大格差が2.004倍となり、2倍を超えた。翌年以降発表の同統計においても、2倍を超えた状態となっている。
( → 2018年 )
将来的には、この格差は2倍をかなり下回ることが予定されている。16年に成立した衆院選挙制度改革関連法で、「アダムス方式」が導入されたからだ。
→ 衆院小選挙区「10増10減」適用へ 20年国勢調査で算出: 日本経済新聞
結果的には、格差は最大 1.695倍まで縮小する見込みだ。
→ 衆院小選挙区「10増10減」 東京5増、10県で減―アダムズ方式初適用:時事ドットコム
とはいえ、この法律が決まったのが 16年であるなら、21年に実施される衆院選でも、この方式を導入するべきだった。5年もあるのなら、時間的な余裕はたっぷりあるからだ。なのにそうしなかったのは、立法府の不作為と言える。
のみならず、参院選では3倍以上の格差が放置されている。
参院選挙区の1票の格差は議員1人あたりの人口が最多の宮城県と最少の福井県で3.026倍となった。
( → 衆院小選挙区「10増10減」適用へ 20年国勢調査で算出: 日本経済新聞 )
立法府の不作為は、あまりにもひどいと言える。
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ここで、先の話題に立ち返ろう。最高裁が国会を(司法よりも)重視する理由は、
「国会は、選挙制度を通じて、民意を反映している」
ということだった。ところが、それは成立していないのである! (上記)
本来ならば、国会は1票の格差を是正して、民意を反映しているはずだった。ところが実際には、1票の格差の歪みを放置したせいで、民意を反映しない国会となっている。
その民意を反映しない国会が、「民意を反映している」と見なされて、国権の最高機関とされて、最高裁よりも優位に立つべきだ、と最高裁自身が結論している。
これはひどいパラドックスだろう。
「国会は民意を反映する」というが、民意を反映させるための方法を、国会自身が(自分勝手に)決めている。つまり、「国会とは何か」を国会自身が決めている。これでは、自己言及文のパラドックスと同様の構造をもつことになる。(自己回帰して無限循環する。)
「国会とは何か? それは国会が決めます」
「私は利口である。それは私自身が判断する」
こういうタイプの構造は、自分で自分を決めているので、自己回帰型のパラドックスである。
ただし、自己言及文のパラドックスとまったく同じではない。論理矛盾が発生するわけでもない。自己言及文のパラドックスだと、「どう解釈しても偽」となって矛盾してしまったが、今回のパラドックスでは、「どう解釈しても真」となるような感じで、何でもかんでも好都合に認めてしまっているのである。
このようなパラドックスを「独裁政治のパラドックス」と呼ぶことにしよう。
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最高裁の主張していることは、一見、まともな見解であるように見えるが、それは「独裁政治のパラドックス」である。
「国会は民主的に選ばれる」
という前提で結論しているのだが、その国会が何であるかを決めるのは、国会自身であるから、国会がいくらでも好き勝手に決めることができるのだ。
これは
「私は利口だ。なぜなら私が自分を利口だと判断しているからだ」
と言っているのと同様である。
他人がこの人を利口だと判断しているのであれば、その判断は信頼できるが、本人が自分で自分を利口だと判断しているのであれば、その判断は信頼できない。
( ※ 本当は馬鹿が自惚れて、そう思い込んでいるだけかもしれない。)
国会もまた同様である。「国会は民主的だ」と最高裁は判断しているが、国会をどう決めるかを国会自身が決めているのでは、その国会は民主的だとは言えないのだ。
自己回帰型の論理は、その構造自身のうちにパラドックスを含む。従って、その言明は何ら信頼できるものではない。
最高裁が「国会は民主的に決まるので、国会の判断は優先される」と思っても、その国会を決めるのが国会自身である限りは、馬鹿が自分を利口と呼ぶようなものだし、犯罪者が自分を警官と呼ぶようなものだ。そんなものを信頼するのは、あまりにもナンセンスなのだ。
今回の最高裁の判決のひどさは、そういうナンセンスによる。
