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これについてググってみたところ、そのものズバリのタイトルの書籍があった。「ヒトはなぜ笑うのか」(マシュー・M. ハーレー)という本だ。2015年の本だが、当時、話題になったので、記憶している人もいるだろう。
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本書の趣旨は、次の通り:
対象に何らかの誤りまたは不一致を見出したとき、おかしみを感じて、笑いが生じる。それは一種の報酬である。この報酬が得られるから、人は思考の失敗(バグ)を見出せるようになる。
訳者あとがきから引用しよう。
キレのいいネタを聞いたり絶妙な偶然の重なりがうんだ間抜けな失敗を目の当たりにしたとき、わたしたちの胸の内に――いや、腹の底に?――愉快な情動がわきおこってくる。このおかしみ、ユーモアの情動は、知識・信念に不一致を見いだしたときに生じる。この「不一致」とその条件は、きわめて限定されている [A]。
不一致の発見で生じるおかしみ・ユーモアの情動は、一種の報酬だ。エネルギーたっぷりの果糖がもたらす甘さの快感が果糖を含む食べ物を探し求める動機付けになるのと同じように、ユーモアの情動は、知識・信念のバグをつきとめる作業をうながす動機付けになっている。これが、進化におけるユーモア情動の適応的なはたらきだ [B]。
ヒトの知性は、こうしたさまざまな「認識的情動」(epistemic emotions) によって制御・動機付けを受けて機能している[C]。
( → 訳者あとがき )
このうち、特に問題なのは [B] だ。これについては、こう説明されている。
私たちがジョークやコントを愛好しているのは、こうした基本的な機能の拡張・転用だというのが、著者たちの説明です。進化における適応にとっての都合なんて、個体としての私たちには知ったことじゃありません。果糖探知機の報酬として進化した甘さのよろこびをハックして、私たちヒトはチョコレートケーキのような超常刺激をあれこれとつくりだし、主観的なたのしみを追求しています。それと同じように、もともとはバグとりの報酬として進化してきたとしても、この報酬がもたらす主観的な快感こそが私たち個体にとって大事なことであり、ユーモアのメカニズムをハックしておかしみの快感を人為的にいっそう強烈に味わうすべを、私たちは開発してきたのだ――そう著者たちは言います。もちろん、おきらくなポップ進化心理学のあやうさは著者たちも承知しており、注意深く論証が展開されています。
( → 訳者あとがき - ヒトはなぜ笑うのか|サポートページ )
著者はどうも、自分の言っていることを自分でも理解できていないようだ。
「私たちがジョークやコントを愛好しているのは、こうした基本的な機能の拡張・転用だというのが、著者たちの説明です」
とある。なるほど、それはそうだろう。そのことには異論はない。だが、そのことは、笑いの理由や根源を説明しない。むしろ笑いの応用や派生物を説明する。
われわれが問うているのは、「なぜ笑いが生じるか」と言うことであり、笑いをもたらす根源である。一方、「笑いによってジョークやコントを楽しめる」というのは、根源とは逆の派生物・展開物である。
◯ ◯ ◯
\|/
↑
[ 笑い ]
↑
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
?????
笑いをもたらす何かがある。それは笑いの根源だ。それが何であるかを、われわれは探ろうとしている。
一方、(人間に)笑いをもたらす構造があるおかげで、(社会に)ジョークやコントという文化が生じる。これは生物学的な構造の上に花開いた、文化的な派生物・展開物だ。
なるほど、(人間に)笑いがあると、ジョークやコントを報酬として楽しめる。しかし、そういう報酬を目的として(人間に)笑いがあるというのは、話の順序が逆だ。論理が倒錯している。なぜか? ジョークやコントという文化が生じるよりも、ずっと前から(何十万年も前から)人には笑いというものが備わっていたはずだからだ。
つまり、ユーモアのような楽しみが生じるよりもずっと前から、人間には生物学的な笑いがあったはずなのだ。とすれば、笑いを「報酬」で説明するのは、妥当ではない。
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さらに言えば、もっと直接的な理由(生物学的な理由)がある。
上の「報酬説」を唱えたのは、生物学者ではない。著者は三人いるが、いずれも生物学者ではない。
本書は、計算認知科学者(ハーレー)、哲学者(デネット)、心理学者(アダムズ)の共同研究で、ユーモアという情動の仕組みを明らかにしようと試みた仮説を提示しています。
生物学のことを知らない素人が、勝手に「報酬説」というものを出していうわけだ。
だが、生物学者ならば、「報酬」というものがもっと具体的な意味を持つことを知っているる。それは、次のことだ。
「生物にははっきりとした報酬がもたらされることがある。それは、快感だ。特に、性的快感だ。特に、オスの性的快感は強烈だ。だからオスは、性的快感を求めて、ほとんど自己犠牲または狂気と呼べるほどの、非常にエネルギーを浪費する行動を取る」
このようなことは、ほとんどの生物のオスに見出される。オスはメスと交尾するために、あれやこれやと非常に多くの努力をする。それほどにも強い情動に促される。なぜか? それは、「快感」(性的快感)を得るためである。そして、それこそが、最大の報酬なのである。
たとえば、少し前では、乳房のサイズの話をした。そこでは、乳房というものにものすごく引きつけられる男性の
他の動物でも同様で、たとえば、カゲロウの乱舞という現象がある。この件は、前に別項で紹介した。再掲しよう。( NHK へのリンクは切れているが。)
そもそも「快感」というものが生物に備わっているのは、それが生物にとって生存に有利であるからだ。たとえば、
・ 満腹感の快感 → 食事を促す
・ 交尾の快感 → 交尾を促す
こういうふうに生存や繁殖という生物的な原理に影響する。だからこそ、強い快感が得られる。
特に、交尾では、オスの側で強い快感が得られる。命を賭けるほどにも強い快感が得られる。それは、昆虫でも同様であって、交尾のために生命を賭ける昆虫の例は多い。具体的な例としては、ミツバチ、カマキリなどの例が有名だが、下記番組では、カゲロウの例が示されている。
→ NHK「ダーウィンが来た」第581回「数百万匹の大乱舞 奇跡の絶景!ティサの開花」
( → 心はどこにあるか?/快感とは何か? : Open ブログ )
ここでは、快感の意味も説明されている。それは決して「報酬」ではない。むしろ「錯覚」である。ありもしない報酬があるかのごとく錯覚させるもの。それが「快感」なのだ。
オスは交尾のために必死に行動する。それは交尾で強い快感が得られるからだ。ではなぜ、強い快感が得られるか? 強い快感自体が目的だからか? 違う。生物が交尾するのは、交尾そのものが、生物の生存戦略にとって必要不可避だからだ。(交尾しなくては、その生物種は滅びてしまうからだ。)
そして、そこでは、交尾は「命を代償として提供する」ことが要求される。オスは、個体としての自分が生きるためだけならば、交尾をしないでのんびりと長生きした方がいい。しかしそれでは、交尾しないままで、次世代が生まれずに、生物種は滅びてしまう。そこで、命を代償としてまでも、交尾に突き進む必要があるのだ。そうさせるものが「快感」ないし「(快感を得る前の)飢餓感」なのである。
つまり、「快感」ないし「(快感を得る前の)飢餓感」というものは、それ自体が最終的な目的ではなくて、一種の「目標」なのである。
それは、「獲物を釣るためのエサ」のようなものなのだ。パン食い競争のパンのようなものなのだ。それを見せつけて、それに食いつかせることを狙っている。とすれば、それは、個体の真の目標ではなく、個体の真の目標であると見せかけるための錯覚物なのだ。
実は、交尾をしても、オスは何も得られない。動物ならば、どんな食物も得られない。人間ならば、どんな金も富も得られない。そういうふうにオスは何も得られないのだが、それにもかかわらずオスは死にものぐるいで交尾する必要がある。そこで、「交尾は素晴らしいものだ」と錯覚させる必要がある。そういう錯覚をもたらすものが、「快感」なのだ。
( → 心はどこにあるか?/快感とは何か? : Open ブログ )
生物が交尾で得られるのは、快感である。それは報酬ではなく、報酬であると錯覚されたものである。いわば「見せかけの報酬」である。そういうものを得るために、生物は自らの命を捨てるほどの努力をする。何のために? 自分のためにか? 違う。子孫を残すためにだ。(遺伝子を残すためと言ってもいい。)
結局、こうだ。
本書の著者は、「笑いは報酬のため」という説を出すが、それはまったく成立しない。
第1に、大昔には、ユーモアのような楽しみは存在していなかったし、笑いが報酬となることもなかった。
第2に、(生物学的な)報酬ならば、快感という形で与えるべきであって、笑いは特に快感と言うほどではないのだ。ちょっと楽しいという程度のことにすぎない。
第3に、(これはまだ言っていなかったが)「笑いという報酬を得るために思考のバグを探そう」という意思は、生じるはずがない。「性的快感を得るために、性的な努力を必死にしよう」と思うオスは数限りなくいる。しかし、「笑いという報酬を得るために思考のバグを探そう」という努力など、なそうとする人はいない。
※ たとえば、コンピュータのプログラムのバグを探そうとする人は、そのバグを見つけると笑えて楽しいからバグを探すのだ……ということは成立しない。そんなことのために必死にバグを探そうとするはずがない。仕事だから、金のために、必死になってバグを探すだけだ。こんなことを望んでやっているプログラマーは一人もいないだろう。「こんな面倒なことは、できれば他人に任せたい」と思うプログラマーばかりであるはずだ。
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というわけで、「笑いは報酬だ」という説については、すでに否定してきた。
ただし、注意。他の2点については、否定していない。むしろ、肯定できるだろう。
実は、それらと同様のことは、私も前から考えていた。ただし、別の表現で認識した。それは、次のことだ。
「人の脳には、エラーに対する自動検出システムが備わっている」
これは、次のことを意味する。
「人は、話を聞いてエラーを感じたときに、いちいちエラーの理由を考えたりすることなく、自動的にエラーを検知することができる。ほとんど直感的に。……そういうシステムがあって、エラーを検知したときに、人に笑いをもたらす」
真面目で厳粛な場で、ついトンチンカンな現象が起こると、正しい流れからの逸脱を感じ取る。すると、どこがどう間違っているかを分析するまでもなく、直感的に笑いが生じる。
たとえば、学校の校長先生が、いかめしい顔をして訓辞を述べているときに、たまたまクシャミをして、そのときカツラが落ちてしまった……というようなとき。
あるいは、安倍首相が答弁書を読み上げるときに、「云々(うんぬん)」を「でんでん」と読み間違えたとき。
こういうときには、どこがおかしいかを分析するまでもなく、直感的に笑いが生じる。
こういう「エラー検知システム」が脳に備わっている、ということが大切だ。
※ これは私の主張だが、ほぼ同趣旨のことは、上記の本にも記してある。とはいえ、私の主張ほど明確ではない。
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さて。そのような「エラー検知システム」があることを前提とした上で、改めて問い直そう。「笑いは何のためにあるのか?」と。
それに対して、私はこう答える。
「笑いは、弛緩のためにある。緊張を抜くためにある」
これはどういうことかというと、生物学的には、次のことに相当する。
「それまでは緊張して交感神経の支配下にあったが、その緊張を抜いて副交感神経の支配下に置こうとする」
その意味は、こうだ。
「それまではずっと緊張して張りつめていた。しかし緊張がずっと続くと、疲労したせいで、かえってエラーが起こりやすくなる。緊張があまりにも長く続くことは、有害なのだ。交感神経の支配下にある状況が長く続きすぎるのは、有害なのだ。そこで、いったん緊張を抜いて、弛緩して、休憩を取る方がいい。そのためのキー(許可証のようなもの)が、笑いだ」
「笑いが生じると、人はケラケラと笑って、緊張を抜く。いったん休憩を取る。人が笑っているときには、もはや警戒態勢を続ける必要がないのだ、とわかる。そして、笑いながら休むことで、これまでの疲労を癒す。今後のために」
つまり、交感神経の支配下から副交感神経の支配下へと移るために、笑いというものはあるのだ。
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笑いと副交感神経の関係については、次の説明がある。
笑うと副交感神経が優位になり、ストレスホルモンの分泌が減少し、脳の温度が下がります。
( → 笑う 〜ストレス解消法〜 │ 生活習慣病を予防する 特定非営利活動法人 日本成人病予防協会 )
また、次の生物学的な現象も知られている。
「顔の筋肉が弛緩すると、全身の筋肉が弛緩する」
= 顔でケラケラと笑うと、全身の筋肉の緊張が抜ける。
これと関連するが、次の現象もある。
「悲しんだり苦しんだりしているときにも、酒を飲んで酔いつぶれると、顔の筋肉が緩んで、笑い顔になることがある。さっきまでの悲壮な顔つきがすっかり変わっている」
これもまた、「笑いと副交感神経」という関連でとらえると、わかりやすいだろう。
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ともあれ、笑いは、緊張を抜くためにある。そして、それは、緊張を抜くこと自体が目的なのではなく、いったん休養を与えることで、神経を回復させて、将来の異常行動を防止することが目的なのだ。
このことは、前項の「涙は(停止を通じて)再起動をもたらす」という話に似ている。
・ 涙 → 思考の一時停止 → 思考の再起動
・ 笑い → 緊張の緩和・弛緩 → 休憩と回復 (異常行動の防止)
涙が思考を止めるのも、笑いが緊張をほぐすのも、それ自体が目的なのではなく、それによって将来の正常な状態をもたらすことが目的なのである。
ここまで理解したときに、「笑いは何のためにあるか」について、はっきりとした答えを得たことになる。
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《 加筆 》
上のことの背景にあるのは、次のことだ。
「人は、疲れたり弱まったりすることのある、生物である」
一方、先の本の著者たちの発想は、こうである。
「笑いというものを理解するには、笑いを数理的に考えればいい」
しかしそれは、科学的であるように見えながら、「人間を機械として扱う」という方針であって、「人間は生物である」という真実から遠ざかってしまうのだ。……ここでは、「科学的であればあるほど、かえって真実から遠ざかる」という逆説に陥っている。
人間の心理を扱おうとするなら、人間を数字で見るよりは、人間を生物としてみるべきなのだ。そこに留意しないと、先の本の著者のように、歩むべき道を間違えてしまう。
[ 付記 ]
エラーを検知したときに笑うだけでなく、喜んだとき・幸福なときにも、人は笑う。ニッコリする。それはなぜか?
もちろん、副交感神経の支配下にあるからだ。緊張を抜いて、ゆったりとして、くつろげる。
こうして、まったく無関係に見える二つの状態に共通点があることがわかる。
・ 喜びや幸福感 → 笑い(副交感神経の支配下)
・ エラーの検知 → 笑い(副交感神経の支配下)
前者ではニコニコ微笑することが多く、後者ではケラケラ笑うことが多い。その違いは? たぶん、量的な違いだろう。後者は緊張の中でいきなり出現することで、笑いが意外である分、笑いの程度が大きくなる。そういう差だと思える。
【 関連項目 】
→ 涙は何のため?: Open ブログ (前項)