2021年06月03日

◆ 縄文遺跡群が世界遺産に

 縄文遺跡群が世界文化遺産に登録される見込みとなった。そこでじっくり考えてみる。

 ※ 長文です。通常の二〜三日分ぐらいあります。


 ――

 長い話になるが、さまざまな観点からとらえてみよう。
 以下のように、章分けして述べる。

 《 目次 》

 世界遺産に登録
 狩猟生活と定住
 現地の写真
 保存食と気温
 竪穴式住居
 掘立柱建物
 農耕と定住
 過渡期の存在
 ニワトリが先か、卵が先か


 世界遺産に登録


 朝日の記事にはこうある。
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に、国の特別史跡「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」をはじめとした「北海道・北東北の縄文遺跡群」が登録される見通しとなった。
( → 縄文遺跡群、世界遺産へ 北海道・北東北の17カ所、ユネスコに勧告:朝日新聞

 他社の記事もある。
  → 縄文遺跡群、世界遺産へ 三内丸山など登録勧告: 日本経済新聞
  → 「縄文遺跡群」世界遺産へ 三内丸山など登録勧告―「定住社会発展示す」・諮問機関:時事
  → 「北海道・北東北の縄文遺跡群」世界文化遺産に登録の見通しに | NHK

 これらによると、縄文時代の特徴は、「農耕をしていないのに定住した」ということにあるそうだ。
 縄文時代の始まりは今から約1万5千年前。人々は狩りで獣をとったり、海で魚や貝をとったり、果実などを集め、時に栽培したりする「狩猟採集」の暮らしを送っていた。「その日暮らしをしている停滞した文化というイメージを持たれがちだったが、縄文は世界史上例を見ない文化」と、東京都立大の山田康弘教授は話す。
 縄文時代は世界史では新石器時代に相当する。西アジアなどでは農耕・牧畜の開始と定住がセットで進み、社会が発達したと考えられてきた。縄文文化はそのセオリーに反し、狩猟採集を基盤にしながら竪穴式住居などで定住を確立。生活の拠点のムラができた。
 山田教授は「縄文時代は氷河期も終わって温暖化が進み、環境が良かった。ドングリがなる木にイノシシやシカといった動物も数多く出てきた。旧石器時代のように動き回らなくても、一定の範囲で食料を入手できるようになったことが大きい」と解説する。
( → 縄文1万年、世界の誉れ 北海道・北東北の遺跡群、世界遺産へ:朝日新聞

 縄文文化の特色としては、よく言われることですが、採集狩猟民であるにもかかわらず、定住を行っているという点があげられると思います。
( → ストーンヘンジと共通点?英国の研究者が語るJOMON:朝日新聞

 つまり、世界史では、「狩猟採集で移動生活をしていたが、農耕の開始とともに定住するようになった」というふうに見なされてきたが、それに反して、農耕をする前から定住をしていたことになるわけだ。

 現代では、農耕と定住の関係について、諸説あることが下記で紹介されている。
  → 新石器革命 - Wikipedia

 縄文時代全般については、下記記事がある。
  → 縄文時代 - Wikipedia

 狩猟生活と定住


 上記では、次の見解が示されていた。(再掲する。)
「縄文時代は氷河期も終わって温暖化が進み、環境が良かった。ドングリがなる木にイノシシやシカといった動物も数多く出てきた。旧石器時代のように動き回らなくても、一定の範囲で食料を入手できるようになったことが大きい」

 だが、この見解には、私としては同意しがたい。
  ・ ドングリができるのは秋だけで、通年ではない。
  ・ イノシシやシカは、たまに捕獲することができるだけだ。
   (いつも捕獲していたら、その領域では獲物がいなくなる。
    この点が、狩猟生活が移動をともなうことの理由だ。)


 この二点があるので、上の説は成立しないと考えられる。
 その一方で、次の事実はあっただろう。
 「氷河期も終わって温暖化が進み、……旧石器時代のように動き回らなくても、一定の範囲で食料を入手できるようになった」
 では、その理由は何か? ドングリやイノシシやシカではないとしたら、それは何か? 

 私としては、「それは魚介類だ」と主張したい。
  ・ 各地に貝塚があり、貝類を食べていたことの証拠だ。
  ・ 魚も有力な食物だった。


 そこで調べてみると、いちいち私が主張するまでもなく、すでに記述されていた。以下、引用しよう。(一部抜粋)
Q 縄文時代の人は何を食べていたの?

A 縄文時代は、主に植物採集、狩猟、漁撈の三つの活動によって、食べ物を得ていたと考えられています。
 縄文時代というと、狩りでとった獣が主な食べ物であるというイメージが強いのですが、実際には植物質の食べ物の占めていた割合が高かったと考えられています。その中でも秋にとれる木の実類は、主食といえるほど重要なものです。現在でも食べているクリ、クルミのほか、ドングリ類(ナラ、カシ、シイなどの実)やトチの実の殻が縄文時代の遺跡から発見されます。

 狩りで獣をとるのは主に冬です。そして、とれる時ととれない時があります。それに比べて魚は、種類を組み合わせれば1年を通じて、毎回ほぼ確実に一定の量をとることができます。動物質の食べ物のうち、獣よりも魚の占めていた割合が高かったと考えられています。

 狩りは主に冬行われます。夏は木々の葉が繁り、獲物が発見しずらく、また子育ての時期ですので、この時期とってしまえば、数を減らすことになります。また食べてもおいしくありませんし、毛皮も利用することができません。

 貝類も盛んにとっており、各地に貝塚が形成されます。350種類以上の貝が食べられていました。
( → 栃木県埋蔵文化財センター

 現地の写真


 朝日新聞の記事がある。遺跡群を空撮したものだ。その写真は下記。
  → 縄文遺跡群、空から見たら 北海道・北東北、世界遺産へ:朝日新聞

 写真も興味深いが、記事本文にはこうある。
 空から見てわかったのは、今回世界遺産にふさわしいと評価された縄文遺跡の多くが、ある決まった条件の場所を選んでつくられていることだ。貝塚の多くは海から近い高台にあり、集落もやはり高台にあって、近くには川がある。
 貝塚が高台にあるのは縄文時代のある時期に温暖化が起き、海水面が現代より上昇していたことなどとも関係がある。集落が川に近い高台にあるのは、川で漁をしたり飲料水を確保したりするのに便利であると同時に、水害の危険を避けるためだろう。
( → 縄文遺跡群、空から見たら 北海道・北東北、世界遺産へ:朝日新聞

 貝塚が多く見られることから、やはり貝類の採集が重要だったようだ。写真集に添えられた地図からも、そのことが窺われる。多くの遺跡は、海岸に近い位置にある。


joumon-map2.jpg


 海岸ではない内陸部では、どうしたか? 貝類は採れそうにないが、かわりにどうしたか?
 そこで調べると、たとえば、御所野遺跡ではこうだった。
 岩手県北部の一戸町に所在し、馬淵(まべち)川沿岸の標高190〜210メートルの河岸段丘に立地します。食料となるサケ・マスが遡上し、捕獲できるとともに、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていました。
 盛土からは、大量の土器や石器とともに、焼かれたシカ、イノシシなどの動物骨、同様のクリ、クルミなどの堅果類、さらに祭祀遺物と考えられる土偶、土製品、石製品などが集中的に出土している(……以下略)
( → 御所野遺跡 ? 北海道・北東北の縄文遺跡群

 貝類はなくとも、遡上するサケ・マスがあったわけだ。さらに獣や、木の実も。

 保存食と気温


 定住生活において最大の難題は、食料の安定性だ。というのは、たいていの食料は季節性であって、安定性がないからだ。
 ドングリは秋に採れる。そのあと、保存が利くとはいえ、1年間もずっと備蓄できるわけではない。
 貝類ならば安定性があるが、貝類ばかりを食べるわけにも行かない。
 魚は、回遊性の魚などがあって、季節的な変動が大きい。たとえば、サケが獲れるのは、主として秋である。

 では、安定性のない食料に対して、どうすれば安定性を確保できるか? それは「保存食」という方法だ。たとえば、魚を干物にする。肉を燻製や乾物にする。(ビーフジャーキーみたいにする。)
 だが、それにしても、保存には限度というものがある。夏の蒸し暑い時期に保存が十分にできることは難しい。

 そこで最有力の方法が「自然の冷蔵庫」を使うことだ。つまり、気温の低い地域に済むことだ。これによって、食料の腐敗を免れることができて、食料の安定性を確保できる。(餓死せずに済む。)
 そして、このことこそが、北海道や青森という北国で縄文遺跡が残されていたことの理由だろう。
 つまり、狩猟生活で「移住」でなく「定住」をもたらしたものは、「食料の安定性」であり、それをもたらしたのが「気温の低さ」だったのだ。だからこそ、北国において「定住」の遺跡が多数見つかるようになったのだ。
 
 以上が、私の解釈である。

 ※ ついでだが、東京湾でも魚介類を獲った痕跡が残っているが、それらは技術の発達した縄文中後期である。(技術の未熟な縄文前期以前ではない。)
   → Google 検索
 
 ※ 一方、北海道や東北の遺跡は、中期よりも前の時期のものが多くある。
jomon-kikan.png
出典:公式サイト


 竪穴式住居


 さて。そもそも人々はなぜ定住するようになったか? その問題を考えよう。
 私としては、こう考える。
 「人々が定住するようになったのは、定住することで快適な生活を送れるからだ。移動生活をする場合には、野ざらしや穴居生活をするので、寒暖に耐えがたい。特に、冬の寒さに耐えがたい。それはとてもつらい。
 しかし竪穴式住居が開発されたことで、冬に暖かく夏には涼しい生活ができるようになった。それはこれまでの野ざらしや穴居生活に比べて、格段に快適な生活だった」

 ここでは「竪穴式住居」というものが現れる。これは登呂遺跡などに見られるものだ。





 これが快適だということは、下記に説明されている。
 竪穴式住居は、地面を深く掘って、その上に作られています。住居の深さを測ってみると…1m8cmもありました。一体何のために、こんなに深く掘られているのでしょうか?
 縄文時代の建築物に詳しい首都大学東京の山田昌久教授にお聞きしました。山田教授は「竪穴式住居というのは地熱を利用するというのがあったと思います。土の温度が一定なので、外の温度の変化の影響を受けにくくなる、だから冬場暖かくなるし夏場は涼しくなる」と解説。
( → 放送内容|所さんの目がテン!|日本テレビ

 「竪穴住居」とよばれます。保温性が高く、地面を深くすればするほどあたたかいので、北海道など寒い地方では、2メートル近くほり下げることもありました。ほり下げた土は、家のまわりに盛って固めました。
( → はるか昔の建物 | NHK for School

  夏の日差しで暖められた地熱は、真冬に地下3〜5mのところに半年かけて到達します。また、冬の寒さは、同じように半年かけて、地下3〜5mのところに到達します。「穴屋」は、こうした夏冬の温度の逆転層を活用した家のつくり方だったのです。その結果、南から北へ向かえば向かうほど竪穴住居の深さは深くなっていくのです。
 冬の寒さのない地域では、「高屋」(高床)が快適であり、遠く東南アジアに共通した家のあり方でした。ところが、日本列島の多くは、寒い冬と暑い夏がありました。そのような地域での原始住居は「横穴住居」や「竪穴住居」から始まりました。それは、夏涼しく冬温かい「穴屋」(土座)だったのです。

chika-ondo.jpg

( → 古民家から学ぶエコハウスの知恵 地熱の力・高床と土座

 一般的な解説は、下記にもある。
  → 竪穴式住居 - Wikipedia

 一部抜粋。
 日本の旧石器時代の人々は、台地上に住むことが多かった。しかし、岩陰や洞窟に住むことも特殊な場合としてあった。岩陰や洞窟遺跡に対して、開けた場所での遺跡を「開地遺跡」と読んでいる。 北海道標津(しべつ)町に一辺長さが4〜10メートルもある汁鉢状の大きな窪みが数え切れないくらい密集している。この窪みが大昔の「穴居(けっきょ)の跡である。深さが2.5メートルもあり、掘った土を周りに盛り上げてある。
 考古学では、地面を掘り下げて造った住居を「竪穴住居」という。普通の竪穴住居の深さはせいぜい70〜80センチだから、穴とは言え、わざわざ「竪」を付けることはないが、北海道の穴居で竪穴と呼ぶ由縁が分かる。

歴史
 日本の竪穴住居は後期旧石器時代から造られ始めたと考えられており、縄文時代には盛んに造られるようになり、弥生時代以降にも引き継がれた。伏屋式と壁立式があり、そのうち伏屋式が主流で、壁立式は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。そして、日本の農家や民家のもととなっていった。
 竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた。特に近畿地方では平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる。

 掘立柱建物


 竪穴住居は、(上記のように)平安時代・室町時代にも作られていたが、次第にすたれて、平地住居へと移行していった。
 この件については、前に言及したことがある。
  → 縄文時代の後期(定説の謎): Open ブログ

 ここでは、竪穴住居のかわりに「新式の住居」が普及していったはずだ、と述べた。ただ、それが何であるかは、具体的には示さなかった。

 ただ、今回改めて調べてみると、それは「掘立柱建物」と呼ばれる建物だとわかった。
 竪穴住居の全国的な普及は古墳時代末までで,6世紀ころからまず畿内先進地域の集落は,竪穴住居から掘立柱住居に変わる(掘立柱建物)。
( → 竪穴住居|日本大百科全書・世界大百科事典

 掘立柱建物は、地面に穴を掘りくぼめて礎石を用いず、そのまま柱(掘立柱)を立て地面を底床とした建物。
 掘立柱建物には、土間のままの建物もあり、床の高さが数十センチから一メートルくらいの木の床の建物もある。

  ̄ ̄
 飛鳥時代以降も一般集落では竪穴住居が主流であることは変わらないが、住居としては6世紀末以後から宮殿・官衙・都城建築として掘立柱建物が採用され、平安時代末以後は竪穴住居に代わって一般集落の住居建築の主流となって近世に至る。
( → 掘立柱建物 - Wikipedia

 ではどうして、竪穴住居から掘立柱建物へ移行したのか? 竪穴住居は「温度が一定だ」という利点があり、平地住居(掘立柱建物)にはその利点がないのに、どうして人々は、あえて保温性のない建物へ移行したのか? 

 それについては、私は次のように推定する。
  ・ 火による暖房が普及して、寒さに耐えられるようになった。
  ・ 寒冷な北国から、温暖な関東以南に移住するようになった。


 関東以南であれば、現在、冬でも暖房なしで過ごせる日が多い。零下の気温が続いて、常に手がかじかむ北国とは、雲泥の差だ。こうなると、特に竪穴住居にこだわらなくても済むようになる。
 また、関東以南であれば、気温の高さゆえに、自然作物も豊かにある。桃、柿、イチゴ、ビワ、ミカンなども、豊富に見出されるようになる。さらに、農耕をするようになると、農作物も多く収穫できる。
 こういうふうに、食料の点では有利なので、温暖な関東以南にも進出するようになったのだろう。それと同時に、竪穴住居から掘立柱建物へ移行するようになったのだろう。

 ――

 なお、先に次のように述べた。
 「自然の冷蔵庫」を使うことだ。つまり、気温の低い地域に済むことだ。これによって、食料の腐敗を免れることができて、食料の安定性を確保できる。(餓死せずに済む。)
 そして、このことこそが、北海道や青森という北国で縄文遺跡が残されていたことの理由だろう。
 つまり、狩猟生活で「移住」でなく「定住」をもたらしたものは、「食料の安定性」であり、それをもたらしたのが「気温の低さ」だったのだ。

 このことと、温暖な関東以南に進出したこととは、矛盾するように思える。温暖な関東以南に進出したとき、食料の安定性は確保できたのか? 
 その問題には、こう答える。
 「稲作が開始されるとともに、米や麦などは通年の保存が可能になったので、食料の安定性は確保できた」


 つまり、弥生時代に稲作が導入されると同時に、食料の安定性が確保されたので、食料の保存のために北国で暮らす必要がなくなり、温暖な土地で暮らせるようになったのだ。

 《 参考 》 
 なお、それ以前にも食べられてきたドングリは、そのままでは長期保存ができない。そのままでは虫が湧くのだ。「蒸して、干して、乾かす」という処理をすれば、長期保存ができるが、縄文時代には、その知恵があったとは思えない。
どんぐりを長期間置いておくと虫が湧くが、なにかよい保存方法はないか。

@ どんぐりはきれいに洗い、むし器で蒸し、干して乾かすと来年も使えると紹介されている。
( → どんぐりを長期間置いておくと虫が湧くが、なにかよい保存方法はないか。 | レファレンス協同データベース

 農耕と定住


 農耕と定住については、次の参考記事がある。
  → 「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆された【橘玲】

 古代メソポタミアの文明(紀元前6000年以後)は、チグリス・ユーフラテスの肥沃な土地で農耕が始まったからだ、と言われてきた。だが、それに先立つ1万3000年ほど前、トルコ南東部には狩猟生活と定住の文化があったそうだ。さらに、メソポタミア地域のイラクでも、湿地帯では狩猟生活と定住の文化があったそうだ。
 それは「狩猟生活と定住」という点では、縄文文化と共通する。 
 紀元前1万2000年頃には、メソポタミア全域で定住の断片的な証拠が見つかっている。作物化植物と家畜の断片的な証拠が発見されたのは紀元前9000年、コムギなど主要な基礎作物の栽培が確認されるのは紀元前8000年だから、3000〜4000年ものあいだ農業を営まずに定住が続いたことになる。

 このあと、「なぜ農耕などというものを始めたのか?」という疑問を出しているが、「寒冷化のせいだ」という理由を仮説の一つとして示しているが、はっきりとした回答はないらしい。


methopotamia.png
出典:Wikipedia


 この件では、本サイトは以前にも扱ったことがある。
  → 定住と農耕(メソポタミア文明): Open ブログ

 そこでは、私は次のことを提唱した。
 「それまでは麦があっても、食べ方がわからなかった。しかし、挽き割りにして料理するという方法が発見されたので、以後は麦を食べることができるようになった。だから農耕が始まったのだ」


 つまり、「挽き割り」という手法を知ったので、料理ができるようになった。そのままでは食べられない麦を、挽き割りにすることで食べられるようになった。だから農耕が始まったのだ……というわけだ。

 ※ 最古の挽き臼は、紀元前 9000年ごろのものがシリアで見つかっている。( 英語版 Wikipedia による。)
 ※ 初期は、農耕によらずに野生の麦を食べていたはずだ。こうして(野生の)麦を食べ慣れたあとで、麦を栽培することを始めた。それが農耕の始まりである。
 ※ 稲作も同様で、約1万年前に中国で始まった。( → 稲作 - Wikipedia

 ――

 一方、本項の前述の話をあわせると、次のように言える。
 「麦は、他の食料(ドングリや魚介類や肉類)と違って、通年の保存ができる。食料の安定性が得られたから、農耕をするようになったのだ」


 定住だけならば、狩猟生活による定住でも良かった。しかしその場合には、食料の安定性は必ずしも得られなかった。貝類のある湿地帯では定住できたが、それ以外の土地では(食料の不安定性ゆえに)定住はできなかった。
 しかるに、麦を食べるようになると、食料の安定性が得られたので、農耕とともに定住が可能になった。

 ――

 以上をまとめると、次のようになる。
 「ただの定住ならば、農耕は必要なく、狩猟生活でも足りた。しかし狩猟生活による定住は、場所が限定された。日本では海辺。メソポタミアでは湿地帯。いずれも貝類のある場所に限定された。
 ところが、農耕が始まると、食料の安定性が得られたので、貝類のない場所でも定住が可能となった。
 つまり、農耕がもたらしたのは、ただの定住ではなくて、《 場所を限定しない定住 》だったのである。それまでは海辺や湿地帯に限られていた定住が、もっと広範な土地でも可能になった。それがつまり、狩猟生活から農耕生活へと移ったことの効果だった」


 こうして、農耕と定住との関係は明らかになった。農耕と定住との関係は、等号( = )でもなく、不等号( ≠ )でもなく、その中間的なものであり、漸進的・遷移的なものであったのだ。

 過渡期の存在


 農耕と定住との関係は、漸進的・遷移的なものであった……と上に述べた。そして、そうだとすれば、その途中段階があったはずだ。それはいわば「過渡期」である。
 では、過渡期とは、どのようなものであったか? それを考えると、次のように推定できる。

 1.狩猟生活

 最初は、狩猟採集をしながら定住していた。狩猟採集をしながら定住しない人々もいたが、それらについては無視することにする。狩猟採集をしながら定住する人々がいたので、そこにのみ着目する。

 2.混合生活(過渡期)

 狩猟採集をしながら定住する人々のうち、一部は、農耕技術を獲得して、農耕を併用するようになった。最初は家庭菜園のような規模で始まったが、やがては狩猟採集と農耕が半々ぐらいになった。これが混合生活である。(狩猟採集生活でもなく、農耕生活でもなく、その折衷的なもの。)
 最初のうちは、農耕技術も未熟だったので、野生の麦を採取して、定住する住居のそばで小規模に栽培しただけだっただろう。やがては定住する住居から少し離れた場所で、広い農地を確保して、規模を拡大した農耕をするようになっただろう。

 3.農耕生活

 農耕技術が向上すると、もはや狩猟採集という仕事を捨てることができるようになった。そこで、狩猟採集をする場所(岸辺や湿地)を離れて、広い広大な平地に進出できるようになった。……こうして純然たる農耕生活が始まった。
 それと同時に、「狩猟採集をする場所」という制約を離れて、肥沃な平地でさえあればいいという条件で、広い領域に進出する自由を得た。それは原始的な人類が初めて自然の制約から自由になるという意味での、大いなる自由でもあった。
 人類はこのとき初めて、野生食物だけを得るという動物的な生活を離れて、人間的な文化的な生活に踏み入ったのである。

 ――

 以上の 1〜3 の段階を踏んだわけだが、その途中に過渡期の段階があったことに注目しよう。
 これまでの発想では、狩猟生活から農耕生活へ一挙に転換した(大ジャンプした)ことになっているが、実は、その中間の過渡期には、混合生活もあったはずなのだ。

 ニワトリが先か、卵が先か


 農耕と定住は、どちらが先だったか? 農耕が先か? 定住が先か? これは、「ニワトリが先か、卵が先か」という論争に似ている。
 農耕をすれば、農耕の場所から離れられないので、定住は必然だ。そこで、「農耕が先であり、農耕によって定住が必然化した」という発想が出る。この発想の下で、従来は「農耕が先だった」という説が強かったようだ。

 しかしながら、狩猟採集で定住するという事例が、縄文文化や古代トルコ文化で見出された。(上記)……このことから、「定住が先だ」という新たな説も強まった。

 かくて、この二つの説が「ニワトリが先だ」「卵が先だ」という論争のように、争われることになった。

 ――

 では、正しくは? それは、一つ前の章で述べた通りだ。つまり、こうだ。
 「時間的な順序としては定住の方が先だ。だが、狩猟採集生活と農耕生活の中間には、過渡期があった。そこでは混合生活があった。したがって、《 定住のせいで農耕が始まった 》というような論理的な順序関係は成立しない。時間的には定住が農耕よりも先だが、論理的には定住は農耕の原因とはなっていない」

 この時期(紀元前 9000〜10000年)に農耕が始まったことには、いくつかの理由が考えられる。
  ・ 氷河期が終わって温暖な時期になった。(気候の安定化)
  ・ 食料の安定化が望まれた。(飢饉をいやがる。)
  ・ 麦は長期保存可能だ。だから食料の安定化に寄与する。
  ・ 石臼の発明で、麦を食べやすくなった。
  ・ 野生の麦の品種改良(栽培植物化)が進んだ。


 このように理由はいくつも考えられる。
 ともあれ、そうして農耕が始まると、人類は、二つの事柄を獲得した。
  ・ 定住すると、家を持つので、文化的な快適な生活を送れるようになった。
  ・ 狩猟採集生活用の狭い領域を離れて、広い外部領域に進出する自由を得た。

 ここには「農耕」「定住」ということ以外に、いくつかの重要な概念が導入されている。それらにも きちんと留意するようにしよう。特に、「広い外部領域」「自由」という概念は大切だ。




 話はこれで一応完結します。
 次項では、続編として、取りこぼした話を扱います。
  → 縄文遺跡群(余話)  [ 次項 ]
  → 縄文の土偶: Open ブログ  [ 次々項 ]
 
posted by 管理人 at 20:22| Comment(2) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 最後に二つの章を追加しました。次の二つです。
  ・ 過渡期の存在
  ・ ニワトリが先か、卵が先か

Posted by 管理人 at 2021年06月03日 22:07
> 海岸ではない内陸部では、どうしたか? 貝類は採れそうにないが、かわりにどうしたか?

 という話を加筆しておきました。御所野遺跡の話。
Posted by 管理人 at 2021年06月04日 11:56
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