2021年06月15日

◆ 元寇に神風は吹いたか?

 元寇のときに神風が吹いた、と言われているが、それは事実か?

 ――

 中国が日本を侵略する懸念があるので、元寇のことを考えていたら、「そう都合よく神風(台風)は吹いたのか?」という疑念が湧いたので、調べてみた。
 
 まず、「神風が吹いたというのは疑わしい」という異論は、すでにある。
  → 元寇、神風でモンゴル軍退散との“虚構”は、なぜ生まれたのか?

 Wikipedia にも、否定的な見解がある。
 元軍は戦況を優位に進めた後、陸を捨てて船に引き揚げて一夜を明かそうとしたその夜に暴風雨を受けて日本側が勝利したという言説が教科書等に記載されている。
 通常、上陸作戦を決行した場合、まず橋頭堡を確保しなければならず、戦況を優位に進めながら陸地を放棄して、再び上陸作戦を決行するなどは戦術的に有り得ないとされる。
 また、元側の史料『高麗史』の記載によると、元軍は日本軍との戦闘で苦戦を強いられたため軍議により撤退を決定し、日本からの撤退途上で暴風雨に遭遇したとなっている。ただ、この撤退途上に元軍が遭遇した暴風雨については、気象学的には11月下旬には台風の渡来はなく、あったとしても単なる強風であったろう。
( → 元寇 - Wikipedia

 一方で、肯定的な見解もある。元寇は二度あった(文永の役・弘安の役)が、弘安の役ではまさしく神風が吹いたようだ。
台風
7月30日夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。
 東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2か月後のことであった。なお、北九州に上陸する台風は平年3.2回ほどであり、約3か月もの間、海上に停滞していた元軍にとっては、偶発的な台風ではなかった。

元軍の損害状況
 『張氏墓誌銘』によれば、台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという。また、元朝の文人・周密の『癸辛雑識』によると、元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け、約4,000隻の軍船のうち残存艦船は200隻であったという。
( → 元寇 - Wikipedia

 こういうふうに、二度目の方では、台風はまさしくあったようだ。
 問題は、一度目の方だが、正確にはどうなのか? これについて、近年になって、新たな事実が発見された。
 近年の科学的調査で、元寇に近いタイミングで台風が接近していたという事実が明らかになっている。調査を行ったのは、マサチューセッツ大学アマースト校で地質学を研究する、ジョン・ウッドラフ准教授だ。
 ナショナル・ジオグラフィック誌(2014年11月5日)によるとウッドラフ氏は、水底に沈む堆積物を分析することで過去の天候を推定できることに着目した。
 チームは熊本県天草市の海岸にほど近い池田池(通称・大蛇池)を訪れ、水底の地層を採取・分析している。結果、いくつかの古い地層において、岩石が砕かれてできた「砕屑物」と呼ばれる破片が通常よりも著しく多く含まれていることがわかった。また、通常量を超えるストロンチウムも観測されている。これらは台風で増水した際、現場近くにある浜から砂と貝殻の破片が流入し、それが堆積したものだと考えられる。神風の正体は台風であり、その証拠は水底に眠っていたというわけだ。
 チームはさらに長崎市宮崎町の川原大池を調査し、台風によって川から流入したと見られるチタンなどの成分が特定の地層に含まれていることを発見した。サンプルを放射性炭素年代測定にかけたところ、文永の役と弘安の役の年代に一致したという。これらを踏まえてウッドラフ氏は、「13世紀後半に強烈な氾濫があったというかなり強い証拠が得られた」と自信を見せている。
( → 元寇の神風は吹いた? 湖底に眠っていた証拠が示すものは? | NewSphere

 これによると、台風があったことは事実だと、堆積物によって裏付けられたことになる。ただし、時期は二度の元寇の時期であって、双方を区別するほどの精度はない。上のことからして、「弘安の役では台風があった」と断定していいだろうが、文永の役で台風があったかどうかは何とも言えない。
 さまざまな文献からすると、やはり、Wikipedia に記してあるように、「敗戦のあとで帰国中に暴風を受けた」ということであるようだ。しかもそれは、台風ではない強風であったようだ。

 ――

 なお、中国語版の Wikipedia を確認したところ、「元軍はよく戦ったが、帰国中に暴風雨を受けて、ひどい損害を受けた」というふうになっている。
 では、それは事実か? 


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 ここで名探偵の推理を働かせると、こうだ。
 《 元軍が帰国中に暴風雨を受けたというのは、元軍が自分で報告した自己申告の報告であるから、信頼性がない。時期的にも、台風が吹くわけでもないし、そんな強い暴風雨があったとは思えない。ゆえに、これは虚偽報告であろう。本当は日本軍に打破されて、惨敗したのだが、それを正直に言うと、皇帝(クビライ)のお怒りを食らう。そうなるのが怖いので、「惨敗した」と言うかわりに、「惨敗はしなかったが、暴風のせいで艦船を失ったんです。だからこんなに少ししか戻れなかったんです」と釈明したのだろう。
 また、強風はあったかもしれないが、強風ぐらいで沈没するほどにも、艦船が痛めつけられていた、とも言える。どっちみち、惨敗であることにはかわらない。》


 要するに、こうだ。
 「文永の役では、台風などはなかった。元軍は日本軍によって撃破されて、惨敗した。しかるに、それを正直に言うと、皇帝のお怒りを食う。そいつは怖い。そこで、戦いでは惜敗したのだが、途中の台風で艦船を大量に失ったことにした(嘘をついた)」

 これが名探偵の推理だ。つまり、「神風はあったか?」という問いには、「一度目にはなかったが、二度目にはあった」と答える。 



 [ 付記1 ]
 文永の役では、日本軍が元軍を撃破した、と推定した。では、どうやって? 何かうまい手があるのか?
 そこで私が考えたのが、「松ヤニをなすりつけて、船腹を燃やす」という方法だ。松ヤニはベトベトして粘着力が強いし、耐水性もあるし、可燃性も高い。木造船を攻撃するには最強だろう。(当時は巨大な金属を製造する技術力はなかったので。)

 松ヤニの着火力が強いことについては、下記に説明がある。
  → ぬれても燃える。“松やに”を使った自然の着火剤がすごい!

 アウトドアでも着火剤として、よく使われる。


https://amzn.to/3hsOcFZ


 「松ヤニを使えることはわかったが、そううまく思いつくかね?」
 と疑問に思う人もいそうだが、ご心配なく。すでに当時から松ヤニは武器として使われてきた。火矢だ。
 松のヤニは、ロウソクなどの代わりの燃焼になり、戦乱の火矢の油になります。
( → 木材のヤニの役目は何でしょうか? また、先人たちが培った松ヤニの利用方法とは

 火矢に使われてきたのだから、当然、船上の敵を攻撃するための火矢として用いただろう。同時に、そのために用意した松ヤニを、船腹に塗りつけて、船舶を燃やすということも考えただろう。

 しかも現場は、松林のあるところだ。
 赤坂の松林のなかに陣を布いた元軍……
 ……鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と衝突した

( → 元寇 - Wikipedia

生の松原 :
 松原海岸にある。当時の石塁は埋められているが、当時と同じ高さの石塁が復元されており見学できる。この地は弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』には竹崎季長がこの地で戦う姿が描かれている。
( → 元寇防塁 - Wikipedia

 「松原」という名前があるのだから、松がいっぱい生えていたのだろう。そこが激戦地となったのだ。

 上に記してあるように、『蒙古襲来絵詞』という絵画があるが、そこにはまさしく松の木が描かれている。(図の上方)

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出典:コトバンク


 以上のように、松だらけの場所なのだから、松ヤニを取るのは容易だっただろう。というか、地元民がすでに着火剤として松ヤニを大量に備蓄していただろう。だから、その松ヤニを使って、攻撃の道具にすることができたわけだ。
 こうして、当時の日本軍が元軍を撃破できた理由が判明した。一度目の元寇では、神風よりも松が勝因だったのである。


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 [ 付記2 ]
 中国をあっさり撃破したモンゴル帝国(元)が、どうして日本軍には手こずったのか? その理由も推定できる。
 「当時、モンゴルは世界最強だった。その理由は、騎馬戦術に長じていたからである」
 このことはすでに定説であると言えるだろう。
  → Zorac歴史サイト - モンゴルの強さの秘密
  → 蒙古兵はどうして強かったの?モンゴル帝国の絶望的な強さの秘密

 モンゴルは、実は、文化的にはとても優れているとは言えなかった。なぜなら、文字を持たなかったからである。
  → モンゴル民族は始め、文字を持たなかった

 モンゴル人は、当初は「匈奴」などと呼ばれていたが、そのころの記録は何もない。文字がなかったからだ。
 そういうふうに文化のレベルは低かったが、戦争だけは抜群に強かった。騎馬戦術を用いたからである。遊牧民族の特徴だと言えよう。これによって、西は欧州に進出し、南は中国を侵略・支配した。

 ところが、である。その騎馬戦術は、日本には使えなかったのだ。日本とは陸続きではないからだ。
 かといって、船に馬を乗せたら、その分、人間の数が減ってしまう。それでは意味がない。
 というわけで、最強の手段である「騎馬戦術」を封じられたので、元は日本を侵略できなかったわけだ。
( ※ 「おれたちは強いんだから、日本なんていう辺境の国をやっつけるのは簡単さ」と自惚れたのだろう。どこかの島国の現首相のように、自惚れだけは抜群だったわけだ。)

 [ 付記3 ]
 なお、風については、あまり重大視しない評価もある。後年の文書「元史」では、こう評価している。
 『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」とあり、軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており、集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。
( → 元寇 - Wikipedia

 これは兵站(へいたん)を重視した発想だ。

 [ 付記4 ]
 「神風のおかげで日本は勝った。万歳!」
 と浮かれている人が多いようだが、現実はそうではなかった。元軍を撃退したとはいえ、全国に動員をかけた日本軍の側の負担は非常に大きかった。そのせいで、鎌倉幕府は弱体化し、崩壊に向かった。こうして、元寇は鎌倉幕府の崩壊の遠因となった。(他にも、大地震や飢饉なども影響した。)
  → 元寇 - Wikipedia



 【 補説 】
 そもそも、元寇はなぜ起こったのか? Wikipedia には、こうある。
 趙良弼は、日本侵攻の無益をクビライに説き「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきがよいでしょう」と述べ、日本侵攻に反対した。これを受けて、クビライは一旦は趙良弼の諫言に従った。
( → 元寇 - Wikipedia

 ところがその後、クビライは前言を撤回して、元寇の実施に踏み切った。その理由は、マルコ・ポーロによると、ジパング黄金伝説の話を信じたかららしい。
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』では、日本は大洋(オケアノス)上の東の島国として紹介されており、クビライが日本へ関心を抱いたのは、以下のように日本の富のことを聞かされ興味を持ったからだとしている。
 「サパング(ジパング、日本国)は東方の島で、大洋の中にある。大陸から1500マイル(約2,250km)離れた大きな島で、住民は肌の色が白く礼儀正しい。また、偶像崇拝者である。島では金が見つかるので、彼らは限りなく金を所有している。しかし大陸からあまりに離れているので、この島に向かう商人はほとんどおらず、そのため法外の量の金で溢れている。この島の君主の宮殿について、私は一つ驚くべきことを語っておこう。その宮殿は、ちょうど私たちキリスト教国の教会が鉛で屋根を葺くように、屋根がすべて純金で覆われているので、その価値はほとんど計り知れないほどである。床も2ドワ(約4cm)の厚みのある金の板が敷きつめられ、窓もまた同様であるから、宮殿全体では、誰も想像することができないほどの並外れた富となる。また、この島には赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である。多量の宝石も産する。さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵を付けて派遣した」
( → 元寇 - Wikipedia

 (東方見聞録は)ヨーロッパに日本のことを「黄金の国ジパング」(Cipangu) として紹介したという点で特によく知られている。しかし、実際はマルコ・ポーロは日本には訪れておらず、中国で聞いた噂話として収録されている。
( → 東方見聞録 - Wikipedia

 さて。そのマルコ・ポーロの「東方見聞録」だが、興味深い話がある。そのラテン語版というバージョンは、現存するのは3部だけだが、そのうちの一つが日本にあるそうだ。
 東洋文庫は日本最古、最大の東洋学専門図書館で、蔵書は 100万冊を超える。
 モリソン書庫は、専門図書館に併設されたミュージアムの顔。
 その中には、マルコ・ポーロの「東方見聞録」のラテン語版も。東洋文庫の運営課長の池山洋二さんによると、同じ版は現在世界に3冊だけで、ほかの2冊はバチカンのイエズス会文書館と、スペインのコロンブス記念図書館にあるそうだ。
( → 東洋文庫ミュージアム(東京都文京区)の「モリソン書庫」

 画像は下記。

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出典:気まぐれ日記

 
posted by 管理人 at 23:30| Comment(0) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
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