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「同性婚を法制化せよ」という声がある。たとえば、下記記事。
札幌地裁が先月、結婚に伴う保護を同性愛者が得られないのは憲法の法の下の平等に違反すると判断した。同性婚を求める人たちが起こした裁判は東京、大阪など5カ所で進む。
訴えは別の論点で退けられ、裁判は今後も続くが、個人の権利救済を重くみる判断は、もはや戻ることのない世界的な流れだ。先進国を中心に約30の国々が、それぞれに裁判やさまざまな議論を経て、同性婚を認めている。
生き方の選択肢にかかわる問題だ。国会の見て見ぬふりは許されない。
( → (社説余滴)結婚と平等、賽は投げられた 井田香奈子:朝日新聞 )
主張としては「ごもっとも」と私は感じるが、現実の国会はそうなっていない。この件については、先に論じた。再掲しよう。
同性婚を法的に認めないのは違憲だ、という地裁判決が出た。
→ 同性婚の不受理、初の違憲判断 札幌地裁「差別的扱い」:朝日新聞
しかし自民党は、「絶対に同性婚を認めない」と拒否している。
→ 同性婚への議論、自民「封印」 保守系議員ら強硬反対論:朝日新聞
こういう状況であるから、同性婚が立法化される見込みはまったくない。選択的夫婦別姓制度さえ認めないのだから、それよりもハードルの高い同性婚を認めるはずがない。それが自民党というものだ。そして、その自民党を圧倒的に支持しているのが、国民なのだ。同性婚が実現する見込みはまったくない。これが現状だ。
( → 同性婚よりも養子制度 2: Open ブログ )
いくら道理を説いても、国会が自民党に支配されている限りは、道理が通らないのだ。道理を説くことは、同性愛者の望みの実現をまったく意味しないのだ。「正しいことを言えば実現する」というような書生論議は成立しないのだ。
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では、どうすればいいか? それについては、上記項目で代案を提案している。
同性婚のかわりに養子制度を使えばいい。
通常の養子制度では、片方が親となる仕組みなので、同性愛者には不適である。ゆえに、双方が平等となるような形の養子制度を用意すればいい。
このような養子制度は、従来の養子制度の枠組みを、ほんのちょっと拡張するだけでいい。だから「養子制度」の枠組みでとらえることができるので、同性婚の反対論者の拒否感を免れることができそうだ。その分、法制化が容易となる。
これが私の考える「現実的な方策」だ。
代案は、すでに示した。これで解決が付くはずだ。だから、この方針を進めるべきだ。
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ここまでは、すでに述べたことだ。本項では、論拠を補強する形で、次のことを指摘しておこう。
「自民党が同性婚を認めることなど、未来永劫、ありえない。なぜか? 自民党は、保守政党だからだ。保守政党とは何か? 古いものを墨守することか? そういう意味もあるが、もっと大きなこととは、別にある。多数派の主張を全面的に採用して、少数派の主張を排除する、ということだ。多数決の名の下に、多数派の意見ばかりを一方的に通して、反対する少数派の意見を踏みにじることだ」
これは、一種のエゴイズムである。だが、ここに保守主義の本質がある。ここを理解するべきだ。
そうすれば、保守派が「同性愛者を対等に認める」というようなことなど、金輪際ありえない、とわかるろう。なぜならそれは「多数派としての特権」を失うことだからだ。エゴイズムに満ちた人々が、自らの特権をあえて放棄するはずがない。
また、他人の利益を自分の利益と同様に尊重することなど、ありえない。それはリベラリズムの発想だからだ。仮にそういう発想を持つとしたら、その人は、保守派にはならず、リベラリストになっていたはずだ。つまり、その人が保守派であるという時点で、「他人の利益を自分の利益と同様に尊重すること」を排斥しているのである。
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世の中の人間は、2種類しかいない。自分だけが大切であるエゴイストと、他人に優しいリベラリストだ。そして、日本では前者の立場の人がずっと多いから、ダメダメな自民党が支持されて、政権を握っている。コロナ対策であれほどにも失敗している菅首相が、政権支持率では「不支持」を上回る「支持」を得ている。
→ 菅内閣 「支持」44% 「不支持」38% NHK世論調査
→ 菅内閣の支持率は40%、不支持率は39% (朝日新聞)
なぜこうなるか? 日本人は保守派が多いから、エゴイストが多いからだ。
そして、そうである以上は、「同性愛者を尊重しよう」というような、リベラリズムの極北であるような法案が成立するはずがないのだ。かくて、「すべてを望むがゆえに、何一つ得られない」という状態が続く。
同性愛者の権利を損なっているのは、「同性婚を認めよ」と唱える人々自身なのだ、と理解するべきだ。「同性婚を認めよ」と唱えるのは、100を求めるがゆえに、何も得られない、という結果に至る。むしろ、「 80を求めて、80を得る」というふうにするべきだ。それならば、保守派の人々も容認できるだろう。なぜなら、100 と 80 というふうに差が付けば、多数派の優位は守られるので、彼らのエゴイズムとプライドは満たされるからだ。
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むかしむかし、おじいさんとおばあさんがいました。お婆さんは、雀の舌を切ってしまいました。欲張りなお婆さんは、欲張ったすえに、宝を得るかわりに、とんでもない恐ろしいものを引き出しました。
欲張りは何も得られない。そういう教訓を、身に覚えるべきだ。
エピソード100b◆雀だって舌がある
— 栗田昌裕 (@kurita88) October 25, 2016
ヒナちゃんの舌出しを願ったところ
アカンベーほどではないが、可愛い
舌をチラリと覗かせてくれましたよ。
昔話の婆さんはどうやってこの舌を
切ることができたのか不思議ですね。
「嘘つきは閻魔様が舌を抜く」とも。
私たちも舌を大切にしたいものです pic.twitter.com/PukwUZV1uu
[ 余談 ]
朝日新聞では、上記記事の著者とはとは別の論説委員(ともに女性)が、ちょっと似た趣旨の話を書いている。男女平等を推進せよ、という趣旨。そこで、こういう話がある。
(イタリアの)高校時代の恩師からメールが届いた。日本のセクハラ問題や性差別について、イタリアの地元紙が報じたという。日本で記者になった 33年前の教え子を励ます言葉は、こう結ばれていた。
「アヒルのように歩き、アヒルのように鳴くなら、それはアヒルだ。君は高校生のころから間違いなくフェミニストだった。だから、いつでもどこでも自分を偽らず、ガアガアと仕事をすればいい」
言葉は次へつなぐことができる。迷っているとき、進むべき方向へ一筋の光を照らすこともある。
私はちゃんと、「アヒル」をやれているだろうか。ガアガア。葉桜の下、マスクのなかで、こっそり鳴いてみる。
( → (日曜に想う)春、ガアガアと鳴きながら 論説委員・郷富佐子:朝日新聞 )
面白い記事だが、ちょっと足りない。アヒルならば鳴くだけでいいが、記者ならば鳴くだけでは足りない。声を上げるだけでなく、実社会をまさしく変える必要がある。「言いっ放し」では駄目なのだ。正しいことを言うだけでは駄目なのだ。
「正しいことを言えば、何も効果がなくてもいい」と思うのでは足りない。「半分正しいことを提唱することで、まさしく社会を半歩先へ進める」ということが大事なのだ。
人はただのアヒルであってはならない。アヒルであってもいいのは、アヒル口の女性だけだ。
おはようございます。
— 14 (@kimini_todoke14) April 10, 2020
今日も笑顔の一日を??
桐谷美玲ちゃん??がめっちゃ好きやねん??
猫目もアヒル口も声も全部すっきゃねん??#good_morning_call#桐谷美玲 ちゃん??#猫目先輩 pic.twitter.com/RpJ11ezPtL
口を半開きにした顔が最高#佐野ひなこ pic.twitter.com/Ecnz4nZ54z
— おのおろか (@onooroka) April 15, 2019
【 関連項目 】
→ 同性婚よりも養子制度 2: Open ブログ
下の3枚の写真の上、声を上げるだけでなくですね。鳴くが誤字です。