2021年01月28日

◆ 読書感想文のコツ

 学校の宿題で「読書感想文」が課されることがある。どう書いたらいいか、わからない生徒が多いようなので、コツを教えよう。

 ──

 (1) 求められるものを知れ

 読書感想文では、「何を求められているか」を知るべきだ。
 「人を感動させる素晴らしい芸術的な文章」を求められている、と思うかもしれない。だが、それは勘違いだ。
 求められているのは、芸術的な文章でもないし、個性的な文章でもないし、独創的な文章でもない。特に、独自の意見なんてものは求められていない。科学的発見ならば独自性が必要だが、読書感想文には独創性なんてものは必要ない。
 むしろ、標準的な文章を書くべきだ。つまり、普通の人の普通の文章を書くべきだ。内容もそうだ。感じ方は、普通の人の感じ方であるべきだ。
 ただし、普通ではあっても、凡庸であってはならない。むしろ、優等生らしい書き方をするべきだ。簡単に言えば、模範答案となるようなものを書くべきだ。
 逆に、芸術的な独創的な文章で最優秀賞を狙おうとしてはいけない。読書感想文は芸術ではない。ただの答案の一種だ。名文を書こうとするよりも、教師の求める「優等生らしい模範解答」を書けばいいのだ。
 ピカソやダリのような天才ふうの作品を書いてはいけない。そんなものは理解されにくい。むしろ、世間の考える「優等生」ふうの文章を書くべきだ。ここをきちんと理解しておこう。
 

 (2) 自分がどう感じたかを書くな

 読書感想文というと、自分の独自の感じ方(独自の感想)を書くべきだと考えがちだ。しかし、それでは駄目だ。
 自分がどう感じているかを書く必要はない。自分がどう感じたかを踏まえた上で、「作者が何を感じさせようとしているか」を考えるべきだ。
 通常、作者は「ここでこういうふうに感動させよう」というつもりで書いている。そこで、その方針に素直に従って、感動するべきところでは感動する。そして、それを素直な言葉で表現すればいい。
 妙にひねくれて独自の感じ方をしてはいけない。「ここで笑わせようとしている」というところでは、笑えばいい。「ここで泣かせようとしている」というところでは、泣けばいい。そして、そのときの標準的な感じ方を、うまく優等生的に書きまとめればいい。
 ここでは、あくまで優等生的な標準的な文章が求められている。独創的で意外な文章などは求められていないのだ。教師が期待するような模範的回答としての読書感想文を作文すればいいのだ。間違っても、「読書感想文を読んだ人が感動する」というようなことを狙ってはいけない。読書感想文は、芸術作品ではなく、答案なのだ。そこでは模範答案を書くべきなのだ。


 (3) いい子ぶる

 模範答案としての読書感想文とは、どのようなものか? それは、教師の期待に応えるようなものだ。
 これは、女性で言えば、「あざとい女性」のようなものだ。かわいらしくふるまう、ぶりっ子のようなものだ。かわいい女の子のフリをして、「いやーん」「うふふ」「にっこり」という演技をするのが、ぶりっ子だ。それと同様に、読書感想文でも、優等生っぽくふるまえばいいのだ。
 たとえば、こうだ。
 「主人公は素晴らしく立派なことをしたので、僕も自分の人生では同じように立派にふるまう努力をしたいと思いました」
 というふうに。
 だいたい、読書感想文に求められているのは、そういうタイプの文章が多い。ほとんどワンパターンになるが、それでいいのだ。ただの模範解答にすぎないのだから。あくまで優等生っぽくふるまう文章をこねあげればいいのだ。
 ぶりっ子としてふるまう女の子は、いつもかわいらしくふるまうわけではない。媚びるべき相手に対してだけ、やたらと媚びてふるまうだけだ。つまり、必要な場面では必要なことをする。そういうふうに演技をしているだけだ。……そして、読書感想文もまた同じ。教師の前でだけ、求められる優等生としてふるまえばいい。それが、読書感想文の書き方だ。


 (4) まとめ

 まとめて言おう。
 自分が何を感じるかが大事なのではない。教師が生徒に何を求めるかが大事だ。そして、その傾向に合わせて、優等生を演じればいいのだ。
 教師が読書感想文を評価するときの判定基準は、一つしかない。「優等生っぽい文章」だ。だから、そういう判定基準に合わせた文章を書けばいいのだ。
 特に、その目的に合わせるためであれば、書き方はワンパターンでもいい。
 「主人公は素晴らしく立派なことをしたので、僕も自分の人生では同じように立派にふるまう努力をしたいと思いました」
 というワンパターンだけを覚えておいて、あとは作品ごとに適当にストーリーを組み合わせて、模範答案をこねあげればいい。そのとき、特別に頭を使う必要などはない。流れ作業のように、ワンパターンで作業すればいいのだ。

 たとえば、「鬼滅の刃」であれば、
  ・ 主人公は、妹思いだ。
  ・ 主人公は、すごく我慢をした。(長男だから
  ・ 主人公は、必死に努力をする。
  ・ 主人公は、集中力を高めようとした。

 こういう模範的な点を具体的に例示するといい。その上で、
 「模範的な主人公と同じように、僕も同じように努力したいです」というふうにまとめればいい。
 これだと、ワンパターンになるが、優秀な読書感想文を楽々と書くことができる。いわば流れ作業のように。

 ともあれ、読書感想文などは、ただの流れ作業のように、いい加減に書いておくだけでいい。どうせ教師以外は、誰も読みはしないのだ。そんなことに過度に努力をする必要はない。読書感想文なんてものは、事務的な機械的な作業で、さっさと片付けてしまえばいいのだ。
 目的は、優秀点を取ることだけなのだから。



 【 補説 】
 とはいえ、それで片付けては、話がつまらない。もっと本質的なことを考えよう。

 本質的に言えば、きちんとした文章を書くことはとても大切である。とはいえ、それは、読書感想文である必要はない。むしろ、論説文であるべきだ。そこでは、何よりも「意見」「発想」が大事なのであって、それを明確な文章でまとめることが必要となる。
 だから、学校が生徒に課するとしたら、「小論文を書け」というふうにするべきだ。そして、そこでは、
  ・ 内容の独創性
  ・ 文章表現力

 という二つの柱で評価するべきだ。これはまあ、普通の学術論文の場合と同様である。(学術論文の場合には、前者が極端に重視されるが、学校教育の場合には、二つの柱を同等の重みで評価するべきだろう。)

 ともあれ、学校教育では、読書感想文なんかよりも、小論文を書かせるべきだ。感情表現よりは、論理表現(論説文)を重視するべきだ。そこでは、「本を読んで何を感じたか」というような受動的立場でなく、「どういう意見を発信しようとしているか」というような能動的立場で書くことになる。
 学校教育というのは、そういうものであるべきだ。



 [ 付記1 ]
 論理表現の重視という件では、国語改革がなされた。「論理国語」と「文学国語」に分けて、どちらか一方のみを選択させる……というふうにしたそうだ。
 しかし、これはとんでもない倒錯である。改善しようとして、改悪していることになる。詳しくは下記。
  → 高校の国語改革の倒錯: Open ブログ

 [ 付記2 ]
 学校教育とは別の話だが、ブログに自分の意見を書くというのは、有効なことである。
 読書感想文はあくまで(本が主体なので)受動的なものだが、ブログに書くのは自分の書きたいことを書くという能動的なものだ。そこでは、自分の独自の意見を書くことができる。
 また、それは、何らかの評価や報酬を目的としてなされるのではない。それをなしたということ自体のため、つまり、自分自身のためになされる。そういう形で文章を書くということは、大切だ。また、文章を書く訓練にもなる。
 そしてまた、それは創造的な行為でもある。読者の数が少なくても、きちんとしたレベルの高い文章を書いていれば、世間のどこかで人目に付くこともあるものだ。

 たとえば、こんな文章もある。
  → 文科省さん、いつまで研究者をいたぶるの? - Miroc’s diary

posted by 管理人 at 23:32| Comment(2) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
さすがは管理人さん、鋭い視点ですね。

自分がどう感じたてはなく、求められているものを書くということですね。
私は今まで、素直な感想や、自分だったらこうするとか、こう思う等思ったままを書いていましたが、なるほど、逆だったようです。

なお要約については、自分の言葉ではなく、極力元の文章を変えないでまとめるようにと習った記憶があります。
Posted by 港北 at 2021年01月30日 13:21
昨日NHKで、ぶりっこではない山口百恵が歌を披露していました!
三浦友和の前では、ぶりっ子だったのかな?
と思いながら、管理人さんのユーモアセンスに感心しているところです(笑)
Posted by Hidari_uma at 2021年01月31日 05:58
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

  ※ コメントが掲載されるまで、時間がかかることがあります。

過去ログ