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血液型と性格は無関係だ、という話題の記事がある。
→ 忽那賢志氏による血液型性格判断否定の説明について
これが、はてなブックマークで話題になった。
この記事に対して、はてなブックマークでは、批判的な意見が多いようだ。
> 間違ってはいないがお前の言い方が気にくわない!を長文書いてるだけ。
> 忽那氏の言っていろ事が間違えているわけじゃないので、この内容で「補強」してあげりゃ良いんだよ。
というふうに。一方で、擁護する意見もある。
> この指摘の通りではある。確かに不用意な書き方だった。
> この記事の言う通りやで。気に食わないとかそういう話じゃなく科学に対する姿勢の問題。
以上が、はてなブックマークの現状だ。
私としては、どちらも妥当ではあると感じる。形式的に言えば、忽那氏の書き方は軽率に過ぎるので、科学者としては不備がある。しかし、だからといって、やたらと大げさに詰るべきほどのことでもあるまい。

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しかし一方で、これらの人々に共通して、全員が間違っていることがある。それは、
「血液型と性格は無関係だ」
という主張そのものだ。
これを実証するなら、科学的に実証しなくてはならない。(冒頭記事の通り。)
そして、その科学的な実証として、冒頭記事は次の論文を掲げている。
→ 血液型と性格の無関連性――日本と米国の大規模社会調査を用いた実証的論拠
このページの右上をクリックすると、原論文の PDF が得られる。
で、それを読んでみたら、……
この原論文はまったく非科学的だった。その理由を示す。
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そもそも「性格」とは何か? 科学的・客観的に測定できるものか? いや、違う。それはあくまで主観的・心理的なものである。それを科学的に測定することは難しい。
今回は、次の手法が取られた。
・ 性格のタイプとして、68項目を提示した。
・ そのタイプに当てはまるかを、本人申告で Yes/No で答えてもらった。
この回答における Yes/No の割合を、本人の血液型ごとに分類して調べた。すると、どの項目についても、「血液型による差は見られなかった」という結果が得られた。
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以上が、今回の調査による結論である。
ここからどんな結論が得られるか? 当然ながら、次のことだ。
「この 68項目の性格については、血液型による差は見られない」
一方、この論文では、論理を飛躍させて、次のことを結論している。
「あらゆる性格について、血液型による差は見られない」
ここには大きな論理の飛躍がある。次のことに似ている。
「黒人人種というのものが存在するかどうか、山形県の田舎で調べてみた。すると、1万人以上のサンプルをランダムに得ても、そのなかには黒人人種は見つからなかった。ゆえに、この世界には黒人人種というものは存在しない」
これは明らかに間違いである。なぜなら、地球上の全人類を調べるべきなのに、山形県の田舎だけで調査しているからだ。こんな狭い領域の調査では、広大な領域については結論を出せない。
血液と性格についても、同様だ。血液型性格学の提唱者は「あらゆる性格について血液型の差がある」とは述べていない。むしろ、こう述べている。
「差がある性格もあるが、差がない性格もある。差がある性格については、5%〜10%ぐらいの差が見られる」
たとえば、「人との協調性がある」とか、「突発的な行動を取る」とか、そういう性格では、血液型による差が 5%〜10%ぐらいあると見られている。そして、そういうふうに差があると見られる性格を、たくさん列挙している。あれやこれやと。
一方、今回の調査では、そこに列挙された性格とはまったく関係のないことで調査している。これは、「アフリカで探すべきことを、山形県の田舎で探している」というのに似ている。もともとそこにはあるはずのないものを探しているのである。要するに「見当違いだ」ということだ。
一般に、相手の説を否定するのならば、相手の言い分をそのまま否定する必要がある。たとえば、相手が「協調性の有無には血液型の差がある」と主張しているのなら、協調性の有無について調査をするべきだった。
なのに冒頭の論文は、相手が主張してもいないことばかりを、やたらと調査している。たとえば、こういう性格だ。
・ 日頃の生活の中で充実感を感じている
・ ほかの人の生活水準を意識している
・ 他人との生活水準の差は,2,3年前と比べて大きくなった
・ 一旦,高い生活水準を味わうと,それを下げるのは苦痛だ
・ 楽しみは後にとっておきたい
・ 自分は盗難にあうことはない
・ できるだけ質素な生活をしたい
こういう性格が血液型と関連があるということは、血液型性格学の提唱者は述べていない。
なのに、相手が述べていないことを、いくら否定しても、それは相手の言い分を否定したことにはならないのだ。
つまり、冒頭の論文は、ただの「藁人形論法」であるにすぎない。
典型的に言えば、こうなる。
・ 肯定者 「血液型と協調性とは関係がある」
・ 否定者 「血液型とリア充とは関係がない。ゆえに、肯定者は間違っている」
これじゃ、話がまったく噛み合っていないのだ。なのに、否定者はそのことを理解できない。
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ついでだが、次のような否定論者もいる。
「性格がたったの4種類で分類できるはずがない」
これもまた藁人形論法だ。そんなことは、肯定者は主張していない。「血液型ごとに、性格には差が見られることもある」と言っているだけであって、「4種類の性格だけがある」なんてことは言っていないのだ。
これもまた、論理の飛躍というか、論理の勘違いというか、一種の藁人形論法である。相手が言ってもいないことを勝手に否定している。
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繰り返す。
「血液型と性格は無関係だ」
という主張を実証するなら、科学的に実証しなくてはならない。
そして、そのためには、性格の例として、自分勝手に項目を設定してはいけない。相手が「差がある」と言っている項目を設定するべきだ。そうでなくては、何も実証したことにはならない。
冒頭記事で紹介された論文は、「北極にはホッキョクグマがいる」という主張に対して、南極を調べて、「南極にはホッキョクグマがいないと判明した。ゆえに、北極にはホッキョクグマがいるという説は科学的に否定された」と言っているのも同然だ。
ただの見当違いというしかない。論理の飛躍。非科学的。
[ 付記1 ]
実は、ここで述べたような「科学的調査」は、まったくナンセンスである。なぜなら、そのようなことは、血液型性格学の提唱者(能見正比古)自身が、はるか昔にずっと大規模に実施しているからだ。
上記の論文の執筆者は、たったの 68項目について調べただけだった。しかし能見正比古は、何百か、何千という、多大な項目について調査した。その上で、「血液型ごとに差があるもの」「差がないもの」に分類して、「差があるもの」だけを列挙した。
ついでだが、差があるものとしても、大きな差があるわけではない。けっこう差があっても、5%〜10%ぐらいにすぎない。そのことは本人が示している。
また、差がない性格の方が圧倒的に多い。今回調査の 68項目は、すべてその「差がない」方の性格だ。
要するに、今回の「科学的論文」の調査というのは、能見正比古がはるか昔に大規模にやったことを、小規模でやっただけのことだ。他人の研究のうちの、「ゴミ箱に捨てた部分」だけを拾い集めているにすぎない。
ついでだが、被調査者の数だけは、論文の研究の方が多い。しかし、被調査者の数は、統計的には「正確さ」を意味するだけで、「内容の差」を意味しない。
一般的には、n=400 ぐらいで、そこそこ正確な統計的データは得られる。
→ アンケートで必要なサンプル数は?「100サンプル説」vs「400サンプル説」
この n の数を1万以上にしたからといって、論文の正確さが向上するというわけではない。統計的な精度は高まるが、論文の正確さは最初からゼロである。その点は、サンプル数とは関係ない。
[ 付記2 ]
冒頭の人気記事の趣旨は、まったくおかしいとわかる。「これこそ科学的な方法だ」というふうに紹介しているが、それは能見正比古の方法と同じであり、しかも、調査対象(調査項目数)がはるかに小さい。
「同じ方法で、調査対象がずっと小さいだけ」
というのを、科学的な調査だと見なすのは、あまりにも馬鹿げている。
それを「科学的な調査」と言うのなら、能見正比古の研究成果をそのまま認めるべきだろう。
「血液型と性格とは、関係あるものもあり、関係ないものもある」
と。それこそ、能見正比古が統計的に調べたことの結論だ。
[ 付記3 ]
元の忽那賢志の記事に戻ると、忽那賢志はこう語っている。
だって血液型って単に赤血球の表面の糖鎖っていう糖が鎖状に繋がったものの構造の違いであって、そんなもので性格やら運命やらが変わるわけないじゃないですか。
( → 血液型 )
こんなことを書くのは、まったく情けない。専門分野でさえ、能見正比古に負けている。
能見正比古はこう語る。「血液型とは、赤血球の型を示すだけではない。人体のあらゆる組織において、血液型の差が現れる」
このことは生理学的に説明されている。下記に説明がある。
→ ABO血液型の基礎と問題解決
ここで示されているように、血液型というのは、赤血球にあるだけでなく、血漿にもある。血漿にもあるということは、体中の全細胞においてもある、ということだ。
ちなみに、A型の血液とB型の血液を混ぜると、凝集や溶血という問題が発生する。
→ 異なる血液型を輸血してはいけないのはなぜ
忽那賢志ならば、「A型の赤血球とB型の赤血球が衝突するんだな」と思いそうだが、そうではない。赤血球と血漿との間で、抗原抗体反応が起こるのだ。
忽那賢志は血液型という医学の基礎について、あまりにも無知すぎる。たぶん輸血のイロハも知らないのだろう。呆れた話だ。
[ 付記4 ]
血液型と性格との関係は、生理学的には説明が付く。こうだ。
赤血球の糖鎖は何の影響もないが、血漿または体液における抗原が、脳細胞の神経に影響する。
・ 血液型がA型の人の抗原は、神経に対して抑制的である。
・ 血液型がB型の人の抗原は、神経に対して興奮的である。
この結果、「A型の人は、神経が抑制的であり、B型の人は、神経が興奮的である」というふうに差が出ると考えられる。この「抑制的/興奮的」という神経反応の活動レベルが、個別の性格において、いくらかの差をもたらすと考えられる。
たとえば、A型の人は、神経が抑制的なので、「協調性が重視される場」では、「自己に対して抑制的」となるので、「協調的にふるまう」と見なされる。B型の人は、神経が興奮的なので、「自己に対して抑制的でない」となるので、「協調的にふるまわない」と見なされる。
こうして、「抑制的/興奮的」という神経反応の活動レベルが、個別の性格において、いくらかの差となって現れるわけだ。原理的にはたった一つのことであるのだが、個々の場面では、「協調的であるか否か」というふうに評価されて、別の言葉で表現されるわけだ。
[ 付記5 ]
「悪魔の証明」という概念がある。「存在しないものについては、それが存在しないことを証明することは困難だ」ということだ。
「血液型と性格の関係」もまた同様だ。これが存在しないとすれば、「これが存在しないことを証明することは困難だ」と言える。
先の論文の例で言えば、この論文は、68項目だけを見て、「ここにはない」と示しているだけであり、「どこにもない」とは示していないのだ。
「血液型と性格の関係はないと科学的に証明されている」と主張する人がいるが、そういう人は、「悪魔の証明」という概念を理解できていないのだろう。本人は科学的だと自惚れているだけの、非論理的な人々だと言える。だからこそ、「ここにはない」という証明を見て、「どこにもない」と証明された、と勘違いするのだ。実に非論理的だ。
[ 余談 ]
血液型性格学の本で、まともに信頼性が置けるのは、能見正比古の本だけだ。
一方、それ以外の本はいずれも、「半分は正しく、半分は間違い」もしくは「ほとんどが間違い」だ。
この双方を区別するべきだろう。ちなみに、能見正比古の息子の本もあるが、この息子は不肖の息子で、父親の言うことをろくに理解できていない。話も間違いが多い。
タイムスタンプは 下記 ↓
私はその言葉の前に、「ここで示されているように、」と書いているのに、あなたはそれを故意に削除している。そのせいで、
> 血液型というのは、赤血球にあるだけでなく、血漿にもある。血漿にもあるということは、体中の全細胞においてもある
という一部分だけを取り出しているから、赤血球と血漿とが同じ血液型であるかのように読めてしまう。
実際には、「ここで示されているように、」となるが、その「ここ」というところには、「ABO血液型ランドシュタイナーの法則」というのがきちんと示されている。それを読むべし。
http://kochi-amt.org/academic/yuketu/2016/20160915.pdf
それを読んでもわからないのなら、あなたが単に「ABO血液型ランドシュタイナーの法則」を理解できないだけだ。