2020年10月17日

◆ 定住と農耕(メソポタミア文明)

 古代メソポタミアの文明の発生期には、「農耕ゆえに定住が発生した」というのが定説だが、これは否定されたそうだ。

 ──

 下記のページで紹介されている。橘玲のページ。
  → 「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆された【橘玲の日々刻々】

 一部抜粋しよう。
 ジェームズ・C・スコットはイェール大学政治学部・人類学部教授で、東南アジアなどに残る「非国家」をフィールドワークしてきたが、『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(みすず書房)では、国家というシステムへの批判的な検証の集大成として、「古代史のパラダイム転換」に挑んでいる。原題は“Against The Grain : A Deep History of the Earliest States(反穀物 最初期の国家のディープヒストリー)”。

 と出典を示するとともに、内容を紹介する。
 いま古代史が大きく書き換えられつつある。そのきっかけとなったのはトルコ南東部の古代都市ウルファ(現在のシャンルウルファ)近郊で発見された「ギョベクリ・テペ」という巨大な神殿で、1万4000年前から1万2000年前に建造されたと考えられている。
 この遺跡が考古学者たちを驚かせたのは、周辺地域で農耕が行なわれていた形跡がまったくないことだ。旧石器時代の末期、メソポタミア北部で狩猟採集生活をする部族社会のひとびとは、高度な文化をもち、交易を行ない、万神殿(パンテオン)にそれぞれの部族の神を祀っていたのだ。
 メソポタミア地域では旧石器時代の定住の考古学的証拠が次々と見つかっており、「農耕の開始によって定住が始まり、文明が生まれ国家が誕生した」という従来の歴史観はかんぜんに覆されてしまった。

 つまり、「農耕 → 定住」という説は否定され、「狩猟生活定住の同時発生」が生じたわけだ。その場所は、「狩猟採集民の天国」ともいうべき地域(メソポタミアのデルタ地帯)である。


methopotamia.png
出典:Wikipedia


 ここで、次の疑問を掲げる。
 「なぜ農耕などというものを始めたのか」

 橘玲は「寒冷化」という仮説を紹介しているが、すぐに否定している。これは論理的にも当然だろう。「必要だから発生した」というのは、理屈になっていない。白色 LED であれ何であれ、「必要だから発生した」ということはありえない。「望めば発生する」ということはありえないからだ。(むしろ、「うまく発生したから、それを使うようになった」というだけのことだろう。)

 ──

 では、正しくは? 私が考えるのは、こうだ。
 「それまでは麦があっても、食べ方がわからなかった。しかし、挽き割りにして料理するという方法が発見されたので、以後は麦を食べることができるようになった。だから農耕が始まったのだ」

 この裏付けは、次のことだ。
Q 素朴な疑問。小麦ってお米の様に炊いて食べれないんですか?

A 麦類と米類の大きな違いは、皮の部分の固さです。
麦類は皮が固いため、そのまま水と煮ても、水分がうまく胚乳(白い部分)に入っていきません。
粒のまま炊いても時間がかかりますし、消化しやすい形にはなかなかなりません。
そのため炊くときは引き割状態にして炊きます。
製粉は手間がかかりますし、製粉技術が未熟だったりしていた時代は、小麦粥は食べられていたようです。
( → Yahoo!知恵袋

 ここで、挽き割り(引き割)とは、次のことだ。
挽き割り麦 …… 大麦を臼でひいて、あらく砕いたもの。米にまぜて食う。割り麦。ひきわり。
( → 碾き割り麦

 つまり、「大麦を臼でひいて、あらく砕く」というのが、挽き割りである。そのための道具は、次のような石臼だ。


stone-mill.jpg


 このような石臼の発明にともなって、挽き割りが可能となった。そのときようやく、麦を食べることができるようになって、農耕が可能となったのである。つまり、石臼が発明されるまでは、麦があっても、まともな食料とはならなかったのだ。

 以上が私の説である。

 【 追記 】
 初期の石臼は、こういう円盤状ものではなく、もっと原始的なものであった。
 石臼には、石の皿を使うサドルカーンと、円盤状の石を使うロータリーカーンがあるが、初期は前者であり、後者は後になって出現した。詳しくは下記を参照。
  → 臼 - Wikipedia

 サドルカーンの画像は


Saddle_Quern.jpg
出典:Wikipedia 英語版

 画像一覧は
  → Google 画像



 [ 付記1 ]
 小麦や大麦は、当初は野生種だった。それはあまりにも小さくて硬かった。しかし品種改良されることで、いろいろと食べやすくなっていった。また、栽培しやすくなっていった。
 栽培のしやすさについては、下記の説明がある。
 ユーラシア大陸中部のコーカサス地方からメソポタミア地方にかけてが原産地と考えられている。1粒系コムギの栽培は1万5千年前頃に始まった。
 テル・アブ・フレイラなどから採掘された古代の野生種ムギはもともと成熟すると麦穂が風などにより容易に飛び散る性質を持っており、当初のコムギも収穫には非常に手間のかかる作物であったと考えられている。
 シリア地方からヨーロッパなどに栽培の範囲が広がるにつれて品種淘汰がなされ、この種子の飛び散りやすさの特性が失われ、主食穀物としての座を獲得することになった。栽培植物化の時期はオオムギの方がやや早く、当初はオオムギの方が重要な作物であった。これは、オオムギの収量の多さや収穫時期の早さ、粒の大きさなどによる。
( → コムギ - Wikipedia

 これに続いて、次の記述がある。
 この時期はコムギもオオムギも粥として煮て食べるものであったため、調理方法の差が重要となることはなかった。
 しかし、製粉技術が進歩し碾き臼が登場すると、粉食により美味さが増し、グルテンを持ち様々な料理へと加工することが容易なコムギがオオムギに代わって最重要の作物となっていった。製粉のための水車を人類初の機械発明とする説もある。

 初期には挽き割りで粥にして食べたこともあるようだ。しかし粥では(水分が多すぎて)まともにカロリーを取れない。あまり実用的ではないだろう。
 ちゃんと実用的になったのは、製粉という技術ができたからだ。このとき初めて、小麦粉を練って調理する(煮る・焼く)ということが可能になって、小麦粉を最重要の作物として食べることができるようになった。さらには、イースト菌で発酵させてから焼いて、パンを作るということもできるようになったのだろう。
 というわけで、製粉という技術はとても重要だ。ただし、そうなったのは、のちの時代のことだ。当初は、麦は挽き割りにして、粥として食べられた。そして、それができるようになったとき、定住が始まったのである。
 
 [ 付記2 ]
 挽き割りから製粉に移るには、文明が必要だった。なぜなら、同じように石臼を使うにしても、単に「細かく挽く」ということだけでなく、「皮を選別して取り除く」ということのためには、複雑な技術が必要となったからである。
 昔の小麦製粉は至って簡単でした。小麦を石臼で挽いて、篩(ふるい)にかけ、網の目を通り抜けたものが小麦粉になりました。
 ただこの方式は簡単ですが、皮の部分が小麦粉に混ざってしまい、パンがごわごわして、食感もよくないという欠点がありました。表皮が混じると食物繊維やビタミン群などが摂取でき、健康に良いのは確かですが、充分すぎるほど食物繊維をとっていた先人達は、それよりももっと白くてふんわりとしたパンを食べたいと思うようになりました。

 では、「白くてふんわりしたパンを焼くにはどうすればいいか?」。これは表皮が混入することなく、小麦の胚乳部分だけを、いかに取り出すことができるかにかかっています。ところが石臼でいきなり小麦を小さく挽いてしまうと、胚乳も表皮も小さくなり取り分けが不可能になります。
 そこで先人達は知恵を絞り次のような方法を考案しました。つまり最初はできるだけ小麦を大きく割り、表皮を傷つけることなく、胚乳の塊だけをとりだします。そして次にこの胚乳の塊についている表皮の破片を取り除いてきれいにし、この胚乳の塊をだんだんと小さくして、最終的に小麦粉の大きさにまでしてやります。こうすることによって、表皮の混入を飛躍的に軽減することができました。
( → 

 ここには書いてないが、「篩(ふるい)にかけて選別する」という方法が何段階も取られていたのだろう。そこまで思いつくには、かなり先まで見通す思考力が必要であり、そのためには文明が必要だったはずだ。
 その文明は、麦の粥によってもたらされたのである。そして、麦の粥をもたらすような農耕と定住は、狩猟生活によってもたらされたのである。豊かなメソポタミアで。

 [ 付記3 ]
 人類が農耕を始めたことには、別の理由も考えられる。それは「穀物は保存食になる」ということだ。
 一方、肉・魚・魚介類は、生鮮食品であり、日持ちがしない。すぐに腐ってしまう。これでは不便だ。
 メソポタミアは、中東とはいえ、冬には最低気温が5度ぐらいになる。雨が降れば、体が冷えるので、外出したくない。そんなときに、肉・魚・魚介類を採集するのはしんどい。それよりは、(粗末な)家のなかにいて、穀物でも食べている方が楽だ。
 穀物は、当時の人々にとっては、一種のインスタント食品だったのである。そういうものがあれば便利なので、便利なものを人々は使うようになったのだ。これがつまり、農耕が始まった理由である。



 【 関連項目 】
 古代メソポタミアは、アフリカから渡ってきた人類が、まとまって住んでいた領域である。
  → 人類の移動 2: Open ブログ

 ここでは、ネアンデルタール人との混血が起こったと考えられる。ただしそのときの総人口は、かなり少なかったはずだ。
  → [新]ネアンデルタール人との混血: Open ブログ

posted by 管理人 at 16:15 | Comment(4) | 生物・進化 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
面白い発想です。
摺り石臼が無ければ粉はできない。
それでも穀物が定住を生む。
狩猟場所も実は含めてなのだろうと思います。

石臼、ググッてみると、
臼は5千年前には日本でも出土あるようですが、
石臼伝来は6百年頃
エジプトも丸石のコロ潰しで脱穀
紀元前後の何処かで摺り石臼が発明され、
それが小麦文化へと繋がったのかも。
エジプトは少なくとも小麦栽培していても、
どうも丸石のコロ潰しの脱穀だったようで、
手間や粉具合は突き臼の脱穀程度。

だけどそもそも、その頃に暖かかったのが、
メソポタミアなど今の砂漠地帯だけだった。
それが何故なのか、を文明研究者は研究すべき
結局は太陽活動に尽きるのではないか。
湿潤だったエジプトが、今、
我々現代文明の目の前に再び現れるのでは?
例えば欧州、九月末から大寒波。
三国志の頃の中国も、大寒波。
寒いより暖かいほうが獣も人も嬉しい。
寒冷期に生物が今の砂漠地帯に集まっていた。
そこに人の発想が工夫→知恵→英知→次の発明
その階段を登ったのではないでしょうか。
Posted by メルカッツ at 2020年10月17日 21:48
 [ 付記1 ] の前に 【 追記 】 を加筆しました。

 最後に [ 付記3 ] を加筆しました。
Posted by 管理人 at 2020年10月17日 23:23
冒頭に引用で示しておきながら読んでおられないのですか?反穀物の人類史

もう少し説得力のある仮説と考察が展開されているので、根拠や裏付けに乏しく思い込みの激しい自論を展開される前に、一読されることをおすすめします
Posted by とおりすがり at 2020年10月26日 16:25
 その本のことは、ググってみました。
  https://www.msz.co.jp/book/detail/08865/
  https://book.asahi.com/article/13090000
  https://honz.jp/articles/-/45497

 いかにして国家が成立したか(奴隷制が重要だった)というような話が記してあるようですね。

 一方、本項が扱っているのは、「いかにして農耕が始まったか」です。
 その本と本項では、主題が違います。別の話をしているんだから、話が一致していないのは当然です。

 あと、本項が間違っているというのなら、間違っているという証拠を出せばいいだけの話。「根拠や裏付けに乏しく」というのは、批判にはなっていません。最初は「根拠や裏付けに乏しく」というのは、当たり前の話。
 だいたい、学者が何年も精魂込めた研究のレベルに、素人の1日分の思いつきがレベル的に到達していないからといって、文句を付けるのは、根本的に筋違いだ。ここは学会誌ではありません。
Posted by 管理人 at 2020年10月26日 16:51
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