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ミステリー(推理小説・ドラマ・映画・マンガなど)では、「誰が真犯人か?」( Who )を扱うものがある。
一方、「いかにして犯行をしたか?」( How )を扱うものもある。これは、論理的に推理する本格物の推理小説に多いが、ひところは盛んになったものの、最近ではすたれつつある。(すたれつつあるということを皮肉った小説もある。東野圭吾の書いた、メタ推理小説がそうだ。)
現在で主流なのは、本格物ではなく、「誰が真犯人か?」( Who )を扱うサスペンス物だ。「2時間サスペンス」なんていうドラマが流行ったこともある。
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さて。こういうふうにサスペンス物が流行ると、それを見た推理小説ファンが、文句を言うことがある。
「材料をすべて開示した上で、あとは論理できちんと犯人を推理するべきだ。作者と読者は対等の立場になって、推理力を競うべきだ。なのに、今のサスペンス物は、最後になっていきなり隠された新事実が次々と出てきて、解決編となってしまう。こんなふうに手の内を隠して解決するのは、フェアじゃない」
ありゃりゃ。 (^^);
まあ、そう思う気持ちは、わからなくはないですけどね。
私の方から、説明しておこう。
《 以下、ネタバレを含みます。ネタバレが嫌いな人は、読まないでください。 》
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Who done it(誰が真犯人か)を扱うサスペンス物というのは、論理を競うゲームではない。もっと別の楽しみ方をするものだ。
実は、Who done it(誰が真犯人か)を扱うサスペンス物では、犯人を当てることはかなり簡単である。次の方法を取ればいい。
「一番怪しくない奴が真犯人だ」
これは、ちょっとマンガっぽい(ギャグっぽい)話だが、実は、真実である。
サスペンスものでは、通常、次の原理で構成される。
「いかにも怪しい奴が数人いて、真犯人はこの中のどれかであると思わせる。一方、主人公は別にいる。他方、主人公の友人みたいな資格の人がいて、いかにも善良で聖人みたいな感じになっている。この人だけは犯人ではない、と思われる。仮に、この人が犯人だとしたら、自分で自分を逮捕させる形になってしまって、話がおかしくなるからだ」
こういうふうにしてストーリーを組み立てる。
そのあとで、最後に、意外な真犯人が判明する。それは、最も怪しくない人である。つまり、いかにも善良で聖人みたいな感じの人だ。(あれれ。まさかあ。)

これがサスペンス物の原理だ。
だから、あとは、この真犯人がまさしく真犯人であることのストーリーを組み立てればいい。
通常、次のようになっている。
・ 論理的には、犯人は誰もが犯人になれる。(密室の逆)
・ 動機的には、その人だけは犯人であるとは思えない。
そこで、その人だけは犯人であるとは思えないにもかかわらず、「実は犯人であるような動機がある」というふうに、話を組み立てればいいのだ。
そして、そのために必要なのは、人間心理に対する深い理解である。
つまり、ここでは、論理とは正反対の「人間性への理解」が求められているのだ。
それはまた、「人間性における矛盾する感情の理解」でもある。たとえば、こうだ。
・ 愛するがゆえに憎む
・ 愛するがゆえに殺す
・ 殺したくないので殺す
・ 殺したことに深く後悔するが自首しない
こんなふうに、いろいろと矛盾した心理が生じる。ここでは決して、「利己的な悪人が悪巧みで殺人する」というような単純な心理は成立しないのだ。
本格物が理系の人向けの科学的な話だとしたら、サスペンス物は文系の人向けの文学的な話だとも言える。まるっきり傾向が異なるわけだ。
それゆえ、楽しみ方も異なる。
したがって、サスペンス物を見て、「論理で解決できないぞ」と不平を垂れるのは、「寿司屋でスパゲッティを食べられない」という不平を垂れるようなもので、見当違いと言うしかないのだ。
[ 余談 ]
「事実は小説よりも奇なり」を地で行く話があった。麻薬組織の首領を探っていったら、実は麻薬組織を取り締まる政府部門のトップだったと判明したそうだ。自分で自分を取り締まるフリをしていたそうだ。ここまで来ると、口あんぐりである。
→ 麻薬組織の首領の正体は…メキシコ前大臣、米で身柄拘束:朝日新聞
ともあれ、ここでも、一番怪しくないやつが犯人だったわけだ。
[ 蛇足 ]
本項を書いたのは、最近、「 Who done it 」を扱う連続ドラマを見たからだ。それが何というドラマかは、言わないでおこう。ネタバレになるので。
いつも核心、本質を指摘されている、このブログが大好きです。寿司屋でラーメン、カレーが頼める時代ですが、寿司を頼むようにします。中身の無いコメント失礼しました。