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天下の分け目は関ヶ原の戦いだ……と思われがちだが、そうではない。関ヶ原の戦いは、一応は勝敗が付いたが、明白な決着が付いたわけではない。むしろ混沌と化しただけだ。(それまでの豊臣の統一政権が、家康との東西分権になった。)
天下の分け目となったのは、大坂の陣(冬の陣・夏の陣)である。冬の陣では家康の側がほぼ勝利し、夏の陣では家康の側が一方的に勝利して、豊臣を滅ぼした。
では大坂の陣で、家康が勝利した理由は何か? これが問題だ。
世評では、
「豊臣の側が掘を埋めるのを許したことが失敗だった」
と言われることが多い。だが、これはいかにも、豊臣側を間抜けな阿呆だと扱う認識である。
実は、豊臣側は、間抜けだからそうしたというよりは、「そうせざるを得ないからそうした」つまり「受け入れなければ、その時点で滅ぼされていたから、やむなくそうした」と見なす方が妥当だろう。
つまり、大坂の冬の陣で事実上、勝敗は決着していた、というわけだ。では、何が勝敗を決着させたのか?
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これについて、NHK の歴史秘話ヒストリアで、面白い見解が出ていた。
→ 歴史秘話ヒストリア「戦国マネー・ウォーズ」 | 歴史秘話ヒストリア
当時の世界最先端のハイテク兵器として、オランダの大砲があった。その大砲を家康は導入した。大坂の冬の陣では、戦いの途中から大砲が運び込まれて、大阪城を一挙に攻略した。つまり、ハイテク兵器の有無が天下の分け目となったのだ……という説である。
そこで調べてみると、大砲とは、次のような兵器であった。
和議交渉が暗礁に乗り上げた翌16日から、全軍より一斉砲撃が始められる。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に打ち込まれ、また、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿御対面所(俗称千畳敷)に目標を変更した砲撃が和議締結まで打ち込まれ続けた。
6月頃にイギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門(半カノン砲に比類)も含まれていると思われる。
( → 大坂の陣 - Wikipedia )
右図:カルバリン砲と半カノン砲
こういう大砲 100門以上が、休みなく打ち込まれ続けたのだから、さすがの大阪城も破壊されて、降伏せざるを得なくなったのだろう。
NHK の解釈には、「なるほど」と思わせるところがある。「豊臣側は間抜けだから堀を埋めるのを許したんだ」という説よりは、よほど信憑性が高いと言えるだろう。私としては、一応、支持したい。(大絶賛というほどではないが。……新型フェアレディZ への支持と同程度。)
[ 付記 ]
以上の話とは別に、「家康が嘘をついてだましたから」という勝因もある。和議では外堀を埋めるだけだったはずなのに、勝手に内堀まで埋めてしまった。約束違反。
嘘をついて、だまして、相手を滅ぼして、天下を奪ったのだから、日本史上最大の詐欺師(ペテン師)とも言える。
これに比べれば、ユーグレナという詐欺師など、まだかわいげがあるというものだ。
[ 余談 ]
「大坂」と書いたのは、明治半ば以前では、「大阪」は「大坂」と書かれていたから。
→ 「大阪」は昔は「大坂」と書いていたそうですが、いつから、なぜ変わったのですか?|漢字文化資料館
なお、「大阪城」は、この文字。