2020年01月24日

◆ 映画キャッツはなぜ失敗したか?

 ミュージカルで有名な「キャッツ」が映画化されたが、酷評の嵐である。なぜ失敗したのか?

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 ミュージカルで有名な「キャッツ」が映画化された。








 だが、酷評の嵐である。
「この10年で最大の災害」
「その不気味な映像は、何世代にもわたって視聴者を悩ませるに違いない」
「ホラーであり、忍耐テスト」
「まるで集団幻覚を見せられているようだった」
「思い出したくない」
「悪夢のような映画」
「忘れたくても忘れられないだろう」
「私は一体、何を見せられたのか」
( → 【興行成績】なぜ映画「キャッツ」は爆死したのか?

「不浄で未知のポルノだ。FBIが劇場に乗り込んでくるかと思った」
「ホラーであり、忍耐テスト」
「『キャッツ』に点数を与えるとしたら、玉ねぎかな(猫に玉ねぎを与えると中毒症状を引き起こすため)」
( → 猫人間騒動の真相 話題の新作『キャッツ』映画版に何が起きた?(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

 では、こうなったのはなぜか? 

 次の評がある。
 結局のところ『キャッツ』の魅力を支えるのは、ネコに扮する人間たちだ。『キャッツ』は、滑稽であることに徹した壮大なショーである。しかし、この壮大さを生み出すのは役者たちの努力、そして衣装係、メイクアップアーティスト、振付師といったクリエイターたちの奮闘にほかならない。
 理屈のうえでは、この映画はそのすべてを備えている。大がかりなセットには熱意のほどが表れているし、ダンスも見事だ。ところが、SFXのせいで圧迫感が生まれ、いくらかましなシーンさえも精彩を欠いている。このため、出演者たちをネコらしく見せるためのテクノロジーが醸し出す、汚らしい印象のみが目立ってしまうのだ。
 その結果、フェイク感満載のバランスの悪い仕上がりになってしまい、見ているほうは気が散ってしかたない。ネコのサイズはあれで正しいのだろうか。スタッフのうち誰かひとりでも計算してみたのだろうか。
( → 映画化された『キャッツ』は、ネット民の予想通りに“微妙な作品”だった:映画レヴュー|WIRED.jp

 もっともらしいが、どこかピンボケである。
 一方、朝日新聞には、褒めているのか、けなしているのか、わからない評がある。
 その映画化は当然万人向けのエンターテインメントとなるはずだろう。だが、なぜかこの映画のクリエーターたちは特別な映画を作ろうとした。歴史に残るような突出した作品を。まちがいなくその試みは成功した。これは10年に1本の怪作として映画の歴史に残る映画だ。
( → (プレミアシート)「キャッツ」 強烈、猫人間との遭遇:朝日新聞

 「怪作」というキワモノとして評価している。これでは作者は、褒められて喜ぶどころか、憤慨しそうだ。
 ただ、この記事には、次の話が興味深い。
 「キャッツ」は野良猫たちが自分の人生を歌い上げる一夜限りの歌合戦を描く。この映画のクリエーターたちは、人間の俳優たちをCGによって猫に変身させようと考えた。結果生まれたのは人間のプロポーションをもち、全身に毛皮をまとった猫人間である。

 ここには「猫人間」という言葉がある。
 同じ言葉は、他の記事にも見られる。
 昨夏、予告動画が公開されると、VFX(視覚効果)で人間のスタイルのまま毛を生やし、尻尾を振る出演者に「恐ろしい」「身の毛がよだつ」と拒否反応が続出。外見への違和感が、最終的な評価にも響いたようだ。
 英ガーディアン紙は「突然変異した、デジタル製毛皮の『猫人間』」。米ニューヨーク・タイムズ紙は、名優デンチの姿を「ヨーダを連想させる毛玉に、ひだえりをつけたよう」とするなど容赦ない。 
( → 映画「キャッツ」酷評のわけ 24日、国内公開:朝日新聞

  → 猫人間騒動の真相 話題の新作『キャッツ』映画版に何が起きた? | FRIDAY
  → 映画『キャッツ』予告編、奇怪な猫人間の姿にネット騒然:AFPBB News

 いずれも「猫人間」という言葉を使っている。
 そして、その理由は明らかだ。キャラクターが猫と人間の中間の形態をしており、まるで「猫と人間の混血種」のように見えるからだ。それはいわば、「と人間の混血種」というのと同様に、気味の悪い存在なのである。

 なお、「人面猫」という表現を使っている記事もあるが、趣旨は同じ。
  → ある意味驚愕のVFXで贈る『キャッツ』映画版、初の予告編。踊り歌う人面猫にファン困惑

 ──

 ここまで考えると、重要なことに気づく。こうだ。
 「元のミュージカルのキャッツでは、猫の着ぐるみを着た人間が演じていたが、それは、〈 猫と人間の混血種 〉なんかではなかった。それはあくまで、猫であった。人間が猫を演じていたのである。そして、そのすべては、おとぎ話の世界でのことだった。それは現実の話ではなく、夢幻(ゆめまぼろし)に等しい、おとぎ話の世界でのことだった。その舞台は、現実世界のことではなく、一種の象徴の世界でのことだった。それを、演劇という形で可視化したのである」

 ミュージカルの中の世界は、おとぎ話の世界である。そこでは、人間が着ぐるみを着ることで、猫を演じていた。人々は猫の着ぐるみを着ている人間を見ているだけなのだが、それを猫の世界であると解釈していたのだ。そこには一種の「観客との間の暗黙の合意」があった。

 映画ではどうだったか? そこに登場したのは、猫だったか? 人間が猫を演じることによって得られた、人間のような姿をした猫であったか? 違う。それは猫ではなかった。それは猫人間だった。それは猫でもなく、人間でもなく、猫と人間の中間の形態をもった奇怪な生物だった。
 そこには「暗黙の合意」などはなかった。人々はその世界を「おとぎ話」と解釈することもなかった。

 ──

 ここまで理解すれば、物事の本質がわかるだろう。
 ミュージカルでは「舞台による象徴化」という暗黙の合意があったが、映画では「舞台による象徴化」という暗黙の合意はなかった。そこでは、リアルさにこだわって、精緻な画像処理( CG、VFX )はあったが、そのせいでかえって、「人間の想像力」による「(想像世界への)象徴化」という過程が不可能になってしまった。その結果が、「猫人間」という奇怪な生物の出現だったのである。
 かくて、舞台においては「象徴による昇華」という芸術的感動が得られたのに対して、映画では「リアリズムによるグロテスクさ」という不快感ばかりが得られたことになる。

 ──

 すぐ上では、《 舞台においては「象徴による昇華」という芸術的感動 》と述べた。このことを少し説明しておこう。
 ミュージカルの「キャッツ」では、人間が猫を演じた。では、そこにおいて現れた猫は、本物の猫であったか?
 形式上は、「イエス」だ。そこに現れたのは、まさしく本物の猫である。
 ただし、その猫は、人間の象徴としての猫だった。たとえば、
  ・ 長靴をはいた猫
  ・ 百万回生きた猫
  ・ フィリックス・ザ・キャット

 というような猫が、寓話には出現する。これらの猫は、あくまで(動物としての)猫であるのだが、人間の言葉を語っており、人間の象徴としての猫となっている。

 つまり、ミュージカルの「キャッツ」には、二重の意味の「象徴化」がある。
  ・ 人間が猫に扮することで、人間が猫に象徴化される。
  ・ その猫はあくまで、人間の象徴としての猫である。


 人間は、着ぐるみを着ることで、猫のフリをしているのだが、そこに現れた猫は、本来の猫ではなくて、人間の象徴としての猫であるのだ。そういう二重の「かわりをする関係」があるのだ。
 このような複雑な関係性が、ミュージカルの「キャッツ」にはあった。
 ところが、映画の「キャッツ」には、そういうものは一切なかった。かわりに、リアリズムにこだわった。そして出来上がったものは、「猫人間」つまり「猫と人間の中間種」であるにすぎなかった。
 あまりにも底が浅い、と言えるだろう。

 以上のように、物語の「構造」や「象徴性」を認識することで、映画「キャッツ」が失敗した理由を知ることができる。



 [ 付記 ]
 では、映画「キャッツ」はどうすればよかったか?
 そもそもの原因として、気持ち悪くなる理由を分析した記事がある。
 登場する猫たちは、舞台版ではグラムロック風の衣装でフサフサの毛に覆われ、身体のラインが見えにくかったのに対し、映画版ではCGを使用して、肌に直接毛が植えられているような合成が加えられている。そのことでハッキリした身体のラインがセクシーに見えてしまったり、人間の頭身で猫を演じることのアンバランスさが強調されてしまったのだ。もちろん劇中の“猫人間”たちは、そんな違和感には構わず当然のように振る舞い、歌い踊り続けるため、フラストレーションを感じた批評家が多かったのではと想像する。
 たしかに、そのように思わせてしまったという点だけを見れば、失敗だと言われても仕方がない部分がある。しかし、映画版に従来のグラムロック風のデザインをそのままとり入れたとしたら、現代の基準では古くさいセンスに感じただろうし、映画のスクリーンに顔が大写しになった場合、舞台のように強いメイクではキャラクターに感情移入しにくく、作り物であることがハッキリしてしまったのではないだろうか。要するに、この見た目になった経緯には、それなりの理由があるのだ。

( → 猫人間騒動の真相 話題の新作『キャッツ』映画版に何が起きた?(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

 話の前段は、先に述べたことと同様だ。その繰り返しふうだ。(特に再考する必要はない。)

 話の後段は、ごもっとも、という感じもする。たしかに、映画版でミュージカルと同様のことをやったとしても、わざとらしさが感じられて、失敗作となるだろう。着ぐるみの猫姿をアップで大写しにしても、「どっちらけ」という感じで、興醒めになってしまいそうだ。
 とすれば、結論はただ一つ。こうだ。
 「キャッツは、ミュージカルに特化した作品である。それはミュージカルでのみ意味を持つような作品だ。それを映画化しようとする試みそのものが、根本的に間違っていた」

 比喩的に言えば、「ミュージカルの映画化」というのは、「オペラの映画化」というのと同様に、ナンセンスなのである。
 どうしてもやるなら、舞台そのものを定点カメラで撮影して、「舞台そのものの映像化」とするべきだった。それなら、舞台を見たことのない人にとって、舞台を見る喜びを与えることができる。
( ※ 実際、オペラ映画というのは、しばしば作られている。あくまで現実の舞台を撮影しただけだが。)

 今回は、「舞台そのものを撮影する」というのではなく、舞台を原作とした映画作品を作ろうとした。そのことが根本的に狂っていた、と言えるだろう。
 たぶん、「アニメの実写化」とか、「小説の映像化」とか、そういうのと同様のことをしようとしたのだろう。しかし、キャッツのような、象徴的な舞台を映画化するというのは、あまりにも無謀なことだったのである。
 もともと映画にはなり得ないものを映画にした、という点で、根本的な錯誤があったと言えるだろう。ミュージカル「キャッツ」への無理解と誤解が、このような奇怪な作品を生み出した、と言えるだろう。

( ※ 朝日新聞の評価では「怪作」として褒めているようだが、この映画の製作費は 9500万ドル、つまり、百億円である。これは実験作の製作費ではなく、大衆向けの大成功を必要とする製作費だ。興収は低迷して、大赤字は確実とみられる。 → 記事:赤字は必至
( ※ つまり、映画として質的に大失敗しただけでなく、商業作品としても金銭的に大失敗したことになる。)



 【 関連サイト 】

 → 米国で酷評の映画『キャッツ』を観に行ってG(ゴキブリ)を目撃する人々 - Togetter

 
posted by 管理人 at 22:03| Comment(0) | 一般(雑学)6 | 更新情報をチェックする
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